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缶コーヒーからはじめよう。  作者: 崎ちよ
第1章  気が付けば煙草に逃げている。
4/25

第4話 「微糖からはじめよう」

 □□□□□□


 結論から言うと、お見合いはことごとく失敗した。

 五件目のお見合いで作戦は中止。

 よくもまあ、五件もやったなと感心するぐらいだが……。

 金沢市役所の若手係長、二十八歳。

 石川県警の警部、四十歳。

 酒造会社勤務の若手社員、二十四歳。

 民宿経営のバツイチゴブつき、三十五歳。

 金沢の中堅ホテルの経営者、三十二歳。

 なぜそんなことを知っているか。

 そりゃ、先任上級曹長センニンに脅されて、お見合い場所の設定、予約、真田中尉の送り迎え、相手方への案内等々お世話したからだ。

 無精ひげもちゃんと剃り、結婚式以外ほとんど着ることない一張羅のスーツに身を包んで。

「さすが人事の鏡! 人の幸せのために休みを潰すなんて、綾部のマイレージは溜まりまくりだ」

 と中隊長に褒められた。

 もちろん、うれしくもくそもない。

 クソ少佐め……だいたいなんなんだ、マイレージって。

 お見合いは毎週土曜日。

 毎週できるのは、その場で「だめ」とわかってしまうからだ。

 そういうお見合いの仕方をあいつはしやがった。

 そんな五回目。

 俺は待ち合わせ場所に車をつけ、それから真田中尉を待っていた。

 彼女はベージュと黒を基調としたワンピースに白いカーディガンを着ていた。

 普段よりも濃い目の化粧で、清楚感が強調されている。正直、普通の男なら騙されるレベルに化けていた。

 素直に綺麗だと思う。

 そんな彼女はお駄賃代わりだろうか、俺に冷たいブラックの缶コーヒーを毎度渡していた。

「清楚なお嬢さんに見えますよ」

 アラサーだとわかっているので、嫌味も込めて。

「雑誌のお見合い服装特集でみつくろっただけ」

 と、彼女は自嘲気味に返して助手席に座った。

 俺も乗り込むと、会場に向け車を進める。

 そうして運転をしているうちに、芳香剤も飾りも何も無いそんな車内がほのかに柑橘系の香りに満たされていることに気づいた。

 こんな密室に彼女とふたりきりになったことはないので、香りというものを意識したことはない。

 だからついつい送迎は五回とも意識してしまった。

 ……情けない。

 俺最低。

 おいおい、フラれたからって女なら誰でもいいのかよ俺、と自虐。

 そんな風にして、毎回車の中で訳もわからない罪悪感に襲われてしまうのだ。

 悶々としながら会場に到着した後は段取り通り事を進める。

 そうやってお見合いが始まる。

 毎回、中盤までは上手くいった。

 さすが先任が見繕った相手だけあって、礼儀正しく、そして話も上手い。

 初対面の女性と話すのも小慣れた感じがする人ばかり。

 赤の他人の俺が遠くからその様子を伺っていても、それはなんとなく上手くいきそうな空気だと感じていた。

 だが、彼女はその空気をぶち壊す。

 ある程度のところで唐突に言い出すのだ。

「けっこう男性経験はあります」

「同時に複数の男性と付き合ったことがあります」

「堕胎しましたが妊娠経験もあります」

「性欲が強くて、人よりも発情しやすくてコントロールが難しい時もあります」

 あの笑顔でそういうことを言うのだ。

「そういうの、しないように努力しようと思いますが自信はありません、それでもいいですか?」

 と。

 そうすると、初対面で覚悟を持てというのも酷だろう、相手がひいて終了する。

 男達の態度は様々で、その言葉を笑顔で流す奴、むすっとする奴、いろいろな反応があった。

 最悪なのは怒リだして手をだすような奴だ。そいつは立ち上がりコップごと彼女に投げつけた。

 それが五番目の男。

 最初は俺らが休み潰してここまでしてやっているのに、余計な事を言ってぶちこわす彼女に対し、不信どころか怒りを感じていた。

 そのうち、ある意味相手に対して自分を曝け出す行為は、誠実なんじゃないかと思うようになりだした。

 いずれ男女が付き合うところでセックスに関わることは大きな障害になるのだから。

 だから、三回目、四回目は逆に曖昧に受け応えして流そうとする男達に対して、憤りを感じるようになっていた。

 そして、五回目、とうとうコップを投げる男が出た。

 無駄に潔癖すぎる男で、自分に対する侮辱と思ったのかもしれない。

 俺はその瞬間その場で立ち上がっていた。

 一度腰を挙げると止まらない。

 そのまま会場に立ち入り、今にも彼女に掴み掛かりそうな剣幕の男の前に立ちはだかった。

 ガラスのコップは彼女の顔とかそういうところに当たらず肩に当たり、地面に落ちた。

 もちろんそれぐらいでガラスは割れないので、怪我はない。

「てめーなにしやがるんだ」

 彼女の髪の毛から水が滴り落ちる音を確かに聞いた。

「こういう事を隠して、あとから知るよりか、今知っていた方がいいだろうが! 誰だって隠したいことはいろいろあるんだよ」

 俺に気負されたのだろうか、男は少しのけぞる。

 そののけぞった上半身を逃がすまいと、肩を掴み引き寄せる。

「この人はちゃんと仁義きってるんだ、あんたを侮辱したわけじゃねえ! 怪我したらどうするんだ」

 彼女は笑顔をまったく崩すことなく立ち上がる。そして、髪の毛や服から水が滴ることに対して気にするそぶりをいっさい見せず、男に対して頭を下げた。

 いつの間にか後ろに控えていた先任が何も言わずにやってきて、男を掴んでいる俺の手を握り――それは理不尽な力で、俺の手が凝固したように動かなくなるような状態――男の肩から振りほどく。

 そのついで……しかもすごく気楽な感じで、その先任のごつい拳が俺の顔面に吸い込まれた。

 インパクトの瞬間、脳みそが揺れ、視界がチカチカした。

 それと同時に鼻から口にかけて、錆びた鉄のような匂いが立ち込める。

 俺は丹田に力を入れ、一歩も下がることなく立ち止まった。

 びっくりするぐらい大量の鼻血が噴出して、それがぼとぼとと床に落ちる。

 怯む男を一瞥して、その手元のおしぼりをぶんどり、地面にぼたぼたと赤黒い斑点を描いてしまった血をふき取った。

 先任は容赦なく俺の頭を掴み、作業途中の俺を無理やり頭下げさせ「申し訳ありません」と当人も頭を下げた。

 そんなひと悶着のあと「お見合い作戦はしばらくやめる」と帰りにぎわに中隊長が軽い感じに言った。

 そう、とにかく軽い。

 馬鹿にされている気分になるぐらい、先任も中隊長も軽かった。

 俺は予定通り彼女を車に乗せて、宿舎まで送った。

 行きがけに感じた彼女の柑橘類に似た香りはしない。

 それもそうだ。

 鼻に詰め込んだティッシュとそこに溜まった血のお陰で鉄の匂いしかしない。

 いつもの帰り道。

 ちょっとした世間話をしていた。

 お見合いが失敗した後ということもあり、妙な気を使う中での会話ではあるが。

 だが、五回目の今日は違った。

 ずっと無言のまま、助手席の中尉は水をかけられた時のままだった。

 笑顔が貼りついた顔。

 結局一言もしゃべることなく宿舎に着く。そして、車から降りることなく彼女を見送り、宿舎の入り口に入る姿を見ることなく車を走らせた。

 二十メートルも進まないうちにバックミラーに写る彼女――走りながら手を振る姿――が見えたため、車を止めた。

 ハザードランプをたいて俺は車を降り、忘れ物でもしたのかと彼女に近づいた。

 さすがにヒールの高い靴では走りにくそうだ。

 彼女の走り方が不器用に見えて少し笑えた。

「こ、これ」

 走ったせいだろうか、上気した顔と乱れた呼吸のまま、彼女はバックから取り出した缶を俺に渡した。

 冷たくも熱くもないスチール缶。

「迷惑をかけてごめんなさい」

 彼女は頭を下げた。

「……仕事なんで」

 俺はぶっきらぼうに答える。

 受け取ったものは微糖の缶コーヒー。

 それだけだった。

 特にそれから会話をすることなく、すぐに車に乗って俺は車のアクセルを踏んだ。

 ミラー越しの彼女はすぐに小さくなって消えた。

 ――……あのね、来月、旦那が帰ってくるって。

 その光景がミハルさんと別れた日の、あのベットでの沈黙を連想させてしまったんだと思う。

 運転しながら、頭の中であの日の出来事を何度も繰り返えしてしまった。

 彼女は自分を連れ出して、与えてほしい、助けてほしいと訴えていたんだと思う。

 いっぽう俺はそんな彼女、家族の人生、全部ひっくるめて俺が背負う勇気がなかった。

 覚悟がぜんぜんなかった。

 だからきっと、彼女はそれを感じとり俺の言葉を遮ったんだと思う。

 ――与助君は、夢を与えてくれたし、私の心を助けてくれた。

 感謝の言葉の中に含まれる諦めの気持ち。

 ――ごめん、いろいろ期待もしたけど、やっぱり、若い子に面倒かけられないよね。

 我慢していた言葉をつい出してしまった戸惑い。

 何度か、覚悟があれば、俺は声をかけることができたんだと思う。

 ――ミハルさん……あの。

 ――何?

 言えなかった言葉。

 ――……さようなら、元気で。

 結局この口から出た言葉は逃げるためのものだった。 

 いろんなことが、もう遅い。

 ドアミラーに写った真田中尉の姿がふと頭の中で浮かんでいた。


■■■■■■


 お見合いを受けてよかったと思う。

 もちろん、あの結果を考えると中隊長の佐古少佐や先任上級曹長の中川曹長、それから人事係の綾部軍曹に……そしてお見合い相手には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 のる気はなかった。

 でも準備がとにかく面倒臭かったから……ひとつひとつ組み立てているうちにやってみようと思ったのかもしれない。

 美容室に服、化粧品……お金をかけた分無駄にしたくないという貧乏性も手伝って。

 その結果があれじゃ、ひとから笑われるし、自分でも情けない気がする。

 だけど、ああやって自分の性質を正直言うことで何かふっきれた気がした。

 カウンセリングの先生にも同じようなことを話すんだけど、それとは違う。

 諦めというのだろうか。

 自分で言うのも情けないが、やっぱりまともな人といっしょになれないということを確認してしまったからかもしれない。

 綾部軍曹は初日はヘラヘラした顔だったけど、帰り道から一転してムスッとした顔になった。

 彼は私がお見合い会場で相手に対して誠意の無い暴言を吐いたことを怒っていた。

 でも五回目、コップを投げつけられた時。

 あの瞬間、彼が怒って入ってきた時はすごく驚いた。

 あれだけ私のことを嫌っていたのに、どうして来たんだろうって。そして、また――悪い癖だと承知しているが――期待してしまった。

 ――こういう事を隠して、あとから知るよりか、今知っていた方がいいだろうが! 誰だって隠したいことはいろいろあるんだよ。

 男との前に立ちはだかった彼の背中。

 それはとても大きく感じた。そして同時に焦った――また、いつものように欲情するのか――と。

 でも、それは無かった。

 ただ、大きいな、触れてみたいなと思っただけだ。

 期待はしていない。

 (あきら)が――あいつはときどき暑苦しいから注意……困った人を見捨てない、男気が溢れて大洪水起こす時があるから――と言っていた。

 あの光景を見ながら、ああ、これかと納得した。

 だから誰にでもああいうことをしてしまう人なんだとわかっている。

 私に共感したわけじゃない。

 それでもあの車を降りた時、どうして私は彼を追っかけてしまったんだろう。

 とっさの理由を思いつかなかったから、とりあえずバックの中の缶コーヒーを渡して……。

 ただ、声をかけたかっただけなんだと思う。

『……仕事なんで』

 拒絶の言葉だと思う。

 でも、それでもありがとうと言いたかった。

 少しでも私を理解してくれてありがとうって。

 ありがとう……と。


□□□□□□

 

 五回目のお見合いがあった後の月曜日、俺はじじいに殴られた左目が腫れて、敗戦したボクサーのようになっていた。

 片目しか見えない状態の俺はPCをうつのも苦労していた。

 それに遠近感が掴めず思ったよりも歩きにくい。

 そのせいで最悪なこともあった。

 朝一番の廊下の曲がり角。

 いつもだったら軽く避けれるようなタイミングで最悪な人物と出会い(がしら)の衝突。

 思いっきりぶつかり、そして後ろに倒れたためうまーく受身をとったものの、不幸が連続して後頭部を打ってしまった。

 ぶつかった相手の体が頭に乗っかって来たからだ。

 しかも、ぶつかった相手が悪い。

 お局副官――といっても一、二歳は年下だけど――の日之出中尉だった。

 不可抗力だが、俺の顔面に彼女の胸がのっかったらしい。

 それに押されて地面に強打した後頭部の痛みがひどかったため、その感触はまったく覚えていないが。

 胸を俺の顔に乗せたぐらいで朝からヒステリックに怒られた。

 メンドクサイ。

 あの副官もそうだが、俺だって理不尽な怒りを浴びせられたため朝からイライラしている。

 理不尽だ。

 いろんな意味で理不尽すぎる。

 先任は、朝会うなり俺の頭にそのごつごつしたでかい手を乗せて、独特の低音と迫力のあるカスれ声で「男の勲章だなあ」「男の子男の子」と言いながら頭をぐしゃぐしゃに撫でた。そして、ついでのように叩かれた。

 今は事務所の椅子に座って机仕事をしているが、未だに朝から打つわ叩かれるわされた後頭部が痛い。

 ああ、クソむかつく。

 ドンドンドンドン。

 そんな俺の苛立ちをかき消すような音がする。

 引き続き、頭の中のアラームが鳴り響いてモードが警戒状態に変わる。

 床はコンクリートにタイルを貼ったタイプ。

 それが揺れんばかりの歩き方で入ってきたのは副官だった。

 ゴンっと中隊長室の扉が開き、バンッと閉る。

 ガラスが衝撃で割れないか心配になった。

 話の内容までは聞えないが、副官の興奮したハスキーボイスが勢い良くまくし立てているのは分かる。

 十分ぐらい経ったと思う。

 さっきと同様にゴンッバンッと扉が開閉し、中隊長室から副官が出てきた。

 思いっきりガニマタだ。

 でかい胸と首の後ろのまとめた髪が揺れている。

 中隊長室での怒りの余韻、そして俺とぶつかった朝の事もあるのだろう……いつもの三倍はキツめに俺を睨む。

「さぼってないで、この前指示した学生の適性チェックのグラフ、今日中に出しなさい」

 と強く言われた。

 とばっちりもいいところだ。

 そのまま廊下に出て行った副官が去っていったのを確認して、中隊長室を覗く。

「綾部ー、怒られちゃった」

 情けない声と顔の中隊長。

 少佐が中尉にやりこまれるとは情けない。

 悲しそうな中隊長から話を聞いたところ、中隊長の奥さんは真田中尉をお見合いさせることについては反対だったらしい。

 奥さんに秘密にするって言ってたにも関わらず、自ら相談したところ、夫婦喧嘩になったらしい。

 中途半端に怖がって相談なんてするからだ。

 まったく……。

 それでも中隊長は無理やり断行。

 お見合いの散々な結果などなど、事のてん末を聞いた奥さんはもちろん怒った。

 怒ったというよりも激怒だったらしい。そして奥さんは副官に相談、そして今に至る。

 副官と真田中尉は同期、仲がいいから、まあ仕方がない。

「しかし、女はつながってるなあ、怖いなあ」

 坊主頭をぽりぽり掻いている。

 自業自得ですよと言ってやりたい。

「ということで、しばらくは様子を見ることにする」

 そう言いがら俺を手招きした。

 そのニヤけ顔が、なんとも言えない不安を感じさせる。

「副官と話をつけた、真田はよっぽど自分の欲求をコントロールできないようなんだ……ここじゃ副官がいるが、監視するには副官だけじゃ足りない、特に休みの日とか、なあ」

「はあ」

「で、だ、お前だったら、街にでかけるとき監視してもいいそうだ」

 話が見えない。

「そりゃ、毎度外出の(たび)に、副官があの子にご同行ってわけにはいかんからな、できないときはお前が行くということに決まった」

 はあ、決まった。

「……」

「先任も了解済みだ、まあ、面倒見てくれや」

「……」

「オズの阿呆使いは伊達じゃないな」

 昔からそうなのだ。

 俺はいろいろと呼び込む。

 タコ部屋にいるころから、若い連中、特にダメなやつのお守りをさせられる。

 夜中にひとりでトイレにいけないようなやつ、借金まみれのやつ、ずっと独り言をいっているやつ……。

 そういうものを上手く使う人間、いわゆる『オズの阿呆使い』の称号を頂いている。

 とにかく面倒見がいいと思われて、面倒臭いことをさせられる。

 いい迷惑だ。

 もう散々だ。

 欲求ががまんできないやつらのおもりは。

 まだ、寝小便が癖だったやつのほうがましだ。

 夕食後に水を飲まないように見張り、寝る前に便所にいかせとけばよかった。

 セックス依存症の女とか……無理。

 今までのやつらみたいにバカじゃない分、面倒なことは間違いない。

 バカは言うこと聞かないならぶん殴っとけばよかった。

 ……それに相手は将校様だ。

 中尉殿。

 まあ、レベルが上がったと思えばいいんだろうか。

 このままいけば、いつか将軍のおもりもさせていただけるかもしれない。

 ……まじ、勘弁。

 何なんだ一体。

 なんとも言えない気持ちになった。

「良かったなあ、副官公認だ」

 すごく、良くない。

「アホな質問していいですか?」

「よろしい」

「これは命令ですか」

 中隊長は満面の笑みだった。

「馬鹿野郎、命令に決まっているだろう、しかもかなり私的な」

 なんとまあ、男として情けないというか。

 俺は公認安全君と思われてしまったようだ。

「イエスかハイか了解か、返事は?」

「イエスハイリョウカイです!」

 はあ。

 喫煙所にでも行こうとしたが、途中で引き返した。

 なんだかそんな気分にはならなかった。

 かわりにあのクソ不味いロングタイプの缶コーヒーを飲みたくなった。


 □□□□□□


 五月も終わりごろ。

 金沢は昼間は暖かいが、油断をすると夜の寒気にやられる季節。

 あの日の夜は四月になったばかりでまだ寒かったことを思い出す。

 そういえば、あの日別れたミハルさんの旦那さんは本当に帰ってきているのだろうか。

 来月……四月にそう言ってたから、もうすでに帰ってきているはずだ。

 彼女と連絡をいっさいとっていないから、そんなことはわかるはずもない。

 もしかしたら、家族でこの町のどこかを歩いてたりするんだろうか。

 帰って来ていないとしたら、まだ長期出払っているとしたら……。

 未練がましい。

 そうかもしれない。

 今でもあの抱き心地のいい体を思い出すと、いろんな衝動に駆られることがある。

 年上の女性。

 考えてみれば惹かれるのはそういう女性ばかりだった。

 おかげで、今みたいな女性が多い職場に来たものの、年下ばかりなのでまったく欲情もしない。

 副官も年下。

 部隊のキャーキャー言ってる二十歳(はたち)そこそこの若い女性兵士を見てもなんとも思わない。

 もちろん十代の学生を見ても。

 カウンセラーの先生ふたりが年上っぽいが、ひとりは中隊長の奥さんというだけで萎えるし、もうひとりの笠原というひとは清純な感じが強すぎて、そういう対象にもならない。

 まあ、おかげで健全な日々が送れている。

 気になることはそれぐらいの日曜日。

 金沢では珍しく、雲ひとつなく晴れている午後。

 ひとと待ち合わせしているとき、どうしていろいろ考えてしまうのだろうか。

 特に急いでいるわけでもないので、ゆったりとした気分で立っている。

 あの時。

 あの時、俺は……あのお見合いの場で、どうしてあんな風に怒ってしまったんだろう。

 あれから何度も考えた。

 実はよくわかっていない。

 わかっていないから何度も考えてしまう。

 得たものは腫れた左目と副官と衝突したあとのぱふぱふ。

 どちらも欲しくもなんともないものだ。

 副官のぱふぱふなんぞ、後頭部に受けた衝撃でなんの喜びもない。

 だいたいちょっと美人――うちの学校の女性将校の中で比べたら、一般論、そして俺の趣味ではない――だからといって、減るものでもないし、あんな理不尽なことを未だに根に持っている感じがする。

 あれのせいで、元々嫌っている俺のことがさらに気に食わなくなったようだ、書類に印鑑押すまでに時間がかかっているような気がする。

 失ったものばかり。

 あのお見合い会場であんなことをやっただけで。

 でも、アホなことをしたもんだ……だけではない。

 どうしてだろう……こころに引っかかる、そういう出来事だった。

 ミハルさん。

 まったく別次元なのに。

 どうしてミハルさんに言えなかったあの言葉が。

 あの言葉を重ねてしまったのだろうか。

 あの日、真田中尉は自分のことを包み隠さず話して向かい合おうとした。

 あの日、ミハルさんは旦那さんが帰ってくることを話して向かい合おうとした。

 あの日、俺は決定的な何かを避けるために『……そう』とだけ返事をして、逃げてしまった。

 お見合いの四回目の男たちは俺と同じだった。

 紳士的に決定的な何かを避けた。

 五回目の男は決定的な何かを気付くこともなく、怒り狂った。

 だからなんだと言われれば、なんでもないとしか言えないが。

 ミハルさんは覚悟のない俺を優しく遠ざけてくれた。

 覚悟がないのはお互い様なのかもしれない。

 それぞれの人生を守るため、それは仕方のない結論だったんじゃないだろうか。 

 ――覚悟ができてるなんて言えないけど、もう少し待ってて欲しい。

 そう言おうとして、言えなかった。

 口に出しかけていたが、言えなかった。

 たぶん、またあの場面にタイムループしたとしても同じ結果だっただろう。

 そういうふたりの空気だった。

 そういうふたりの覚悟だった。

 だから、包み隠さず言った真田中尉はすごいと思った。

 俺もミハルさんもできなかったこと。

 だから共感したんだと思う。

 それを否定された気分になったから五回目の男に対して怒った。

 でも、何度も言うがよくわからない。

 やっぱりよくわからない。

 共感したことが本当かと言われると、胸を張ってそうだと言える自信はない。

 うまく言葉にできない。

 あくまで感覚的なこと。

 ただ、あの時、あの瞬間の感情は共感していたという表現以外思いつかないのだ。

 間違いなく俺は真田鈴という人間の行動に共感していた。

 不器用で、儀礼的で、空気を読まない言動。

 ……なぜか心地よく感じていた。

 俺もミハルさんに対してそうしていればよかったんじゃないか……そんな後悔に似た想いがわいていた。

 もちろん、どうしようもない。

 こぼれたシチューだかカレーは元に戻らないとかそんなことわざがあったっけ。

 ……なんて。

 どうでもいいことをひたすら考えてしまった。

 に、しても待ち人はまだ来ない。

 午前中、軽くトレーニングをしてシャワーを浴びたころに、真田中尉から電話がかかってきた。

「晶が今日はだめだっていうからお願い」

 と言ってきた。

 例の取り決めの件。

 まあ、あの副官も三十手前のプライベートも忙しい時期だろう。

 浮いた話は聞かないが、少し猫を被れば男なんてよりどりみどりなはずだ。

 忙しい日もあるはずだ。

 俺は特に何も無かったので「わかりました」と返事をして、待ち合わせをする時間と場所を決めた。

「買い物、それから夕食を食べたい」

 と注文があった。

 こんな約束を二週間前もしていたから、今回は二回目。

 俺が歩いて向かった待ち合わせ場所に彼女はいた。

 春らしい、この間とは全然違う、ベリーショートの髪、薄い化粧に、ふわふわっとした薄い色のベージュやグリーンでまとめられた柄の上着と七部丈のパンツ姿。

「ご苦労様です、中尉」

「お疲れ様、軍曹」

「はい、今日のお駄賃」

 ぽいっと缶コーヒーを投げて渡された。

 あの日と同じ銘柄。

 微糖。

 道端で二人でぐびぐびと飲む。

 安っぽい味。

 でも、飲みなれた、そんな味。

 こういうのも悪くはない。

 うん。

 悪くない。

 煙草を取り出そうとしたが、やめた。

 まずは、俺は缶コーヒーを飲むことからはじめることにした。

 たぶん、彼女もそうだろう。


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