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缶コーヒーからはじめよう。  作者: 崎ちよ
第3章  言えない理由
9/25

第9話 「上書き保存は難しい」

 □□□□□□


 がっつくな。

 そんなことはわかっている。

 がっついてはいない。

 ただ、少しだけ彼女の体に触れて、そしてキスをしただけだ。

 まだ、我慢できる。

 男の子だろ。

 男の子、男の子。

 深呼吸。

 ……我慢、がまん、むぐぐ。

 俺はそんな葛藤の中、ついその唇にキスをして、それからそのしっとりした肌に触れてしまった。

 体全体から立ちのぼる抱きしめたくなるようなその彼女の匂いを感じてしまううちに、欲望に抵抗することをあきらめた。そして、愛撫するように肌を撫でる。

 触れていた唇を一端外し、そのまま彼女のあごを避けるようにして喉元に唇を這わせた。

 少しだけ彼女の体がビクっとしたのがわかった。

 俺はその欲情の衝動にまかせたまま、指先で背中をなぞる。そして、ゆっくりと彼女を抱き寄せた。

「あ……」

 彼女は少し声を出した。

 もう一度その声が聞きたい。

 俺は無言のまま、声が出た部分に触れる。そして愛撫を続けながら彼女を押し倒した。

 そうしながら、背中の手を前に回し胸に触れてみる。

 ――やめておけ。

 心の中でそんな呟きが聞こえる。

 ――これ以上は彼女を傷つけることになる。

 ――追い詰めるだけだ。

 ――俺たちを……。

 (いさ)める自分の心を無視するように、彼女の股間に手を伸ばした。

 ゆっくりと探るように、体を這わせるようにして、その太ももに触れたときだった。

 予想通りの反応が返ってきてしまった。

 わかっていた。

 わかっていたのに、キュッと胸が苦しくなる感覚に襲われた。

 震え。

 明らかに緊張によるものではない。

 人が恐怖を感じたときの震え方。

 とんだバカヤロウ。

 俺は。

 バカヤロウだ。

 ゆっくりと体を離す。

 わかっていた。

 いつもこうなることが、そして今日もそうなってしまうことが。

 わかっちゃいるのに自分のセーブできない欲情を疎ましく思う。

 情けない。

 俺は彼女の太ももに触れていた手をゆっくり離す。それから肩に優しく手を置き、そして彼女を引き寄せるようにして抱きしめた。

 やっぱり震えている。

 その事実を体全体で感じてしまったから、ますます俺は落ち込んでしまった。

 落ち込むことはわかったんだから、やめておけばいいのに。

 と、自分を責める。

 なぜやってしまうのか……。

 繰り返し自分を責める。

 それでもやってしまうこんなこと。

 終わってしまってハッと気付く。

 でも、もう後のまつりだ。

 彼女に覆い被さっていた体を横に倒してそらす。

 そして、横向きに抱き寄せた。

 自分の胸の中には小さい頭。

 彼女はゆっくりと顔を離して、見上げる様にして俺の顔を見た。

 今にも泣きだしそうな顔。

 やっぱり。

 やっぱりやってしまった。

 傷つけてしまった。

 ああ、やっぱり馬鹿だ。

 俺は同じことを……またやっちまったんだ。

 衝動的に自分をぶん殴りたい気分になる。

 ……俺はどんな顔をしているんだろうか。

 鈴はどう思っているんだろうか。

 ……わからなかった。

 不安が脳裏をよぎる……。

 もしかしたら、最低な表情をしてしまったんじゃないかと思ったからだ。

 最低な表情。

 することができない彼女を責める表情。

 残念に思っている表情。

 同情してしている表情。

 そんなもろもろの表情をするべきではないことはわかっている。

 事情を知っていてそんな顔をするのはとんだ下衆野郎だとわかっている。

 でも、自信がないのだ。

 そこまで、コントロールできているのかわからないのだ。

 鈴を抱きたい。

 鈴の乱れる声が聞きたい。

 鈴を気持ちよくさせたい。

 どうしようもない、抑えることができない欲求。

 こんな独りよがりな、エゴな感情。裸の感情を剥き出しにしてしまったかもしれない。

 一瞬たりともそんな表情をしなかったなんて言い切れないだろう。

「ごめん」

 彼女が何か言おうとしたので、それを制するように俺は言った。

「まだ、大丈夫だから」

 俺はそう言って彼女の肩に手をまわし、もう一度引き寄せた。

 自分で言いながら、何が大丈夫なのか、と自問自答する。

 ますます、どう声をかけていいかわからない。

 ……。

 自然だ。

 自然に考えろ。

 俺は口を開いて「キスしていい?」と聞いて、彼女の唇に触れた。

 震えが止まる。

 その瞬間、安堵のため息をつきそうになるが、なんとかがまんした。

 ……。

 ふたりの時間。

 俺たちはこういうことを繰り返している。そして、今日も同じようなことをしている。

 付き合いはじめて一ヶ月。

 まだ、俺たちはひとつになれていない。

 こんなこと、いつまで繰り返してしまうのだろうか。

 ……そんな自分が情けない。


 ■■■■■■


 怖い。

 好きな人とセックスをすることがこんなに怖いとは思わなかった。

 彼の家から原付で軍人宿舎まで戻って、誰もいない自宅の扉を開ける。

 真っ暗な部屋で電気をつけると同時に、お気に入りのソファーに倒れこむようにして寝転んだ。

 ……どうして、だめなんだろう。

 自問自答。

 こんなに心は彼を求めているのに、そして体も準備できていたというのに。

「だめだー」

 つい、唸ってしまう。

「やりたい! やりたい! やりたい! やりたーい!」

 バタバタしながらソファーに顔をうずめたまま叫んでみる。

 この宿舎はボロのくせに壁だけは厚いから、叫んでも声は届かない。

 でも、もし壁が薄くても叫んでいたと思う。

 久しぶりの感覚だったから。

 体に触れた瞬間体が熱くなり、唇に触れたら膝が震え、舌をからめたら体がトロトロになってしまう感覚。

 久しぶり……。

 あの人に抱かれていた頃の感覚。

 ……。

 あ……。

 一瞬、自分の体から心が離れたような、客観的に自分の感情を探る感覚に襲われた。そして胸がきゅーっと締め付けられる。

 肺から喉までがぽっかり空気が通る感じがしてゾクゾクする罪悪感だ。

 あの人と与助くんを同一視、いや、また比べてしまったからだ。

 逃げれない感情。

 あの人に捧げた体と心。

 まだ、あの感覚が心に、そして体に残っている。

「……与助くん」

 涙が溢れていることに気づく。

 私は無意識にテーブルの上に置いている携帯に手を伸ばしていた。だけど、それに気づいた時、欲求を必死に抑えそれを元の位置に置く。

 今の溢れて出してこぼれた感情のまま、彼と何を話せるというのだ。

 自然と下腹部に手をあてていた。

「ごめんね」

 言った自分も誰に向けて言ったのかわからない。

 自然と言葉がでて、静かな部屋の中に吸い込まれていった。

 私はそれから少しだけ泣いた。

 ほんの少しだけ。

 でも、大粒の涙を落として。


 □□□□□□


「どうしろって言うんだよっ!」

 つい、悲鳴に似た声を上げてしまった。

 録音して聞いたら赤面どころではない。

 ひどく情けない声だと言うのはわかっている。でも、声を出す以外にこの行き場のない性欲をどう表現すればいいかわからない。

 彼女を送って一時間は経つというのに……。

 鈴を感じていた手。

 アパートの玄関でキスをした唇。

 そのどちらも彼女の感覚が残っている。

 わかっている。

 それでもしたいものはしたい。

 禁欲生活もひと月。

 ついついがまんできず。そして、彼女も望んでいるような雰囲気の中、いつもいいところまでやってしまう。

 そして、できない。

 生殺し。

 彼女が悪いわけではない。

 がっつく俺が悪いと思う。

 でも、きっと。

 できなかった時、あの彼女の震えを感じてしまった時、俺がちゃんとした顔をしているのかは自信がない。

 あの泣きそうな顔。

 彼女が罪悪感で泣きそうになった顔をする前。

 がっかりした顔をしてしまっていないとは言いきれない。

 情けない。

 ――どうして俺とはできないんだ。

 そう心の中で思ってしまっている。

 黒い感情。

 ――なんで今更、誰とでもやっていたというのに、肝心の俺とはどうしてできないんだ。

 そういう事が頭の中に浮かび、罪悪感に襲われる。

 クソみたいな自分に対し。

 彼女は怖がっている。

 俺と付き合って、恋人になって。それでも、前のあの男と同じようになるんじゃないかって……そう思っているんだろう。

 俺が変わるかもしれないとでも……思っているのだろうか。

 頭ではわかっている。

 わかっているけど……。

 そんなことを彼女が思うわけがない、と。

 でも、ここまで体で拒否されると、どうしても芽生えてくるのだ。

 そういう言葉が。

 情けない。

 自分が間違っている。

 それもわかっている。

 頭に浮かんだ言葉がすべて間違いだってことは。

 ――溺れるのが怖い。

 彼女はそう説明してくれた。

 ――与助くんは悪くない。

 俺は大の字で床に寝転び天井を見上げた。

 ムラムラする心をため息とともに吐き出す。

 ……吐き出したつもりだった。

 やりきれなくて畳の床でごろごろする。

 ムラムラ。

 やりてえ。くそー。

「だめだー!」

 そう宣言して立ち上がりいつものように、おもむろに服を脱ぎ捨てた。そして、スパッツを履きジャージを着たら、簡単なストレッチをする。

 あれだ、準備運動のように反動をつけて。

 俺は玄関の前に立ち、自分のほほを両手で叩く

 。パチンと子気味のいい音がして、ほほがヒリヒリとして、ムラムラした欲求を気合に変える。

「走るっ!」

 準備運動もせずに玄関を出て、夜の街を走ることにした。

 スタートからかなり速いペース。

 すぐに、自分のする呼吸で周りの音が掻き消される。

 一ヶ月だ。

 もう一ヶ月もこういうことを繰り返している。

 俺は雑念を振り払うために更に、ペースを上げた。


 ■■■■■■


 与助くんは照れ屋だ。

 そこが可愛いくもあり憎たらしくもある。

 今日も手を握ろうと彼の手に触れたが、軽く拒否をされた。

 週末のデート。

「二十八にもなって、盛りのついたカップルじゃないし、そんな人前でイチャつくのは恥ずかしい」

 と彼は言う。

 手を繋ぐ事はイチャつくことらしい。

 それに二十八でも盛りがつくものはつくんだから、いいじゃないか……と思うが価値観の相違、しょうがない。

 こうやって週末は極力ふたりの時間をつくろうとする。

 あまり町を出歩いて職場の人間にばれるのは問題があるので、わざわざ金沢市外、できるだけ職場の人が来ない場所を選ぶ。

 なにせ職場内恋愛はご法度。

 お堅い軍隊でそういうことがバレると、片方が飛ばされることになる。

 そういうヘマはしたくない。

 付き合ってひと月、職場でもボロを出していない。

 きっと伊藤さんから話がいっていると思うけど、親友の(アキラ)もいつもどおり接してくれている。

 ただ、晶には顔を合わせにくいというのは正直なところだ。

 なんとなくだけど。

 晶の与助くんに対する態度。

 普通の男性に対する態度とは著しく違っていたことに気付いていた。

 私の監視役に彼がなってからのことだけど。

 まさか晶があんな人……自分の彼氏をそういうふうにバカにしちゃだめなんだろうけど……あまりに彼女とは不釣合いだから、まず、そんなことはありえないとは思っていた。

 もちろん、中隊長も先任上級曹長(センニン)も知らない。

 職場では付き合っているという雰囲気を出さないようにしている。

 そんな地道な努力を重ねた上で、今こうして市外のショッピングモールでデートをしていた。

 彼とフードコートの狭いテーブルを挟んで昼食。

 大手で定番のハンバーガーをふたりで食べていた。すると彼は遠慮がちに今日の夜は空いているか聞いてきた。

 それから――うちで夕食を食べよう――と誘われた。

 不思議と騒がしい場所でも、その言葉ははっきり聞こえ。

 私は――うん――と頷いた。

 それは今日もできるかどうかを試すことを意味していた。

 今日はやる!

 鼻息が荒くしそうになった。

 一生懸命いきり立つ自分を抑えるため、コーラをいっきに飲み干したくなる。

 でも、なんとか我慢してゆっくり飲んだ。


 □□□□□□


 つい、誘ってしまった。

 また、傷つけるのはわかりきっているのに……。

 鈴は目を伏せて、ちびりちびりとコーラの入った容器のストローに口をつけたまま、しばらく黙っていた。

 彼女の負担になっているのかもしれない。

 負担。

 それを考えると不安になってしまう。

 食事を終え雑貨屋めぐりをした後、トイレに彼女が行くという。

 さっき食べたポテトの塩っ気が口の中に残っていたため、甘くない缶コーヒーを飲みながら、そこの近くのベンチに腰掛けていた。

「ちゃんと手を洗ったの?」

 一瞬耳を疑う声が聞こえた。

「洗ったよ、ママ」

 幼い男の子の声。

「ほら、手を服で拭かないで」

「はーい、はい、はーい」

「返事は一回」

「ふぁーい」

 そんなやり取りをしている親子が目の前を通る、そしてその母親と目があってしまった。

 お互いに、あ……と声が同時に出た。

 息子君が母親の服を掴んだ。

「与助……くん」

「……ミハルさん」

 俺は一瞬固まる。

「お、お久しぶり」

「あ、どうも、あ……旦那さんは?」

 自然と余計な言葉が出てしまった。

 彼女はその気の利かない言葉に一瞬戸惑い、そしてちょっと首を傾げるようにしてから首を少し振った。

「今日はふたりだけど」

 と言った。

 俺はまじまじと息子くんを見る。

 きっとお父さん似なのだろう。

 男の子の顔を見てそう思った。

 ああ、そうだ。この子は例の俺と同じチンって感じの子だ。

 つい、ミハルさんとのベットでの事を考えてしまい慌てて頭の中からそういう情景を消した。

 息子くんを前にして母親とのあれを思い浮かべるなんて、最低ダメ人間もいいところだ。

「与助くんは、どしたの?」

「あ、その」

「デート?」

 少し意地悪そうな顔をしてミハルさんは言った。

 情けないことだが、ついその顔を見ると、やっぱり二人で重なっている時の事を思い出してしまう。

 彼女のその表情。

 くすぐったいと言って逃げようとした時に見せる彼女の表情と同じに見えた。

 つい、思い出して、下半身が反応しそうになる。

 馬鹿か……。

 慌てて頭の中で、呆けている自分に喝を入れる。

 喝を入れられた脳内の俺は情けない声で「たまってるもん……しゃーない」と言い訳をしている。

 そんな葛藤をしていると鈴が戻ってきた。

「どうしたの? 与助くん」

 目の前に立っている親子と俺を見比べながら声をかける。

「あ、その……知り合いと会って」

 ……知り合い。

「あら、彼女さん?」

 ミハルさんは「かわいい」といいながらニコニコしている。

「はじめまして……」

 鈴がペコリと頭を下げる。

「はじめまして、綾部さんとはお仕事でごいっしょさせて頂いていた、木坂と言います」

 ミハルさんが丁寧に頭を下る。

「ほら、ゆーくんも挨拶」

 彼女は息子くんの頭を優しくポンポンと叩く。

「こんにちは、ママがいつもお世話になっています」

 息子くんはペコリと頭を下げて言った。

 よく躾けられていると、関心してしまう。

 鈴は身を屈めて、ニコニコしながら息子くんに向き会う。

「お名前はー?」

「ゆーすけ」

「いくつー?」

 息子くんはうれしそうに手を出して指を広げた。

 五歳なのだろう。

「すごくかわいいですねー」

「外ではこうですけど、家に帰ると暴れん坊で……綾部さんの彼女さん?」

 ミハルさんは最初に同じ事を聞いたと思うが、もう一度聞いてきた。

「はい、お付き合いさせて頂いてます」

 ニコニコして言う鈴。

「へえ、こんなにかわいい子と付き合ってるんだ、すみに置けないなあ……綾部さん、大切にするんだよ、うん、人生の先輩として偉そうに言うけど」

 ニヤニヤしながら言うミハルさん。

「あ、ありがとうございます」

 俺はなぜか頭を下げてしまった。

 その後、息子くんが早くアイスが食べたいとか言ってミハルさんの袖をひっぱり、そしてまた軽く社交辞令的な挨拶をした。

 その後俺たちふたりは息子くんとブンブン手を振り合ってバイバイをする。そしてしばらく鈴の顔をまともに見ることができなかった。

 ミハルさんで下半身を反応させてしまった罪悪感があったからだ。

 しょうがない。

 しょうがない。

 しょうがなくないよなあ。

 なんとなく途方に暮れながら俺は、手を振り続ける息子くんに向かって大きく手を振り返していた。


 ■■■■■■


 駐車場に戻り、彼の車の助手席に座る。

 なんだか彼がぎこちない。

 それもそうだ。

 ばったりと、あの不倫相手だったミハルさんと会ったんだから。

 間違いないと思う。

 ちょうどトイレから出た瞬間、ふたりの会話が耳に入り、確かに彼は『ミハルさん』と言っていた。

 あの人は木坂ミハルさんは与助くんの事をどう思っているんだろう?

 彼は『フラれた』と言っていた。

 本当にそうなのか。

 つい疑いたくなるような、そんなふたりの距離感だった。

 もしかして、まだ付き合ってたりするのだとうか。

 そして、そう考えた時に私は罪悪感に包まれる。

 ――誰とでも寝ていた女がよく言う。

 と、自虐。

 ない。

 それはない。

 そういうことはできないひとだということを知っている。

 与助くんという人は。

 距離感が近づいてからたったひと月だけど、わかる。

 そういう器用なひとじゃない。

 そんなひとだから好きになった。

 私は運転席の彼を見つめる。

「どうした?」

 シートベルトをしようとした彼が不思議な顔で聞いてきた。

「うん」

「え?」

「さっきの女性(ヒト)、ミハルさんでしょ」

「やっぱり……わかった?」

「ちょうどトイレをでるとき、名前で呼ぶのが聞こえた」

「そうか」

「ねえ、言ってくれてよかったんだよ」

「うん」

「言いにくい?」

 意地悪だ。

 こんなこと言うべきではないと思う。

 自分の醜いところを全部さらけ出してしまいそうになる。

 わかっている。

 すっごく嫌な事なのに……でも、つい、言い続けてしまう。

「いや、そういうことは」

「なんか隠しているみたいで嫌だった」

 ――これ以上は言うな。

「どうして、言ってくれなった……」

 ――どうだっていいじゃないか。

 ――もし『まだ忘れられなかったんだ』なんて言われたらどうする。

 葛藤する私は少し声が震えた。

「ごめん」

 彼は私の目をしっかり見て言った。

「正直言うと、情けないけど……彼女の事を忘れられない、ごめん……たぶん男全般に言えることなんだろうけど、上書き保存できないんだ……つい名前を付けて保存にしてしまうんだ」

「何それ」

「うん、怒られて当然だと思う……ミハルさんのことは浮気とかじゃなくて、ただ思い出は思い出で残してしまっているだけなんだ、でもね鈴さんが一番大切な人間だというのは変わりない」

 本当に私の恋人は不器用な人だ。

 そんなこと、昔の相手との思い出は捨てれないなんて恋人の前では言わないだろう。

 そして、なによりも面と向かって一番大切な人間とかそんなに恥ずかしい言葉を昼間から言えない。

 私は後半部分の言葉が妙に恥ずかしくて顔を伏せてしまった。

 彼は私が怒ったんだろうと勘違いしているようだった。

 ひたすら謝り続けている。

 まだ付き合う前、監視役の彼に惚れてしまったのは私が先だというのに……。

 立場が逆転しているような気がした。

 少し笑いそうになる。そして必死な言葉で私を説得しようとする彼の言葉を聴いてだんだん耳や顔が熱くなってしまった。

 私は顔を上げる。

「ちゅーしよ」

 今しなければならないと思った。

「……っえ」

「ちゅーして」

「いや、駐車場だし、人に見られるかもしれないし」

「手も握ってくれなかったから、ちゅーぐらいしてよ」

 彼は一瞬躊躇したが、少し真面目になってから頷いた。

「あ、うん」

 彼は顔を近づけほんの少し唇を触れる。そして、赤くなった顔を伏せボリボリと頭を掻いた。

 この人、かわいい。 

 ああ、やばい。

 すごく、やばい。

 本当に好きになっている。

 私は。

 この人を。

 自分の心臓がバクバクなるのが聞こえる。

 彼にばれないように、静かに深呼吸をして心を落ち着けた。

 前を通り過ぎた車が立体駐車場のコンクリートとタイヤが刷れたのかキュキュッと甲高い音がなった。

 今日こそ、彼とできる気がしてきた。

 いつも、私はあの人を思い出してしまいゾクゾクする罪悪感で彼を拒否してしまっていた。

 でも、今日は罪悪感の源であるあの人との比較を絶対にしないという自信ができた。

 今のキスでそう思ったのだ。

 大丈夫。

 ふと、あのミハルさんの息子くんが頭に浮かんだ。

 五歳っていってた。

 五歳。

 五さい。

 急に頭の中がぐるぐる回転し始めた。

 だめだ……。

 こうなると思考がとまらない。

 あまりいい傾向ではないことはよく分っている。

 でも考えずにはいられなくなる。

 ……あの子が生まれていれば。

 あの子。

 私は唐突に下腹部の痛みを感じてきた。

 少し唸ったと思う。

 彼が心配そうな顔で私も見たので、大丈夫、車出していいよと言った。

 指先の痺れを感じる。

 あ、だめだ。

 こんなところで……私は苦しみを紛らわせるため、ゆっくりと座席に座ったまま膝を抱え込む。

 まわりが真っ暗になりだした。

 見えている光景がモザイク模様に変わっていく。

 ジリジリジリ。

 耳の奥で聞こえる感覚。

 その時だった。

 暖かい感触が全体を包んだ。でも、それにも関わらず私の体はどんどん冷えていった。

 視界の向こうでは口が……たぶん、与助君の口が動いているのがわかる、でも激しい耳鳴りのため、何も聞こえない。

 大丈夫。

 大丈夫って言わないといけないのに、感覚の無い唇は動かない。

 体の芯から血の気が引いてしまって、冷たくなってしまった。でも、たぶん与助君が包んでくれたお陰で、表面だけが暖かい。

 私はその暖かさに身を預けるようにして目を閉じた。

 でも下腹部が痛みが一層激しくなってきた。

 その時、気づいてしまった。

 原因。

 与助くんに溺れるのが怖い訳ではない。

 彼のことを愛して、彼の子供を欲しくなってしまうことが怖いのだ。

 罪悪感。

 ひどい罪悪感。

 下腹部をさする。

「ごめんね」

 そう言えたかわからない。

 でも、声を振り絞って、何度も言おうとした。

 あの子が昔いた場所をゆっくりとさする。

 あの子の返事はない。

「ごめんね」

 あの子と彼に。

「ごめんね」

 私を包む彼。

 その温かさが私に「ごめんね」と言い続けさせた。

 そして泣かない様に必死になった。

 与助くんには見られたくないから。

 どうしてこうなったのか知られたくなかったから。

 そう思うと、もっと体が地面に食い込むような感覚に襲われていった。


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