第8話 「酔った勢いでは……」
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振動する携帯。
メールだ。
『真田鈴』
『件名なし』
『位置情報、金沢市……町……公園』
その意味することが一瞬でわかってしまった。
くそ、くそったれだ。
……あいつ、伊藤の野郎はそういうやつだったのか。
たったこれだけの情報で、そう判断していいものだろうか……冷静な自分がブレーキをかけようとする。
だが、そんなことはどうでもいい。
現にメールは届いた。
その事実だけで十分じゃないか。
誰かが何をしているなんかは知ったことではない。
あいつが呼んでいることには違いない。
――考えるよりも先ずは行動せよ。
遊撃課程の主任教官が繰り返し言っていた言葉が蘇る。
俺は単車に跨りエンジンをかけた。
あの公園、確か下宿から数分の場所だ。
俺は少々道路交通法を無視しながらアクセルを回した。
暗い公園、アクセルを緩めず車止めの間をすり抜ける。
まずは公園の中央まで行き、そこでエンジンを切った。
耳を澄ませてみる。
悲鳴が聞こえた。
間違いなく女性の悲鳴。
小さな声だったが、それは真田中尉のものだと確信した。
俺は走る。
ただ一直線に。
生垣を飛び越え。
林をすり抜け、草むらを駆け抜け。
声がどんどん大きくなる。そして、薄暗い街頭の下に人影が数人見えた。
最低だ。
間に合わなかったのか……。
「くそっ! やらせるって言ったんじゃ」
「触わらないで……」
「静かにしろっ! ぶん殴るぞ、このクソアマっ!」
ああ、とりあえず。
まだ大丈夫だ。
俺は深呼吸をした。
伊藤の野郎もたいしたことがない。
俺は人数を数える。
真田中尉を囲んでいるのは三人。それと下半身を丸出しにして転がって悶絶しているのが一人。
計四人。
ゆっくり彼らに音を立てずに近寄りながらなかなか真田中尉もやるもんだと思った。そして、股間がズーンと重くなる。
やられた男の痛みを少し想像してしまったために。
「おい、しっかり押さえろ……足だ足を掴め」
「触れ……な……いで……いやっ」
彼女は足をばたばたさせて抵抗していたが、とうとう男に捕まったようだ。
初動で二人。
あとはなんとかなるか……普段だったら、こんな複数の人間と殴りあいなんて避けるものだが、そうもできない。
怪我したら、なんて言い訳しようかなんて考えない。
よし。
俺は声を出さずにまずは狙いをつけた一人の膝を側面から思いっきり体重を乗せて踏みつけるようにして蹴り込んだ。
痛いなこりゃ、とやっている本人が思うほど、曲がってはいけない方向に膝が曲がり、普段人間が出さないような悲鳴を上げながら男が崩れる。
そのまま、もう一人の鈴さんの足を握った男の顎に掌を押し付け、顎を斜めに押し上げつつクルリと首を回転させた。
どうにも耐えれない男は体ごと回りバランスを崩しよろける。そして、俺は容赦なく、掌で転がす首を自分のへその位置まで誘導し、そして顔面――鼻と唇の間、鼻と眉間の間――に膝蹴りを二回入れた。
ボタボタと音がするぐらいに男から鼻血が噴出した。
これで戦意喪失してくれれば楽なのだが……。
「ボケどもがあああああ!!」
喝を入れた。
倒れた鈴さんの上半身、肩を押さえつけた男が一瞬しびれたように固まる。
「離せ! 今すぐ!」
男は慌てて鈴さんから手を離し後ずさる。
俺はその一瞬の隙にもぐりこむようにして飛びかかり、左のストレートで顔面を捉えた。
男が変な悲鳴を上げたのを無視し、そのまま殴った方の手で相手の腕を掴み、そして空いた手で力任せに顔面を掴む。
そうして大外刈りの要領で後ろに倒した。
だが、柔道のあれとは違い、顔面を掴む右手は力を抜かなかった。
草むらの土に向かって体重を乗せて打ち下ろす。
「しゃらっ!」
興奮して、なんと言ったかもわからない。
気合一閃と同時に、倒れた男のみぞおちに対して全体重を乗せた踵で踏み込んだ。
暗くてよく見えないが、泡でも吹いていることだろう。
俺は振り返ると、半裸の真田中尉を見下ろす形になっていた。
彼女は怯えた目で俺を見上げる。そして、俺だと気づいたのか、瞬目を見開いた後すぐに目を伏せた。
慌てて露わになった部分を隠している。
「こっちへこいっ」
服が乱れたままの真田中尉の手を握り、起こした。そして、その手を強引にひっぱるようにして草むらから出た。
「伊藤にやられたのか」
彼女はぶるぶると顔をふる。
「じゃあ、誰に」
その時だ視界がぐらっと揺れたのは。そして遅れてやってくる後頭部の激痛。
おい、鉄かよ。
鼻血を垂らしながら、わけのわからないことを叫んでいる怯えた目の男。
失敗した、中途半端だった処置を後悔してもしょうがない。
さっきの鼻血男が追ってきたのだ。
俺は彼女をかばうようにして振り返った。そして、意識を保つ為に、肉をひきち切るぐらいの覚悟で自分の左腕に噛み付いた。
馬鹿かもしれない。
だが、ここで死んでも倒れる訳には……。
だから、できることを俺はやった。
鉄の味を呑み込みながら。
■■■■■■
男たちに押し倒され、私は諦めのため息をつく。
これで……伊藤さんとは……。
ああ、これだ。
あの日、あの男に呼ばれて行ったホテルと同じだ。そこには他の男がふたりいて、あの男が私に言った言葉に震えて……。そしてその時についたため息と同じだ。
しょうがない。
私はやっぱり、あっちの人間なんだ。
男がのしかかってきた。
他の男が言い争いをしている。きっと、順番がどうだとか言っているんだろう。
それを無視するように、男が乱暴に胸に触れ、そして揉むというよりも掴むようにしてきた。
じっと顔を見ると、二十超えていないかぐらいの男の子だった。
「もしかして、はじめて?」
男が一瞬怯えた顔を見せたが――はじめてじゃねえ――と荒々しく唸る。
……まったくわかりやすい。
服が捲られて、ブラに男が手をかける。
あわただしく、下半身にも手を伸ばしてきた。
でも、まったく体が反応しない。
あの時はあんなに嫌だったのに、そして、あれだけ興奮したのに……。
男が不器用に下着をずらす。
カタカタと音を鳴らしながらベルトを外し、ズボンを下ろした。
――つけてもない! あんたがどこの誰と寝ようが知らん! 金のことは知らん! 中隊長には言ってないし、言う気もない!
不意に与助君の顔が浮かんだ。
あの事務室で残業していた時に、勘違いで迫った時……彼の激怒したあの顔。
――この人はちゃんと仁義きってるんだ、あんたを侮辱したわけじゃねえ! 怪我したらどうするんだ。
まただ、お見合いの席で、水をかけた相手の男に対して怒ったときの顔。
――鈴さん、少しは恥ずかしがってよ
お酒を飲んだ夜に見た、あの照れた顔。
そしてあの夜、ホテルの前で見せた、赤面して、とてもかわいいなと思った表情。
「あ、ああ」
パニック。
なのかな。
頭が変だ。
怖い。
怖い……こわい、こわい。
どうして、こんなに。
こんなこと慣れているのに。
こわい。
こわい。
こわいよ……与助君。
抵抗できない恐怖。
男が入ってこようとして……下着をずらされ。
目の前の男が胸を触ってきて。
私の体に触れることさえも。
他の男に見られていること……すべてが怖くなった。
私は悲鳴を上げてしまった。
男の手を振りほどくため、足バタつかせた。
目の前の男の股間に足が当たったのだろう、情けない悲鳴を上げて私から離れた。
その瞬間、脱がされかけた下着をずり上げ、上半身を起こし、地面を這う様にして逃げようとする。
「ふざけんな、くそ女!」
ひとりの男が回りこみ、私の肩を掴んだ。
「大人しくしろっ!」
もう一人別の男が私の足を掴もうとするが、何度かその手を蹴る。
「いやっ……いや!」
私は叫んだ。
叫んでしまった。
もう汚したくないと思った。もう、他の男に触れられたくないと思った……思ってしまった……。
「くそっ! てめえからやらせるって言ったんじゃ」
「触ら……!」
「静かにしろっ! ぶん殴るぞ、このクソアマっ!」
「おい、しっかり押さえろ、足だ足を掴め」
「やめっ! 触れ……る……な、いやっ」
その時だった。
ひとりの男が悲鳴を上げて倒れ込んだ。
「伊藤……さん?」
私の悪い癖だ。
一番望んでいることは口に出せない。
それと、同時に絶対にこんな姿を彼に見せたくないと思ってしまった。
だからその名前を口にしたのかもしれない。
見せたくない相手を期待しながら、それも避けたい気持ちもいっぱいだった。
でも、やっぱりそれが彼だとわかってしまった。
震えた。
恐怖に、そして少しだけ嬉しくて。
もう一人の男がくるっと一回転したかと思うと、鈍い音がした。
またうめき声が増えた。
やっぱり。
彼だ。
私は安堵の感情が溢れそうになったが、すぐに血の気が引いた。
ああ、来てくれたんだ……そして、見られてしまったんだ、こんな姿を。
彼は唸り声を上げて、私の肩を掴んでいた男を殴って倒した。
彼が私を見下ろす。
薄暗くてよく見えないが、ひどく怒った彼の表情を見て、私は絶望した。
見られた。
汚された私を見られてしまった。
でも、なぜだろう、いつもだったらそこうで諦めてしまうのに……自分でも滑稽なほど慌てている。
私は自由になった手を使い、慌てて衣服を整えようとした。
「こっちへこいっ」
服が乱れたままなのに、抱きかかえるようにして起こされた。
「伊藤にやられたのか」
違う、違う……私は色々な感情が混ざり、そして声が出なかった。
「じゃあ、誰に」
そう言った瞬間、彼の後頭部に黒い棒が打ちつけられてしまった。
私は悲鳴を上げることもできず、ただ彼を見ることしかできなかった。
彼がふらつく足をなんとか保ち、そして自分の左腕に噛みつく。
左手から血がだらだら垂れていた。
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なんとか踏ん張った。
鼻血男を睨みつける。
そいつは俺が怖いのか、頭がイカレているのか、何かわめちらすだけで一歩も動こうとしない。
「真田中尉、伊藤は……」
監視役をやっていた時のように『鈴さん』と言えなかった。
伊藤に遠慮したのかもしれない。
足がもつれる。
彼女が俺を支えようとするが、その腕を振り払ってしまった。
同時に地面を踏み込む。
「いきなり警棒で殴られて……」
「……大したことねえなあ、海軍軍人ってのはよ」
手に警棒を持った男が更に四人。
ひとりはギブスをはめたにいちゃん。
「おお、おお……ションベン臭いボンボンもいるなあ」
そうか海軍陸戦隊の奴らか……俺は彼女を後ろにやり、ギブスの男――大川少尉――に向かって言った。
そう言った瞬間、不意に大川が宙に浮いた。
「だれが、大したことがないだと……」
ガタイのいい男が、野獣のようにうなり声を上げて大川を頭の上に持ち上げた。
「あんた……女ひとりも守れないから、海の男も大したことないなって言ったんだ」
「やかましい! 不意打ちくらって、しばらく休んでただけだ」
伊藤は軽々と持ち上げた大川を空中で回す。
「か、海軍陸戦隊の俺たちをなめるなよ」
大川はじたばたしながら、情けない声で吠えている。
伊藤は容赦なく大川を投げた。
たむろしている男達に向かって。
「うわああ」
大川が弱々しい悲鳴を上げた。
鼻血でひとり、大川でふたり。
そしてあと残りは三人。
手には警棒持っている。
くそ、こりゃやばいな、とりあえず……。
「おい、そこの男……鈴さんの知り合いなら、今すぐ連れて逃げてくれ」
伊藤が俺に向かって言った。
ふと、後ろに隠れる彼女に意識を向ける。
彼女は俺の服をぎゅっと掴み、少し震えていた。
逃げる……いや。
バイクの方に行くとしても目の前の男たちを通過しないといけない。まして、彼女を連れてなんて、相手の人数が多い分それはかなり難しい。
なら、単純。
腹を決めた。
まずはお仕置きだ……。
顔面の筋肉が否応なしに笑顔になっていくのがわかる。
俺は腰をさすりながら起き上がる大川に向かって言い放った。
「この前お会いしたのは海軍基地でしたっけ? うちの若い者にぶん殴られていたみなさんじゃないですか……はは、あーぼっちゃん小隊長、そのギブスの中身はお元気ですか、この前、俺がかわいがったのは覚えていますかね」
俺は街路樹の枝を折る。そして右手で持った。
「お前らガキを殴るのはもったいねえ、こんな枝で十分……思いっきりチクチクしてやるから……んで、いい夢みさせてやる、感謝しろ」
目の前の男達は街灯に照らされ手元が金属光でチラチラ光る。
警棒、アホが……ナイフを取り出した。
「そうかー、ありがとうな……・殺しても文句ねえな」
大川が――ナイフをしまえ、ナイフはやめろ――と言っているが、興奮した男たちは耳を貸そうとしない。
まったく情けない。
自分の部下をコントロールもできないのか。
あのぼっちゃん小隊長は……。
全身が粟立つ。
怒っていた。
とりあえず、目の前にいた鼻血男の喉を枝で突き刺しぶっ倒した。
間髪をいれず口元を踏み込む。
歯が折れる音が足を伝わった。
あと四人。
口元がニヤけるのが抑え切れなかった。
俺は怒っていた。
半裸の怯えた顔の鈴が目に焼きついていて離れない。
伊藤が気合とともに、男に掴みかかる。そして、俺は腹の底から搾り出すような唸り声を上げて、警棒を振り上げる男の機先を制した。
振り下ろす警棒には左手を引き換えにする覚悟でそれを受け止め、一撃で片付ける自信がある右の一発を顔面に叩き込んだ。
さて。
お祭りの始まりだ。
たのしいたのしいお祭りの。
男たちは逃げ出した。
最後に残っているのは……いや見捨てられたのは大川のガキだった。
地面に転がる奴のギブスを思いっきり踏み込む。
悲鳴があがる。
泣くような声をあげて大川は「ごめんなさい。ごめんなさい」と土下座をしていた。
「あー伊藤さん、俺の方でぺちってしていいですかねえ」
「こいつは海の人間だ……だから海は海でやらせてもらいたい、お家で説教しないといけないからな」
片膝をついて肩で息をしている伊藤が言った。
「あんた、海軍にしてはなかなかやりますね」
途中、ナイフが掠めてやられた額の傷、そこから血が垂れてくるのを拭う。
「艦乗りは陸のやつとは鍛え方が違う」
伊藤は警棒を何度か打ち込まれたのだろう、腕が真っ赤に腫れていた。
やせ我慢かどうかわからないが、奴は力をこめてそれを俺に突き出す。
「にしては、肝心なところで役たってない」
俺は笑った。
伊藤も笑う。
「面目ない」
悪い奴ではない。
きっと、鈴さんを預けていい奴だろう。
体を張って守る男に悪い奴はいない。
「それじゃ、俺は先に……」
伊藤は怯える大川の首ねっこを片手で持ち上げ吊り下げる。
「あんた、真田さんを連れて帰ってくれ……俺はこいつをほったらかしにできない」
「ちょっとまて、あんたが……真田中尉を送れ、あんたの彼女なんだろう?」
ニヤッと伊藤は笑った。
「できればそうしたいところだが、さすがに野暮なことはできない」
彼はじっと真田中尉を見た。
彼女が何か言おうと口を動かすそぶりはわかったが結局何も言わない。
「真田さん、申し訳ない……迷惑をかけてしまった」
伊藤は頭を下げる。そして、大川を吊り下げて歩きだした。
「俺は真田さんに惚れた、だが、守れなかった……すまない」
やつは振り向かずに言った。
俺は言葉がでない。
鈴さんが俺の腕をぎゅっと掴んでいたから。
震えてはいない。
ただ固まったように俺の腕を掴んでいた。
□□□□□□
単車に鈴さんを乗せて宿舎まで送ることにした。
ヘルメットはミハルさん用のを収納していたので、それを取り出して被らせる。
「女の人の匂いがする」
と、鈴さんはつぶやいた。
宿舎の近くまで来たので降ろそうとしたが、彼女は固まったように動かなかった。ああいうことがあったのだ……しょうがない。
俺は下宿に向かった。
公認安全君なのだから、問題はないだろう。
我が家は男のひとり暮らしだが、ミハルさんが時々来ていたので、片付いている方だと思う。
恥ずかしくはない。
「女の人の匂いがする」
部屋に入るなり彼女はさっきと同じことをつぶやいた。
畳の上のテーブル。
彼女はちょこんと座る。そしてバスルームの方を見ていた。
俺は喉元まで「シャワー浴びるか」と聞きそうになったが、自制した。さすがにあんな目にあったばかりの女に色目をつかっちゃいけない。
俺は意識して素っ気無くした。
「まあ、あれだ。飲もう」
冷蔵庫から缶ビールを取り出し、テーブルに置く。
つまみは先週ぐらいに買ったいろんな種類のチーズ。
ミハルさんが好きだったので、未だに買っていた。
しばらく無言でぐびぐびと飲む俺たち。
そのうち後輩から謙譲されたウイスキーがあったので、それを開ける。
氷をグラスに無造作にいれて、ウイスキーを注ぐ。
彼女はぐびぐびと飲んだ。
俺も同じくらいのペースで飲んだ。
「あのね、最近、だめなんだ」
口を開いた。
「伊藤さんと手を握った」
彼女はグラスの氷を指で転がす。
「でも、全然……全然したいって気分にならなかった」
俺と目が合う。
少し泣きそうな顔。
「それなのに今日、襲われて、数人の男に、欲情されて、どきどきした……伊藤さんが倒れて……別にやられてもいいと、思った」
俺は空いたグラスに、氷とウイスキーを継ぎ足す。
「でも……脱がされて、足を開こうとしたのに……急に怖くなった」
まだ琥珀色が濃い部分を吸った。
「いつもだったら、怖くないのに……されても、どうでもよかったのに」
彼女は震えていた。
俺は――もういい、忘れよう――と言いかけたが、その言葉を飲み込んだ。
ちゃんと向き合って聞かないといけない。
「体は反応して、めちゃくちゃにされたいとも思ったのに」
彼女は泣いていた。
「だって、与助君にメールしちゃったことを思い出したら、声がでて、あいつらに触られたところが気持ち悪くなって、怖くなって」
俺は手を伸ばして肩を叩こうとしたが、やめた。
「与助君が来てくれたと分かった時には、もっと怖くなって……」
……。
「もう、汚れたくないのに……」
汚れるとか……。
「もう、あれから誰ともしていない……この前は嘘ついちゃった……なんか、合コン行っても、男の人にしゃべりかけるのもできなくなっているぐらい」
少し沈黙。
「だからね、もう、大丈夫になると思う」
彼女は顔を上げた。
「もう、私のお守りをする必要はなくなったと思う、回復……できたのかもしれない」
――でも……あれ、あれ変だな。
そう言って彼女の瞳からハラハラと涙が溢れ出した。
「ちゃんと、言います」
溢れる涙とは裏腹に彼女の瞳は強い意思をもっていた。
「できれば、このままの状態が気持ちいいし、続けたい……・たぶん、しなくてもよくなったのは与助君……あなたのおかげだから」
俺はグラスをテーブルに置いた。
「与助君のことが好きです、ごめんなさい」
震える声。
目はしっかりと俺を見たまま。
「あれ、ちゃんと言えたのに、なんで……なんでだろう」
彼女の頬を涙が伝った。
俺は腕を伸ばし、彼女を抱きよせた。
「ごめん」
彼女は笑顔を作った。
「ありがとう、抱きしめてくれただけでもうれしい」
彼女は俺の身体を押し返そうとする。
俺はそれ以上の力で逆に引き寄せた。
「酔った勢いじゃない、こんなことは酔っ払って言うことじゃないと思っている」
そして心を落ち着けて言った。
「謝る……嘘をついていた」
グラスの中の液体を体に注ぎこみたかったが、我慢した。
「ミハルさんにはとっくの昔にフラれていた」
でも……。
「そうでも言わないと、鈴さんにのめり込んでしまいそうになったから……」
軽く、ほんとうに軽く口付けをした。
そして、言葉を選んで。
腹に力を入れて、できるだけ体の中のアルコールを混ぜないように息を吐き出して言った。
「俺は君が好きだ」
彼女は目を見開いて固る。
「これ以上は、シラフの時に言う」
その後、シャワーを浴び、埃まみれだったので着替えをした。
だぼだぼだが、俺のジャージとTシャツを貸した。
布団はお客さん用を出し、テーブルを挟んでひいた。
ふたりで缶コーヒーを飲んだ。
――寝る前に缶コーヒーなんてありえないよね。
と言って笑った。
電気を消して、豆電球の明かりの下で、いろんなことを今まで以上に話した。
俺は平川のこと、あの雪の白山の出来事を「たまにウナサレて叫ぶかもしれない、起したらごめん」と謝った。
「その時は、よしよししてあげる」
と意地悪く彼女はいった。
ふたりで笑った。
明日は日曜日。
時間はたっぷりある。
次の日。
別々の布団で目覚めた。
彼女はぐっすり寝ていた。
ふたりでいくつかの約束した。
名前で呼ぶこと、エッチはしばらくしないこと。
職場では普通にすること。
「もう少し待って」
と言った。
「わがままだと思っている」
彼女は正座して、切実な顔で言った。
「今しちゃうと、今までと変わらない気がして怖い」
「昨日の、ちょっとだけのキスだけでも、どうしようもなく気持ちよかったのに、抱きしめられただけで、たまんなかったのに、それ以上のことしちゃうと壊れるんじゃないかって恐いから……そうしたら、また気持ちいいことだけに頼っちゃう、そんなのに、のめりこんじゃったら、また前の状態に戻りそうで」
俺は頷いた。
「お願い、もう少し、いろいろ考えて、はやく、整理するから、もう少し、まって」
果たして理性がもつかどうかわからないが、ここは男の踏ん張りどころ。
「こう見えても、俺は心が広いの」
いつもの軽い感じで言った。
「自慰で耐え忍ぶ」
啖呵を切った。
「……ははっ」
彼女は笑う。
「笑うことないでしょ、こっちだって死活問題なの、まじめな話なの」
「ねえ、エロ本? エロ動画? そういうの見てするんだったら許さない」
「あのね、俺はそれ以外の手段でどうしろと」
「私でして」
「いや、無理」
「どーして」
「あのね、俺たちしたこともないのにどうすればいいんですか」
「想像力」
「相当おっぱい大きくしちゃいますよ、本物見た時に幻滅しちゃいますよ」
「うぬぬ」
「そんなこといってるとプロとしちゃうよ」
「それもダメ」
「……意地悪だなあ」
「性欲を別の手段で発散すればいい」
目が怖い。
「与助くん、格闘技やってたりするでしょ」
「格闘技というか、ただ蹴ったり殴ったりしているというか」
「それ」
もっと暴れればいい。
平気な顔で言う。
「やだ」
そんな発散方法断じていやだ。
彼女は立ち上がり、俺の押入れをあさりだした。
「あ、ちょっと」と言う俺の制止は無視された。
鈴は本気だった。
本気で俺に健全な発散をさせないようだ。
ガサゴソ。
そんな音が響くアパート。
禁欲生活の始まりだった。
同時に、俺と鈴のふたりの時間も……。