第百五十一話 〈冥道〉にて! 安定志向!
溶岩風温泉から這い上がった俺たちは、早々に着替える必要があった。
洞窟内は温室のような気温なので放っておいても風邪の心配はないのだが、こう衣類がだぼだぼだと動きにも支障が出る。
幸い、パニシードに装備をいくつか持たせてあった。
グリフォンリースの鎧は代替不可としても、防具以外の服は取り替えられる。
俺のすぐ背後で少女二人が生着替えしていると思うと、後頭部に第三の目が生まれそうな心持ちではあるが、『ジャイサガ』プレイヤーはのぞきという行為に対して、ある種の心の傷を持っているので、自重。
心の傷とはなんぞ、と?
前回話した〈エムル〉温泉宿で、風呂をのぞいた際……「キャー エッチ!」とかテキストが表示されながら、実は相手は男だったという壮絶なオチがつくのだ。
これがわかっているから、俺は決してこの世界で〈エムル〉に近づくことはない。
案外、あのダメージ1は、期待に胸を膨らませた先で男の裸を見たという悲しみによって受けたものなのかもしれない……。
さて、用心しいしい洞窟の奥へと戻った俺たちは、いまだ〈グレイブキーパー〉の戻らない無人の壁を目にすることになった。
図らずもバグ通りの状況。〈グレイブキーパー〉は、違うところを探しているのだろうか。近くにあの重苦しい気配はない。
「どうするでありますか?」
アンダーウエアだけを取り替えたグリフォンリースが聞いてくる。
「テュルフィが上手くやったかどうかわからない。仕方ない。俺たちも進んでみよう」
こそこそと壁に近づくと、岩壁を左右に分断する亀裂が、思いの外大きいことに気づく。人ひとりがやっと通れるくらいかと思っていたが、俺たち全員が横に並んでも余裕で収まる道幅だ。
進んでみると、岩壁に囲まれた小部屋に出た。
中央に古めかしく巨大な下り階段があり、周囲には様々ながらくたが転がっている。
これが、〈グレイブキーパー〉が死者たちから取り上げた遺品なのだろう。
色や形がかろうじて判別できるならいい方で、ほとんどが原型をなくし、煮溶けた厚紙みたいな、ぐずぐずの姿になっている。
実はここにも有用なアイテムは転がっているのだが、いつあの死神が戻ってくるのかわからないので、すぐに地下へと下りた。
階段を一歩下りるなり、肌の上をすうと冷たい風が撫でる。
正しくは風ではない。
冷たい空気の中に、自ら飛び込んだのだ。
今になって恐れるのはバカらしい。
この先が死者の寝所であることは、すでに知らされている。
ただ、着替えてきたのは正解だったな、と思うだけ。
赤々と燃えていた洞窟の壁は、いつしか日暮れ前の墓地のような青ざめた色へと変わっていた。
誰からともなく口をつぐんだまま長い長い階段が終わり、地の底へとたどり着く。
ダンジョン〈冥道〉。
その名に違わず、俺の前に広がった光景は、地下墓地――カタコンベのそれだった。
通路の左右の壁には横長の穴がいくつも掘られ、ほぼ同サイズの棺桶が押し込まれている。
「ひっ……」
左右から冷たい手にがっちりと拘束され、俺の心臓が飛び跳ねた。
慌てて確認してみると、グリフォンリースとキーニが、左右から腕をしっかりと掴んできている。二人の顔からは血の気が引き、目にはうっすら涙が浮かんでいた。
「怖いな……」
「怖いであります……」
「こわい……」
他にどんな言葉も正しくない。
意味合い的には〈天球〉も似たようなものだったのだが、露骨に死をにおわせるこの空間は、やはりダイレクトに人の恐怖を刺激する。
しかもだ。
この棺桶の群れは、おとなしく壁に安置されているばかりではない。
床に投げ出されているものもあれば、無造作に立てかけられているものもある。フタがずれているのもあれば、完全にはずれて中が露見しているものもあった。
うっかりその中身を見てしまったのだが……闇である。
元々薄暗いのもあるが、何かが超常的な力で光を拒んでいるとも受け取れる。闇の底から、そっと誰かの手が出てきても何ら不思議はない。
……よけいなことを考えるな、俺。
夜中トイレに行けなくなるのは、大抵、豊かすぎる想像力のせいだ。
「行こう。テュルフィに追いつけるかもしれない」
俺は左右の腕に二人の少女を装備したまま前進した。
あらかじめ言っておくと、この〈冥道〉には敵が出現しない。
生きた者がいないのだから当然だ。ここは死者の都。
すべてが静止している。……はずだ。
つまり、ここで何かに出会うとしたら……。
ってこれ、〈凍てつく都市〉と同じパターンじゃねえか! ふざけんじゃねえ! もう何も考えるな!
冷たく静まり返った洞窟を進んでいく。
ガツッ、と鈍い音がし、真横の棺桶がわずかに動いた。
全身を耳にしていた俺たちにとっては爆音に等しい。
「……ッ!!!!!」
「……!!!!」
「~~ッ!!!!」
ぎょっとした俺とグリフォンリースが音の出所を見やると、キーニちゃんが叱られるのを怖がる小さい子供みたいに目をぎゅっとつぶって固まっていた。
何があったかなんてすぐわかる。
けつまずいたのだ。棺桶に。
俺はすぐさま仏教スタイルで手を合わせ、グリフォンリースも祈りの仕草を切った。
どうか起きてこないでください。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
声は出せなかった。大きな声を出せば、彼らが起きてしまうと、心が確信しているようだった。
返事はない。ただのしかばねのようだ。
震えながら祈りを終えると、俺たちはうなずきあって再び前進する。
すると通路の右側に、直立する人影があった。
テュルフィか? そう思って少し軽くなった足は、すぐさま地面に縫いつけられた。
立っているのは人骨だった。
ボロ布に包まれ、乾燥したミイラのような風貌。
それが展示物のように壁際に並んでいた。
「…………」
進むには、そいつらの前を通り抜けるしかない。
このときばかりは、右側にいたグリフォンリースが左側に退避して、キーニちゃんと一緒になって俺をミイラ側に押しやってきた。やめろ。
右側から突然組みつかれる余計な想像力に苦しみながらも、死者の廊下を通過する。
俺の心のスタビライザーは完全に大破していた。
不意に、開けた場所に出る。
左右の圧迫感が消え、すっと肩が軽くなったのも束の間。
すぐにそこが今まで以上に最悪の空間だと気づく。
これまでが死者たちの一等客室だとしたら、ここは二等客室。
つまり雑魚寝空間だった。
足下には無数の人骨が散らばり、文字通り足の踏み場がない。というか、地面そのものが人骨の層になっていて、地面がまったく見えなかった。
震える仲間たちが、俺の体を左右からぎゅうっと押し潰しにかかる。
いや無理だろこれ。進めないだろ。進めるわけないだろ。
広間の入り口で完全に棒立ちになったときだった。
入り口入ってすぐ横から声がした。
「やあコタロー。君も来たのか」
心臓が体に穴を開けて飛んでいくかと思った。
「テュルフィ……」
広間の壁にもたれて座っているのはテュルフィだった。
無論、その下には干からびた白骨がある。
「うまく潜り込めたのはよかったけど、この地下墓は予想通り広大だ。お目当てのものがどこにあるのか、途方に暮れていたところさ」
「それはいいけど、おまえ……」
まさか人骨に指をさすわけにもいかず、目線だけで訴えると、小さな笑い声が返ってきた。
「ここにあるのはすべて、死者たちの抜け殻だよ。持ち主はとっくにかつての形を捨てて、次の命へと生まれ変わってる。もし僕らが気を遣ってやるべき相手がいるとしたら、それはもっとずっと奥にいる新しい死者たちさ」
その話を信じるなら、〈冥道〉に眠る死者たちは、入り口に近い側から古いようだ。
まあ奥に行くの面倒くさいもんな、電車とかでも、と彼らの気持ちを推し量ってみると、何だか親近感が湧いて恐怖が少しだけ薄れた。少しだけな。
「この大広間から、いくつもの通路が分岐してる。まずは左の壁にある通路を八四個ほど調べてみたけど、それらしいものはなかった。奥まで調べきれなかった通路も多い。このままだと、僕は死者に混じって永遠にさまようはめになるかもね」
「なら、俺が案内する」
「本当かい?」
「おまえには〈アークエネミー〉になってもらわないといけないからな」
目的地の大まかな位置はわかっている。たとえ見知らぬ通路がたくさんあったとしても、むやみにうろつくよりはずっと早く見つかるはずだ。
しかし問題は、やはりこの足下だ。
テュルフィに言われても、どうしてもここを歩くのは気が引ける……。
そんなことを考えたときだった。
カラン。
奇妙な音がした。
思わず仲間たちへと振り返るが、音の出所がそちらでないことは明白だった。
カラン、カラ、カラ、カラ、カラカラカラ……。
それは広間の奥の闇から聞こえていた。
聞こえているだけじゃない。……近づいてくる!
乾いた何かが軽くぶつかり合う音。いや、何かなんて言葉を濁す必要すらない。
人骨だ。人骨と人骨がぶつかっている。
「な、何だ……? 何だよ……?」
音はどんどん近づいてくる。
見えた。
広場を埋め尽くす人骨が蠢いている。
違う! 人骨の中を、何かが移動しているんだ!
硬直する俺たちの前までそれはやって来て……。
半分欠けた頭蓋骨の上あごをひょいと持ち上げ、ついにその姿を見せた。
「命ある者が何してるヂュ!」
そいつはしゃべるネズミだった。
ここで「焉道」という言葉が思い浮かんだら僕と握手!