第百五十話 マグマ・ダイバー! 安定志向!
熟練の『ジャイサガ』プレイヤーがもっとも陥りやすい罠。
それは〝これはバグだ〟と思い込むことだという。
たとえば、起きるはずのイベントが起きなかったとき。たとえば、買ったはずのアイテムが手元になかったとき。たとえば、狙っていたバグがうまく発動しなかったとき。
実際は自分側に手落ちがあったときでも、「これバグだろ」と決めつけてしまう。
界隈にこんなエピソードがある。
『ジャイサガ』のめぼしいバグがおおよそ出尽くし、住人たちの意欲にも落ち着きが見え始めていた頃のことだ。
〈黄金色の虫〉というアイテムを持っていると、通行中に敵に襲撃されるゾーンがある。勝っても負けても所持金を奪われ、所持品もランダムで没収されるという極悪ぶりで、即座に手元がソフトリセットの形に移行する最悪のイベントである。
そのプレイヤーはここを通行中、敵に襲われた。例のキーアイテムを持っていなかったにもかかわらずだ。ルールを守ったのにペナルティを食らう――これは常人ならば怒り心頭の事態である。
彼は早速掲示板に書き込んだ。
やったぞ! 俺は新たなバグを発見した!
〈黄金色の虫〉を持っていなくても襲撃は発生する!
このイベントには新たなバグトリガーの可能性がある!
バグの被害にあったのに欣喜雀躍するのが界隈の人間のサガである。
しかし、興奮気味だった彼に対し住人たちは冷静に言い放つ。
「パニが持ってるんじゃね?」
えっ……。
調べてみる……。
ありました。お騒がせしました。半年ROMります。
以降、彼らしき人物からの書き込みはない。
彼はパーティーキャラの持ち物欄しかチェックしていなかった。パニシードに預けたアイテムを調べず、これはバグだと決めつけてしまったのだ。
このように、人は時として、真っ先に他人のミスを疑ってしまう。本当は自分のミスであったとしても……。
界隈の人間はこの小さな事件に「黄金色の虫」と名づけ、
「何か思い通りにいかなくても、他人のせいと決めつけず、まずは冷静に分析してみよう」
と戒めた。
これは『ジャイサガ』という枠を超え、人生の標語となるべき金言だったはずだ。
なのに、俺は彼と同じ過ちを犯した。
『ジャイサガ』が不可解なバグのオンパレードゲーだと、過信しすぎた。
バグだと思われていたものの中に、説明すら不用な、単なる道理を示した現象が隠れていることを、少しも考慮せずに――。
「うほおおおおおおおう!?」
靴底を走った異様な熱に、俺は奇声を上げた。
うっかり高熱の岩を踏みつけてしまったらしい。
もう、かれこれ数十分は走り続けている――気分だ。
人間の体感時間は、環境によって大きく変わるのであてにならないが。
ぜえ、ぜえ、はあ、はあ……。
のどの奥からみっともない呼吸音が出てくるのも気にしていられないほどの疲労。
レベル99という人外の力を手にした俺たちが全身汗だくなのは、洞窟内の高温も原因の一つ。しかしそれ以上に、いまだ〈グレイブキーパー〉の追跡から逃れられていないという事実が、全身の汗腺を刺激していた。
もうあいつが完全に死神に見える。
誰だよあいつを紳士とか言ったバカは!(自己批判)
こうなったら戦うしかないか……?
そんな考えがチラリと頭をよぎる。
〈グレイブキーパー〉の性能については、数Ⅰの展開公式よりもしっかりと頭に刻み込まれている。
ヤツは、闇属性と無属性の攻撃を得意とする。
特に、三ターン目に仕掛けてくる〈手招き〉は、闇属性の必中全体即死攻撃という、三途の川の向こうからじいちゃんばあちゃんたちがやってくるアレと同じで、闇耐性をつけておかないとその時点ですべてが終わる。
それを凌いでも、四ターン目以降は〈落日〉という無属性即死攻撃を仕掛けてくるので、ワンパンの恐怖からは逃れられない。ましてや、三人しかいない俺たちのパーティで一人でも欠ければ、立て直しは不可能だ。
素の攻撃力も異様に高く、唯一のデレ行動は、相手に与えたダメージの三倍分回復する〈供物〉。運悪く防御力の低いヤツが食らうと、即死+約3000ポイント回復という、まるでデレていない結果を招くことになる。
戦って勝つのは無理だ。それ以外の結論はない。
こんな怪物に、二つの試練を失敗した〈導きの人〉がかなうはずがない。どうやって〈落冥〉クリアすんだよバカスタッフ、とお思いのあなた。
大丈夫。これは『ジャイサガ』だよ!
なんと、戦闘不能の仲間をつれていくと、〈グレイブキーパー〉との選択肢に、
・なかまをわたす
という、新たな項目が加わるのだ。
事前にヒントがあるので、これに気づくことはいたって簡単。
そしてこの選択肢を選ぶと、〈グレイブキーパー〉は、戦闘不能の仲間キャラを死者の新入りと勘違いして、道を空けてくれる。
同時に〝戦闘不能の仲間は天に召される〟。
もう一度言う〝仲間は天に召される〟。
ゲーム内から消滅し、以降、そのセーブデータではいかなる手段をもってしても復活しない。
仲間と引き換えに強力な武器をゲットする――。
これが落ちぶれた〈導きの人〉の最後の選択である。
もう、こいつが何者なのかわからない。
ゲームを全クリする役目を担ったどす黒い何かでしかない。
使わない仲間を生け贄にすればみんな幸せなんじゃないかな?
パーティーに空き枠あるし、ホラ適当につれてこいよ。
などと考えるようになったら一人前の『ジャイサガ』プレイヤーではあるが、人間著しく失格である。データならまだしも、たとえ見ず知らずの他人であっても、生きた人間を捧げることは俺にはできない。
だから。
逃げ切るしか、道はない。
俺は、乾いたのどに粘っこい唾液を無理矢理押し流しながら、覚悟を決めた。
幸い、このダンジョンのマップはよく覚えている。
わかっている道を選べば、とりあえず迷うことはない。
今は、思考する酸素も惜しい。とにかく走れ。
そう思っていたのに――。
運命は、唐突に途切れた。
数歩先で道は消え、その下では燃える川が、こちらの焦りなど気にする様子もなく、ゆったりと流れている。
行き止まりだ。
「…………!?」
道を間違えた!?
茹でられていた頭が、一瞬で冷え固まった。
どこで? いつ? 慌ただしく混線する思考を強制的に打ち切り、振り返る。
荒く息をつくグリフォンリース、今にもしゃがみ込みそうなキーニのずっと後ろで、無数に突き立つ岩の陰に〈グレイブキーパー〉の黒い布がチラリと見えた。
今引き返せば、確実に見つかる。
戻る道はない。
進む道もない。
意識が再び熱の中に溶け、鈍く濁っていこうとする。
もうダメだ……。
「あ、あなた様。何で立ち止まってるんですか……」
懐からパニシードの不安げな声が聞こえ、俺は慌てて、視界を埋めつつあった霧を振り払った。
そうだ。何で立ち止まってる。
ここで死ねるか。戦いの本番はまだ先だ。こんな通過点で根を上げてる場合じゃない。
考えろ! まだ何か手はあるはずだ!
俺はこのゲームに詳しいんだ!
だが、そう願う心とは裏腹に、悲しいほどに俺の頭は働かなかった。
激しい運動で脳みそに酸素が足りないのもあるだろう。さっき、〈グレイブキーパー〉との戦闘は無理という結論が出ていたせいもあるだろう。
思考が何かに引っかかってうまく回転しない。
それが俺をより苛立たせ、絶望させる。
思考の邪魔をしているのが何なのかは、すぐにわかった。
さっきからそればかりが頭に浮かんでくる。
それは、ここまでの道順だった。
まるで「俺は悪くぬえ!」とでも言いたいかのように、これまでの道程が鮮明に思い出されては消えていく。
正しいルートを来た。ゲーム通りやった。間違いはなかった。そんな思いが愚かしいほど繰り返されている。
バカ野郎。そんな言い訳をしてる場合か。現に道は途絶えてるんだ。〈黄金色の虫〉をもう忘れたのか!
焦る。もう時間がない。もうダメなのか?
やるせない結論が、肩から力を奪う。
力が抜けた、その一瞬――。
ある意味で画期的な、しかし一歩間違えば勘違いも甚だしい閃きが、俺の頭に走った。
……おかしい。何でこんなに、ルートのことばかりが頭に浮かぶんだ?
俺は非常に生き汚い人間である。窮地に陥った時、生きる方法とバグばかり探してきた。
そんな男がどうして、打開策を検討することもなく、言い訳めいたルート再現ばかりしているのか?
これは妙だ。何かが俺に訴えかけているのではないか。
虫の知らせというヤツではないのか……?
「…………!」
飲み込めずに口の中に溜まっていた熱気が、腹の底まですとんと落ちた気がした。
そうだ。
ここで、いいんだ。
「グリフォンリース、キーニ、ここに飛び込むぞ」
眼下に広がる灼熱の池を指さし、俺は告げた。
一瞬の沈黙ののち、二人は俺にしがみついてきた。
「なっ、何を言ってるでありますか!? 気をしっかり持つでありますよコタロー殿!」
励まそうとしてくるグリフォンリースの肩を軽く叩く。
「少しの間潜るから、息を止める準備をしておけ」
《息どころか》《息の根が止まる》《しっかりしテ!》《別の方法があるはず!》《飛び込むなんてダメ絶対!》
「心配はいらない。大丈夫だ。俺を信じろ!」
俺はキーニの肩をがっしと掴んで逃げられないようにする。ぴいっと小さく鳴いたが、これは強制だ。異論は認めない。
今なら〈グレイブキーパー〉の視界外。
ためらっている時間はない!
「グリフォンリース、行くぞ!」
「……ッ! 南無三でありますう!」
俺たちは勢いよく踏み切った。
地獄の池に着水するまで、一秒もいらない。
《ああああああ》《どうせ死ぬならコタローの言うとおりにして死んでやるううううう》
やけくそになったキーニちゃんのメッセージ表が一瞬見えた直後。
ごぼりと、こもった水音が耳の奥へと伝わって、俺たちの体は燃える川へと沈んだ。
刺すような熱さが全身に押し寄せてくる。
溶岩の温度はおよそ一千度。
人体がいきなり溶解まではしないものの、火傷のショックでほぼ即死だろうし、全身はあっという間に炭化するに違いない。
そして俺は……。
冷静に気配を探った。
〈グレイブキーパー〉の気配は重い。散々追い回されていたからわかる。ヤツはホラー映画に流れるサーッという重低音のように、生命が畏れを抱く空気を放ち続けている。
ヤツが近くに来る。
俺たちを探しているはずだ。
しかし、燃えるような川面がこちらの姿を隠してくれる。
早く消えろっ……。
こっちは激しい運動の後で、息を止めているのがつらいんだ。
――やがて気配がすっと軽くなった。
死の神は去ったのだ。
「ぶはっ!」
俺たちは水面に顔を出し、何度もむせながら、肺に空気を取り込んだ。
「コタロー殿、これは一体……?」
呼吸を整えた後、グリフォンリースが赤々と光る水面を腕でかきながら、不思議そうに聞いてきた。
《ここ溶岩》《ものすごく熱いはず》《飛び込んだら瞬コロ》《どうして平気なの?》
「熱いには熱いだろうが、我慢できないほどじゃないと思ってた」
「どういうことです、あなた様」
パニシードが俺の頭の上に這い上がり、羽を震わせ水気を飛ばす。
「つまり、この溶岩っぽいのは、本当は溶岩じゃないんだ」
RPGにおける火山マップで、必ずと言ってもいいほど存在するものがある。
それは――溶岩によるダメージゾーンだ。
毒の沼地とかバリアとかと同じく、一歩ごとにダメージを受ける場所。
『ジャイサガ』において、溶岩地帯があるのは、この〈ファイアラグーン〉の地下ダンジョンだけある。
ここで肝心なのは、その一歩でどれほどのダメージを受けるか、だ。
ゲームによっては即死もあり得る溶岩地帯。『ジャイサガ』では――
驚異の1ダメ、である。
ダメージ1という単位がどれほどの衝撃かは明確な答えが出ており、〈エムル〉という温泉宿で風呂をのぞいた場合にぶっかけられる熱いお湯が、ダメージ1を叩き出す。
このダンジョンのダメージゾーンは、熱い温泉くらいの威力しかないんじゃないか? と、溶岩を渡りつつ子供ながら思ったのだが、まさかそれを実証できる日が来るとは。
断言する。俺たちが浸かっているこれは、断じて溶岩などではなく、真っ赤に輝きながら何かボコボコ泡が浮き上がってくるだけの温泉だ。
ラーメンのスープだって異様に赤かったり黒かったりするし、泡は何か気体が出てるんだろうきっとそうだろう。
しかし、ここ以外の場所はわからない。
他はきっと本物の溶岩で、飛び込めば即死だっただろう。
ではなぜここだけは安全だと確信し、飛び込めたのか?
それは、この溶岩地帯が、ダンジョンを攻略する上で、必ず通ることになるルートの一つだからだ。
道を間違えたと思っていたあの瞬間、頭の中の冷静な部分は、必死に「それは違う」と訴え続けていた。ここを通ったことのある記憶が、このまま進めと叫んでいたのだ。
自信を失い、ひとかけらの判断力さえ残っていなかったら、俺はこの理性の奥底から呼びかけてくる声に気づくことはできなかっただろう。
ありがとう俺。大概は信用できないヤツだが、今回は役に立ったよボケ。
元はと言えば全部オマエの迂闊さのせいだけど。
とりあえず危機は乗り切った。
あとは、テュルフィがうまくやってくれてるのを祈るだけだ……。
ああ、マジに疲れたよ……。
某ゲームマグマショートカット「じゃあ一歩前に出てみよう」