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缶コーヒーからはじめよう。  作者: 崎ちよ
第1章  気が付けば煙草に逃げている。
3/25

第3話 「イエスかハイか了解か」

 □□□□□□


 三日後、中隊長室に呼ばれた。

 最悪だ。

 例のことがバレたらしい。

 坊主頭の中隊長(おやじ)と、鬼の形相の先任上級曹長(せんにん)がソファーに座っている。

 中隊長の佐古(サコ)少佐は中肉中背、やや頬のこけた顔で細く垂れ気味だが鋭い目つきの坊主頭の三十六、七歳ぐらいのおっさん。

 次に先任の中川曹長は、恰幅のいい巨体に白髪混じりで角刈り、鬼瓦のような顔をした五十前後じじい。

 そのふたりが深刻な顔をして並んでいた。

 中隊の誰もが避けたいと思うシチュエーションである。

 ちなみに二番は副官のメンドクサイねえちゃんの説教。

「依存症と言うやつだ」

 と中隊長が切り出した。

「辞めてもらうのが一番手っ取り早いんですが、小隊長にそんなのがいちゃ、兵隊に示しがつかんでしょう」

 と先任。

 俺を無視するかのように話をしている。 

「先任がそう言うのはわからんでもないが、彼女にも人生があるからなあ」

「女に甘い、中隊長、それじゃいかんですよ」

「甘いわけじゃない、投げ出すのは簡単なんですよ、ポイってするのは……あくまで最終手段だ」

 ふうっと先任が目を細めて溜息をついた。

 なんか怖い。

 このじじいは二十年前の戦争を生き抜いたという噂だ。

 確かに、顔を見ているだけでその噂は真実だと思う。

 まあ、それに対して中隊長、この人も実戦経験があるとか言われている。

 確かにその坊主頭と顔は精悍ではあるが、年齢的に二十年前だと十五、六歳だから実戦経験はないと思う。

「ものは言いようですなあ」

 先任は目を細めたままで言う。

 話から置いて行かれそうになった俺は、黙っていることに耐えられなくなって疑問をぶつけてしまった。

「なんで、そのことを中隊長は知っているんですか?」

「真田が、カウンセラーに相談している」

 と中隊長。

「カウンセラーは、中隊長の奥さんなんだ」

 と先任。

 ちょっ、まて。さらっと大変なことを言ったぞこのおっさんたち。

 守秘義務って知っていますか?

 ねえ、おっさんら?

 と思ったが、怖いので言えない。

「まあ、うちのやつは『カウンセラー失格』といっていたが……大きな事故に繋がってしまう前に早く処置が必要だからやむを得ず……私に言ってきたそうだ」

 先任がギロリと怖い顔で俺を睨む。

「それでここ数回、あれの動向を探っていたんだが」

 腕を組む先任、深い溜息。

 こっちまでやってくる息が臭い。

 いや、加齢臭という意味で。そして、その溜息を吐き出しながら少し悲しそう言葉を続けた。

「体を売っているというのがわかっちまってな」

 ああ、わかった。

 このじじいに脅されたら大概の人間はゲロるだろう。

 これが彼女が言っていた――どうせ調べは付けられているんですよねー――なのだろう。

 納得。

 合点。

「うちのやつがそれを聞いて、青い顔してしまって、それで早急に何か手を打たないといけないって煽られた……ちなみにこういう場合、金目的ではないそうだ」

 先任が中隊長の方を向く。

「ですが規律違反は規律違反、やっぱりでかい話になる前にさっさと辞めてもらった方が……」

 ――まあ、さはさりながら……って話で。と中隊長はつぶやいた。

 沈黙。

 中隊長が俺を見据える。

「綾部はどう思う?」

「いや、さっぱり」

 そりゃそうだ。

 将校の話に一介の軍曹が口を挟む筋合いはない。

「あほう」

 と先任。

「ばか」

 と中隊長。

「なんでお前をここに呼んだのかわってないな、まったく……ちったあ頭使え、頭」

 ――ま、綾部には無理か。

 なんて先任が続けるものだから、さすがに俺はむっとして言い返してしまった。

「わかりませんよ、ただ、そんな爆弾小隊長、もう辞めてもらった方がいいと思います」

「冷たいなあ、綾部は」

 と間髪いれず中隊長。

「いやー、人間のクズだな……俺はそんな子に育てた覚えはないぞ、かーちゃん悲しいぞ、綾部……それにだ、せっかく真田と歳が近い若いもんの意見を取り入れようという中隊長の心意義がわからんのか」

 このじじい。

 さっき――辞めてもらった方が――って言ってたじゃないか。

「俺なんかよりも、副官……日之出中尉を入れて話した方がいいんじゃないですか?」

 中隊長が鼻で笑う。

 え、俺そんな変なこと言った?

「そんな面倒臭いことはやりたくない」

 同意、同意と頷く先任。

「お前なあ、考えてみろ? この相談に日之出を入れたらどうなるか、一方的に決められて相談になんかならん」

 いや、あんた上司でしょ。

 おっさん。

「副官は、真田中尉の事になると感情的になりますからな」

「ああそうだ、女はすぐ感情的になる、我々のように冷静な判断ができん」

 でたよ、男尊女卑。

 しかし、それも一理あると思う。

 あのふたり普段からボケとツッコミの間柄なのだが、真田中尉の面倒を副官が見ているような関係である。

 ただ一方的ではなく、あの副官の気難しい顔がなんとなくだけど朗らかになっている気はしていた。

 そういう意味でも彼女達のべったり感は尋常じゃない。

 でもさ……そんなに決めつけなくても。

「ならば相談だ、よし、若いの早く意見を言え」

「中隊長も必死なんだ、下手こくと奥さんに怒られる、離婚迫られるかもしれんから、そこも女の友情があるらしい」

「先任、そんりゃ言いすぎ、うちは亭主関白」

 ……亭主関白と言う家庭で、本当に関白している人がいたら教えてほしい。

 その後、不毛な会話が八割。

 二割程度のまともな談合。そして俺の意見はまったく入れられることなく、おっさんとじじいの二人で処置を決めてしまった。

 いや、ほんと俺の存在価値って何よ。仕事もあるからこんなことする暇ないんですが。

 で、結論。

『どうして真田中尉は前の部隊で男に手を出したのか?』

 ――前の部隊の男どもはクズだらけで環境が悪かった。

 理由。

 うちの中隊、大隊はクズはいない。

 だから身内には手を出していない。

 ……ちょっとまて、じゃあ先日俺に彼女があーしてこーしようとしたのは、俺がクズだったせいってことかよ。

『処置対策は?』

 ――クズ以外のまともな男をあてがう。

 理由。

 元凶は酷い男に遊ばれた――詳細はさすがに奥さんも教えてくれなかったらしいが――ことだと言うので、目には目、歯には歯と、なんとかブラビホーテンだとか言っていた。

 ……いや、そりゃバカでアホな俺だけど、それはなんか違うと思うぞ。

「よし決まりだ」

 腕を組んで満足そうに頷く中隊長。

「それでは、先任の地元のツテでそこらへんの真面目でいい男を見繕いますわ」

 立ち上がり、ニヤッとした顔をする先任。

「役所、警察、ちょっとした企業のエリート君とかそういうまともなのがいいな、間違っても軍人は選ばんが……特に海軍なんてありえんので」

 中隊長がそう言うと「重々承知」と先任が頷いた。

 俺はポカーン。

 何のことはない。

 すごく深刻な話をしていたつもりが、ただの独身アラサー女子が一番嫌いそうな……上司によるただの押し付けがましいお見合いなってしまった。

 下手すると、セクハラって言われちまうんじゃないか。

 俺はぼりぼりと無精ひげを掻いていると、いきなり後頭部に衝撃が走った……一瞬だけ意識が飛んだ。

他人事(タニンゴト)のようにしているがお前も手伝うんだよ、中隊の人事係だろ? お見合い会場のセッティングや真田中尉の輸送なんか必要だろう……ビシッとしたスーツとか準備しろ! あとその汚い無精ひげは剃れ! いいな」

 じじい……冗談で叩いたつもりかもしれないが、いやマジにやばいから。

 あんたの平手打ち。

 脳みそ揺れるからさ。

 それに人事係の仕事ってそんなことするっけ? なんなんだ一体。

 ひりひりと痛む後頭部をさすりながら、メンドクサイとメンドクサイと心の中で連呼する。

「返事は! イエスかハイか了解か!」

 そんな面白くのないことを中隊長は冗談のつもりでいっているようだが……まったく笑えない。

「了解しましたー!」

 やけくその返事。

 はあぁぁぁと自然に溜息がでる。

 ああ、これを嘆息って言うのか、と俺は思った。


■■■■■■


 とうとう中隊長室に呼ばれてしまった。

 扉を開けると、上司の深刻な顔。

 きっとあのこと。

 ばれた気がする。

 仕方がない。

 自業自得なんだから。

 私はそう思いながら中隊長の前で敬礼をする。

 でも、違った。

 肩透かしというのだろうか。

 理由もなく「お見合いをしろ」と言われた。

 どうしてですか? と一応理由を聞いてみたが「それは言えない」と返された。

 ただ「これを受けてもらわないと、真田中尉に対して他の処置をしなくてはならない」と脅された。

 違う意味での肩透かし。

 ああ、あいつ、人事係の軍曹さんがとうとうチクったってことか。

 あれだけ格好つけて――仲間を売ることはしない――なんて啖呵切ったのに。

 やっぱり噂どおり、見た目どおりの軽薄な人だったんだろう。

 あの時、あの剣幕に押されてすごく恥ずかしくなって逃げるように部屋を出て、でも同時になぜだか胸が暖かくなって、そのお陰だと思うけど、週末のあれが少しだけおさまったのに……少しでもそう感じてしまった自分が情けない。

 私は中隊長の要求に笑顔で承諾した。

 それでも気難しい顔を崩さなかったが、少しだけ柔らかい目つきになっていたのは感じ取れた。

 結局、私を処分するとなると、自分まで火の粉がかかるから、穏便に済ませたいだけなのかもしれない。

 すごく恥ずかしいことだが、あの軍曹の言葉にちょっとだけ『仲間』というものに期待してしまった。そして、こういう事態になり、やっぱりな……と裏切られた気分になった。

 あの軽薄な男に対し、どうしてそう思ってしまったんだろう。

 私が退室しようとして、お辞儀の敬礼をしていると中隊長が口を開いた。

「あと、うち……じゃない、カウンセリングの先生と副官にはこのことは内緒だ……いいな、言うなよ」

 と、少しモジモジしながら中隊長は言った。

 はあ?

 なんでそこを隠す必要があるのか理解できなかったが、わざわざそんなことを言う必要もなかったので、了解しましたと答えた。

 さっき言った副官の(あきら)にはこれ以上迷惑をかけれない。

 たぶん、私がこうなってしまったことを、自分の事のように背負ってしまっているから……。

 本人は絶対に言わないが、問題児の私を受け入れる部隊がなくてどうしようも無かった時、彼女はいろいろと根回しをして、ここが受け入れるように働きかけをしたと聞いている。

 そういうところは見習い士官でいっしょに陸軍士官候補生学校で訓練していた頃から変わらない。

 士官候補生学校は統合士官学校卒業生と私のような一般の大学卒業生が混ざって、少尉になるための将校教育を受け持つ教育機関。

 統合士官学校は四年間をかけて軍隊の訓練、将校としての教養も身につけさせていて、エリート意識が高い人達がそろっている。

 それに比べ昨日まで軍隊を知らない私のような人間がいっしょになって軍隊の教育を受けるのだ。元々不器用だった私は、もれなく落ちこぼれ組みに入ることになった。

 そんな環境の中、彼女は不器用な私を同級生なのに持ち前の姉御肌を発揮して面倒を見てくれたのだ。そして、それに甘えて心地良くて、未だに離れられないのが今でも続いている。

 彼女は私が性依存症になってしまった理由を自分が作ってしまった――紹介した統合士官学校時代の先輩と私が付き合って、そしてひどい別れ方をしてしまったから――と思い込んでいる。

 もちろん、世間一般の人が聞けばひどい別れ方だったとも思う。

 妊娠させて、堕ろさせてさようなら……。

 でもそれだけじゃない。

 あの人は私の本性で向き合えた人だった。

 恥ずかしい私をむき出しにしてくれたから。そして最低の人間だったから。

 そういう人にむちゃくちゃにされて、あの人しか見えないくらいに好きになって、気持ちよくて、あの人がすることすべてに対して快感を覚えるぐらいになって、そして狂ってしまったんだと思う。 

 ゴムをつけて欲しいとお願いしたことがあるが、目の前でやぶかれて拒否された。避妊薬を飲もうとしたら「面白くなくなるからやめろ」と命令された。

 別の男性としているところを鑑賞された。

 別の女性としているところを見せられた。

 妊娠がわかって、産んで育てると伝えたら「面白くないから堕ろせ」と命令された。

 馬鹿な事だとはわかっていた。でも、あの人に命令されると、それは絶対だった。

 わからない。

 思考が停止した。でも、その考えなくなった瞬間、一番心が充実していたのは間違いないと思う。

 そして、あの人は私の前から消えた。

 それからだった。

 週末になると、独りになると発狂しそうになるぐらいの寂しさ、欲情に悩んだのは。

 今でこそカウンセリングを受けて原因はなんとなく見えてきたんだけど、当時はそういうこともしなかったから、ただただ混乱するばかりだった。

 最初に手を出したのは、前の部隊、四十歳で既婚者の中隊長。

 でも、私の中の渇望は満たされることは無かった。

 あの中隊でもいろいろ噂は立ったと思う。

 ただ、便利な女がいるから試してみろ。

 あの男たちの中でそういう感じだったと思う。

 私の欲求と彼らの欲求、ちょうどうまく重なったんだと思う。

 結局、いろいろ試してみたが、どんどんカラカラになっていって、ますます週末が耐えきれなくなってしまった。

 ……どうやったら、あの人といた時間に届くのだろうか。

 いっそのこと、何もかも無くした方がいいと思う。

 でも、もしそうなってしまったら、間違いなく晶は壊れてしまうだろう。

 彼女はそういう人間だ。

 姉御肌は表面だけで内面はとても繊細な人だと嫌というほど知っている。

 だから、私はカラカラになって死んでしまわないように、晶に心配させないように、必死に週末を生きている。

 でも欲望を満たしたいために友達を言い訳に使って自分もいる。

 そのことに気付き、また死にたくなる。

 それをずっと繰り返している毎日。

 本当に壊れるまで。

 ずっと繰り返すしか。

 でも、晶を悲しませないため、私は必死に足掻くことしかできなかった。


 □□□□□□


 喫煙所で俺はひとりタバコを吸おうと火をつけたところだった。

 まったく嫌な世の中だ。

 四階建ての建物なのに一階の隅っこにしか喫煙所がないなんて。

 もちろん屋根もない、青空喫煙所。

 春秋冬は、日陰でじめじめしてそして冷たい風が強く吹き、クソみたいに寒い。

 夏はなぜか日当たり良好で、風も吹かずタバコを吸うか熱中症になるかを選択しなければならない。

 だから春なのに寒い風に打たれながら、ちびちびと煙を吸い込んでいた。

「一本もらってもいーい?」

 不意に声をかけられた。

 子供のような声。

 ちらっと見る。それは予想した通り、真田中尉だった。

「どうぞ」

 彼女はぎこちなくタバコを受け取り、じーっと珍しそうにそれを観察している。

「つけてほしいなあ」

 と言って今度は俺をじーっと見てきた。

 あの夜とは違う顔、昼間に見せる顔の真田中尉だった。

 天然ぶってる。

 今ならそうわかる表情。

 俺は彼女が口にしたタバコに火をつけると、ぎこちなく彼女は吸ってみて、軽く咳き込む。そして眉をひそめながら俺を見上げる。

「綾部軍曹は、ふたつ上なんですね」

 年齢のことをいっているのだろうか。

「ええ」

「もっとおじさんかと思った」

「そりゃ、どうも」

「……中隊長に言いましたね」

 言ってない。

 知っていた。

 まあ、ここでそんなことを言っても、しょうがない。

「……」

「怒られませんでした、その代わりに『見合いしろ』って」

「……」

「辞めろって言われるかと思って、覚悟していたんだけど」

 彼女はその天然ぶった笑顔を崩さず話している。

「俺は正直、中尉にはお辞めになって頂いた方がみんなのためになると思いますが」

 なんだかその笑顔に対し、ぞわぞわした気分になったため、意地悪なことを言ってしまった。

「意地悪」

 と、直球で返された。

 続いて「それに軽薄、嘘つき」と少し子供っぽく口を尖らせて言ってきた。

「ちょっと待って下さい、俺は軽薄だってのは認めますが、嘘つきは認めません」

「軽薄は認めるんだ」

「しょうがない、みんなそう言う」

「嘘つき」

「何が」

「いいか、よく聞け! 俺は、仲間を売ることはしない! 以上、それだけだ」

 俺の口真似をするわけでもなく、彼女はジト目かつ棒読みでそう言った。

 いや、ちょっとまて、それは反則だ。

 勢いでってのもあるが、あれを今ここで思い出すと、羞恥プレイもいいところだ。

 あんなに臭いことを言ってしまった自分の口をもぎ取りたい衝動に駆られる。

「本当に中隊長に告げ口はしていない」

 告げ口。

 小学生か俺は。

「……軽薄、信じられない」

 彼女は子供っぽさのない声でボソッと言った。

「あのな……」

 俺は吸い終わったそれを灰皿に押しつける。そして、備え付けの針金で吊るされてゆらゆら揺れる、頼りないペットボトルを適当に加工して作った消火用の水にそれを突っ込んだ。

 小さな音だが、いつにも増してジジーという音が響いた。

「その、俺はよくわからないんですが、民間人でいい男みつければなんとかなるんじゃないんですか」

 彼女は慣れない煙を吸った為か、答える前にちょっと咳払いをした。

「お見合いなんて」

 そう言った彼女の翳った顔を見て、俺の中でいつもの「やめろアラート」が鳴り出す。

 これ以上は立ち入ってはいけない。

 これ以上は関わってはいけない。

 そんな時に、そういう空気を感じたときに頭の中で鳴り出すそれをそう名付けている。

 今までそういうことに巻き込まれまくったことを思い出す。

 そんな大した自慢にもならない経験値を糧に、そういうものを空気で感じることができるようになっていた。

 だが、残念ながら一度も役に立ったことはない。

「私の内側を少しでもさらけ出したら、たいがいの男は逃げるんだけど」

 その言葉はさすがにひく。

 どんだけ痛いんだ、この女。

「今、痛い女と思ったでしょう」

「正解」

 正直に言った。

「ショック」

「俺、軽薄だから、ぜんぜん気にしなくていいと思いますよ」

「上官に対してその笑顔、すごいむかつく」

「痛い子を見る目です、真田中尉の『ぶった』笑顔よりマシです」

「……」

 彼女は黙って手に持ったタバコを灰皿に押し付けた。

「うまくやっているつもりだったんだけど……前のところで失敗したから、心配させなように、部隊の男には手を出さなかったから」

「いや、あんた俺に手を出したでしょう」

「あれはノーカウント」

 なぜ、ノーカウントなんだ、おい。

「くわえてないし、いれさせてない」

 彼女が心の中の問いに答えるようなタイミングだったので、俺は一歩下ってしまった。

 怖えよ。

 どぎついことを可愛い顔で言うからまじで恐ろしい。

 だが、俺も反撃をする。

 負けてられない。

「ところで、なんでお金を」

 頭の中のアラートが鳴り響く。

 なんでそんなこと聞くんだ俺……入り込むなよ俺。

「お金を挟めば後腐れがないから」

 さらりと、二十七歳には見えない顔で言う。

 そのギャップがすごくもの悲しく感じた。

「……」

「前のところは後腐れしちゃってもつれちゃったから……それに綾部軍曹も知っているとおり、ここの人達に手を出さないことがこの部隊にいる条件でしょ? だからムラムラっときたら買ってもらう」

 もう迷惑をかけれないと彼女は呟いた。

「秘密にしてくれるなら、買う?」

 笑顔で安くするからと付け加えた。

「……」

 もしかして腹いせで挑発しているのだろうか。

「前みたいに怒らないんだ」

「あの時は、俺が侮辱されたから」

 俺は嘘をついた。

 人から誤解されているが、俺はあんまり自分が馬鹿にされても怒らない性質だった。

 俺はあの時、別のことに怒っていた。それに、今は挑発に乗ってはだめだと自分の中の経験値さんが言っている。

 俺はもう一本取り出すと、それに火を付け、ゆっくりと吸った。

 あの時と同じ。

 同期でもう辞めてしまったが、ひたすら風俗におぼれ借金を繰り返し、そして同期のよしみで借金を繰り返し、そのまま脱走した男。

 ただ何故か憎めなくて、でも、俺のそういう同情につけこむようにいろんな方向から攻められ、そして結局俺は金を貸した。

 あんな経験を繰り返しては駄目だ。

 俺は立ち上がらず、無言でフィルターギリギリまで煙草を吸い続けた。

 ただ、あいつとはちょっと違う。

 あいつは軽かった、薄っぺらかった。

 目の前の女は、深々とした痛々しさが浮き彫りになっている。

 一瞬、ミハルさんの細い背中と重なった。

「なんだ、怒るのを期待していたのに」

 彼女のか細い声が一瞬にして風にかき消される。

 だから、聞えなかったことにした。

 彼女が立ち去ってからしばらく経った後、やっと重たくなった腰を上げた。

 手と足が重い。

 ぽいっと灰皿の中に吸い終えたタバコを投げ入れる。

 面倒なことはごめんだ。

 もう、巻き込まれるのもごめんだ。

 投げ入れたつもりのタバコは見事に外れて転がり、地面の割れ目に挟まる。

 俺は棒っ切れで必死に取り出し灰皿にやっと入れることができた。

 少しでもゴミを散らかしていると、嫌煙家の中隊長にどやされることになる。

 マナー違反、はい撤去。

 笑顔でそういうことをやる上司。

 まったく。

 今日はついていない。

 あの女と会話したことも。

 タバコが転がったことも。

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