第十六話 こんな静かな雨の日に……安定志向!
その日は朝から雨が降っていた。
俺は安楽椅子からずり落ちる寸前のリラックスした姿勢で、本を読んでいた。
この世界の歴史書というのは、いわば『ジャイアント・サーガ』の設定資料集だ。
ハマったゲームの知らない知識を読みあさるのは、媒体がネットだろうと紙だろうと変わらずに楽しい。
パニシードは朝からシルクローズの花弁に頭を突っ込んで、酔っ払ったまま寝ている。
グリフォンリースも、今日は遊びに来ない。
ああ、静かで平和で、なんてのんびりした一日なんだ。
魔王グラバグから三日。
俺は世界の平和の中心にいる気分だった。
雨脚が少し強まったらしい。
だから、そのドアノックをちゃんと聞き取れたのは、本当にそれ以外の音が絶えた、穏やかな日だったってことだ。
……そいつが来るまでは。
「はーい」
俺は返事をしつつ立ち上がった。
部屋に鍵はかけていない。
不用心とは言うな。
魔王をバグらせて以来、世界情勢は序盤へと戻っている。
つまりレベル23(〈ガルム〉を倒してレベル上がった)の俺は、いまだ世界最強の探索者なのだ。
扉を開けると――ずぶ濡れの少女がいた。
雨の中を傘も差さず歩いてきたのだろうか。
年齢は十歳くらいだろう。
小柄で、肩幅は不安になるくらいに細い。
髪は金色。雨のせいで緩くウエーブしているように見えるが、実際は綺麗なロングストレートなのではないかと思われた。
前髪は綺麗に揃えられたぱっつん状態。うつむいているせいで、目はその前髪に隠されている。
品のあるブラウスとロングスカートは、アパートの同居人たちが着ているデザインのものと少し似ていて、高価なものだとわかる。
いいところのお嬢ちゃんといった感じだ。住人の妹が訪ねてきたのだろうか?
しかしなんでずぶ濡れで?
しっとりと濡れた布地からうっすら見える白い肌は気にしないようにしつつ、俺はたずねた。
「どちら様かな?」
小さい子には優しく接しないとね。
少女は顔を上げ、初めて俺と目を合わせた。
その青い瞳は、明らかに雨ではない水滴に彩られていた。
「おまえか。我をこんな目に遭わせたのは」
「へ?」
「我は魔王ディゼス・アトラだ」
「え? え?」
言葉がうまく出てこなかった。
この女の子、今、何て言った?
「と、とぼける気か! 我は知っているぞ。おまえが怪しげな術をかけたせいで、我はこんな体になってしまったのだろう!?」
魔王? ま、まさか?
魔王がグラバグで変わったのって、女の子だったのか……?
魔王を名乗る少女の目から、ボロボロ涙がこぼれ出した。
「こんな体では他の魔物どもを使役などできん。それどころか、逆に取って食われてしまう可能性すらある。見つからぬよう身を潜め、どうにかここまでたどり着いたのだ……」
「よ、よく見つけられたな……」
「声が聞こえたのだ。我をこんな体にした者は、人間の町にいると」
「声……? 誰だ?」
「わからん。だが、声に従い裏庭の木に体当たりをしていたら、なぜか人間の城の地下に出た」
あのバグ穴使ってここまで来たのかよ!
その声の主が気になるところだが……今は目の前の問題の方がヤバイ。
「俺に……何の用だ?」
復讐か。あるいは、元の姿を取り戻すため、俺を殺しに……?
ま、まずいだろ! レベル23で魔王戦なんて……。
「我を匿え」
「え」
「我を匿えと言ってる」
にらむようなツリ目で俺を見上げてくる魔王。しかし、グラ変した少女があまりにも可憐すぎたのか、ヘソを曲げて涙目でむくれているようにしか見えない。
「こんな脆弱な体では、我は生きられん。ならば、そうしたおまえが我を保護し、養う責任があるはずだ。それが人の道だろう」
「えぇ……」
何それ。何で俺が魔王のなれの果てを養育しないといけないんだよ。
俺としては魔王が消滅してくれれば、万々歳なんだけど。
「な、なんだ! いやだと言うのか! 我をこんな体にして弄んでおきながら! まだ嬲りたりないというのか! この上、さらに辱めようというのか!」
「まっ、ま、待てっ。そんな不穏な単語を連発するな! 誰かが聞いたら誤解する――」
カッと走った稲光が、俺の視界を一瞬、白く濁らせた。
俺は、悲壮に泣き叫ぶ少女の背後に、光のない目を見開いた人物が立っていることに、そのときになってようやく気づいた。
「こたろーどの……?」
「ほファツ!? グ、グリフォンリース!?」
ゴロゴロゴロ……。
空が唸った。あるいはそれは、どこかの少女の感情が黒く濁る、その音だった。
「こたろー殿は……この少女に何をしたでありますか……?」
グリフォンリースは、普段は見ないワンピース姿だった。確か、買い物に行くとか言ってたはずだ。ひょっとして、この服を買ってきたところだったのか? それを、早速俺に見せに来た? そこで、この光景を見た? あ、あわわわ……。
「お、落ち着け、グリフォンリース……」
「自分は落ち着いてるであります……」
絶対ウソだ。さっきからまばたき全然してないもん。声が異常に無感情だもん。目に何も映ってないもん。手に……手に何か尖ったもの持ってるもん!!
意識を向けすぎたせいか、こんなときにグリフォンリースのステータス画面が脳裏で開いた。
依存:146 嫉妬:208 行動:147 反省:1
ンヒイッ!? なにこの偏った数値!
確認してなかったけど、戦闘に関係ない能力ばっかバリバリ伸びてたのかよこいつ!
てか何で反省の数値下がってんの!? レベル3のときは3くらいあったよなあ!?
「グリフォンリースはコタロー殿のものであります……。コタロー殿にはグリフォンリースだけいればいいであります……。他の女の子なんていらないであります……」
なに!? なに言ってるのこの子!?
「グリフォンリースだけを見てくれないコタロー殿なんて、コタロー殿じゃないであります。偽物であります。絶対に偽物であります。コタロー殿に化けるなんて、ひどいであります。絶対に許せないであります……」
やっ……やっべえええええええええええええ!
グリフォンリースちゃん本当にヤンデレだった!
すごい不安定な闇抱えてたああああああああああああ!
「かっ……勘違いするんじゃないグリフォンリースッ!」
退けば死ぬ! そう思った俺は、大声で怒鳴ると、魔王を押しのけてグリフォンリースに迫っていた。肩を掴むと、命がかかった魂の声で絶叫する。
「俺は本物だ! そして、おまえが言ったとおりだ! 俺にはおまえがいてくれればそれでいい! 思い出せ。俺は最初におまえを選んだ! おまえだけをだ! そしてこれからも俺たちはずっと一緒だ! おまえが俺を信じてくれるならな!」
「…………あひぇ」
あ。気絶した。よ、よかった。チョロさは変わってない。
しかし、闇顔からのトロ顔とは、グリフォンリースの顔芸の切り替えは見事なものよ。
俺はふやけたウエハースみたいになったグリフォンリースを抱き支えつつ、魔王へと向き直った。
「何で魔王に人の道を説かれなきゃいけないのかいまいちわからんが、とにかく部屋に入れ。色々確認したいこともあるしな……」
「おお! 養ってくれるのか! たの……たの……へっくしょん!」
「魔王のくせに風邪ひいてんじゃねーよ……」
俺はずぶ濡れ魔王を部屋に引き入れると、そっと扉を閉めた。
ただの魔王が仲間になりたそうにこちらを見ている