第20話 「優しいだけ」
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丘の上で与助くんの緊急信号が発信された。
一瞬血の気が引いたが、何かの衝動にかられ、行動することができた。
私は鍵がかかったままの軽トラックを拝借し――後で勝手に使ったことや傷をつけたことを旅館のオーナーに謝ったが、逆によくぞ悪人退治に使ってくれましたと感謝された――丘の上に向かおうとしていいたところで中隊長や林少尉達と合流し、彼らを運搬することになった。
騎兵魂というのだろうか。
アクセルは全快で、あぜ道を急発進急加速で登って行ったものだから、短時間とはいえ、酷い乗り心地だったと後から笑いながらお叱りを受けた。
林少尉は顎を打って腫れてしまったという。
丘の手前で待機しろと言われて待っていた。しかし、銃声が数発聞こえたところでいてもたってもいられず現場に向かったらあの状況だった。
拳銃を構えた敵。
丸腰の与助君、そしてサーシャ。
それだけが視界に入った時、私はアクセルを全開にして突っ込んだ。
軽トラで頭からぶつかると自殺行為と思ったので、スピンを利用して打撃した。
あの時、相手が死ぬとかそういうことは考えてなかった。
ただ、拳銃を持った敵をどうにかしたいと思っただけだ。
そうしないと与助君やサーシャが殺されるという脅迫観念は何にも勝り、その時の私の思考を支配した。
今思うと、あまりの短慮にゾッとしてしまう。
もしも敵が私めがけて至近距離から撃ってきたら。
もしもまだ他に敵がいたとしたら。
もしもハンドル操作を誤って、丘の向こうの崖から落ちてしまったら。
……いや他の学生たちを巻き込んでしまっていたら。
今更だが結果オーライだとしても、あの時そこまでリスクを考えていたとは思えない。
周りが見えなくなってしまう自分に対して、あとから恐怖心が沸いた。
軽トラの左フックがきまった後、中隊長や与助君が取り押さえ、あの敵は自殺した。
その数時間後ダークスーツの数人の男と憲兵が来て今の話を軽くしただけで解放された。
一方、サーシャは平気な顔をしていたが、少しばかり興奮しているのは隠せていなかったと思う。
気丈に振舞っていたが、腕を切りつけられ八針縫う怪我――遠泳訓練ということで軍医が来ていたのですぐに処置ができた――をしていたし、目の前で人が死ぬというのを目撃していた。
それは自然なことだと思う。
だいたい、他の中村風子や三島緑といった女の子は少しショック状態。
それは女子だけではなく男子だって同じことだと思う。
実際、男子のひとりはあまりに震えが酷かったから抱きしめて落ち着かせた。
上田くんは肋骨の骨折で済んだものの、女の子を守りきれなかったことに少なからずショックを受けていた。
それは子供のくせにちょっと自信過剰だとは思うけど。
だけど、あとから聞いた話だと、大人達が来る間彼とサーシャ、そして部外の少女の子供三人で、あの敵と渡り合っていたという。
いや、大したものだ。
そう考えると、そもそもそういう危険に陥れてしまった大人たちが情けない。
一番近くにいた晶。
あれは大人でもどうしようもないと思うけれど、彼女は自責の念でいっぱいになってしまっていると思う。
その晶も一見テキパキと後処理をしているように見えるが、私には相当落ち込んでいるのがわかった。
彼女はあの騒ぎが始まる直前にあの仲居の格好をした男に頚動脈を占められ失神したということだ。そして、敵のもう一人の仲間に意識を失ったまま人質にされていた。
落ち込むどころか、すごい疲れもあるだろう。
しかし、彼女は実務が多忙で後処理に奔放していた。
もしかしたら、今の彼女にとっては多忙なぐらいがちょうどいいのかもしれない。
あの頑張り屋さんはすぐ自分を責めてしまうから……。
これだけの騒ぎを起きたのだから、さすがに他の学生たちも浮き足立つような感じになっていた。
そんなわけで全員を集めて中隊長は今回のことを説明していた。
「外国人排外主義者達がサーシャを襲ったが未遂に終わった、命に別状はないがけが人が出ている……すでに事件は解決し安全に問題はないから大人しく寝ろ」
と。
無駄に恐怖を与えないようにするため。
とは言っていた。しかし噂でも本当のことが流れてしまうと、あまりいいことが起こらないというのが専らの理由だ。
外交問題にも発展するかもしれないと中隊長は憂慮していた。
教官陣は後処理とケア組みに分かれて、ばたばたしている。そして私はケア組。
当事者になってしまった女子三人のケア。
ケアといっても、私の部屋に移動させて、話を聞いていっしょに寝ることぐらいなんだけど。
サーシャは子供みたいなことをする必要がないと言っていたが「私も一人で寝るのは怖い」と話をしてみると、しょうがない顔をして私の部屋に荷物を持ってきた。
他のふたりが怯えていたのも手伝ったのだろう。そして夜は女子トークといきたいところだったが、今日あった事実を彼女達の口から聞くことが精神的なリハビリになるらしい。
私はじっと彼女たちの話を聞くことにした。
話を聞くうちにひとつのことに気づいた。それは女の子達は一度落ち着くととても冷静に物事を見ているということだ。
私は順を追って話を詳細に聞くことができた。
まずは学校祭の時に襲ってきた少女らしい子がいきなりサーシャの首に巻きついて絞めようとしたという。
サーシャも抵抗して実力伯仲の二人がもみ合っていると、いきなり案内してくれていた仲居さんが牙を剥いてきたらしい。
少女がサーシャのバランスを崩し追い詰めようとした時のことだ。
あの鋼鉄の棒がが仕込まれた竹箒を持ってサーシャの喉を突こうとしたと言う。
ただそれは上田くんが介入して、それから庇うようにしたため、避ける事ができたという。
それからはなぜか襲ってきていた少女も仲間に加わり三人がかりで敵と対峙。
そのうち三人でも段々と形成が不利になり、さっきと同じように上田くんがバランスを崩したサーシャを体を張って庇おうとしたところ、突きの直撃が彼の胸に当たり倒れてしまったという。
その時、ちょうど与助君が丘にたどり着いた。
そこで私はひとつ疑問があった。
その少女はなんの目的で襲ってきて、なんの動機で仲間になったのか。
それに対して風子が端的に答えた。
「サーシャが嫌いで、上田君を好きだから」
「そんな好き嫌いで……」
「学校祭の事件の後、いきなり上田君にチュウをした他校の生徒覚えています?」
学校祭の後夜祭、チュウ?
サーシャが暴漢たちに襲われた時、やっぱり身を挺して守った上田くんは右手を骨折した。そして後夜祭のダンスの輪に入れず、体育館の端っこに座っていたのだ。
私は今日と同じように彼女たちの心のケアも兼ねてぴったりついていた。
確かにあの時、急に現れたツインテールの女の子が上田君にキスをしたのを覚えている。
こんなところで堂々とキスをするなんて、最近の高校生はすごいなあと思ったからよく覚えている。
彼はその後サーシャに飛び蹴りをされてかわいそうな目にはあっていたけど。
あの女の子と、いつの間にか現れた『母』と自称する女性。
――今度はサーシャちゃんを守れって雇われたからよろしく。
とか言っていた女性。
「きっと何かがあって、サーシャを襲ったけど、上田君が危なくなったから助けに入ったんじゃないですか?」
そんな単純な理由で敵味方に戻るんだろうか。
あの現場にいた母娘。
――ロシア側、正確に言うとサーシャの兄が雇ったボディーガード。
と中隊長は言っていた。
あの覆面をした少女とシルエットが重なり納得した。
その後の話は聞かないでおくべきか悩んだ。
あまりにも生々しい話になると思ったからだ。
だが心のケアをするなら話を聞いたほうがいいと思い、その後の話も続けて聞くことにした。
自分たちの真近に晶を抱えた大男が現れたこと、そしてその男が人質の晶に銃を突きつけていたという。
中隊長が音も無く現れて、表情を変えることなく男の拳銃を持つ手を制し、そして後頭部を二発撃ち抜いたこと。
地面に落下した衝撃で晶が目を覚ましたことを聞いた。
あとは私が車で突っ込んだという話だ。
彼女たちはその話が終わったあと、今度は私に質問をしてきた。
「真田中尉は怖くなかったんですか?」
と。
私は嘘をつく必要も見栄をはる必要もないと思ったので、その時の気持ちを正直に話した。
「あの瞬間は全然怖くはなかった、目の前のサーシャや綾部軍曹が危ないと思った時は体が勝手に動いていたんだよね」
私はそう言って、少し間を置いた。そして少し息を吸って話を続けた。
「でも、丘の下で待っていた時、そして終わった後からすごく恐怖感が沸いてきて、震えた」
「真田中尉も怖かったんですか?」
「怖かった」
彼女たちは意外な顔をする。
サーシャは不審な目だ。
「軍人っていっても、人を殺したことがないし……それに目の前で人が人を殺すところなんて見たことがないから、だからショックを受けていると思う……だからね、あなた達も同じ、あんなことがあったら誰でもショックは受けると思う」
冷房の効いた部屋の中だからだろうか、少し肌寒く感じてきた。
「私は大丈夫」
サーシャはそう言って目をそらした。
私は目の前の三人が寄り添って座る場所まで四つんばいで近づき、サーシャの隣にお尻を割り込ませるようにして入った。そして、三人の首に腕を回しぎゅっと抱きしめた。
「ほら、まだ少し興奮して心臓が早いでしょ」
私はそう言って黙った。
「そんなに速いかな?」
緑がそう言う。
「普段、ほら、私は動きがゆったりしてるでしょ」
「それと心臓の速さは関係あるんですか」
「あるある」
風子と緑が笑う。
「怖くていいんだよ……怖い思いをしたら、それをちゃんと口に出して話したがいい、自分で抱え込まないようにね」
私はそういう処方箋を知っている。
あの誰とでも寝ていたころ、精神が不安定だったころの話を付き合う前の与助くんに洗いざらい話していたことを思い出す。
あの時、どんだけ心が軽くなったか、そして助けてもらったか。
こんなことを聞かせて悪いという罪悪感もあったけど、それ以上に心の負担が軽くなったと思う。
私はサーシャの綺麗な金色の髪の毛を撫でた。
「ねえ、もう痛みは? 大丈夫?」
包帯を巻いた肩を見る。
「痛み止め飲んでいるから」
「痛かったら言うんだよ、薬飲むのにお水いるでしょ」
「そんなの自分でできる」
「少しはお姉さんに甘えなさいって」
そう言ってつやつやしたその綺麗な髪の毛を撫でた。
「真田中尉」
サーシャがぼそっと声を出した。
「なーに?」
やっとこの子の心がほぐれたんじゃないかと思った。これで少し彼女も弱みを見せてくれそうな予感がした。
「あの軍曹さんと恋人ですか」
……。
おい、そっちの質問かよ。
奇襲に対し慌てそうになったがそんな素振りを見せないように一度空気を吸う。
大人の余裕大人の余裕。
でも、なんで今更そういうことを聞いてくるんだろうか?
すでに学生の間でそういう噂になってしまったのか……いや、学生に気取られるような真似とかそういうミスはしていないと思うけれど。
だいたいサーシャってそっちの話はあまり絡んで来たことないのに。
「中尉が車で入ってきたとき、軍曹が『鈴』って名前を叫んでいたから」
そうか。
与助君、それ言っちゃったか。
まったく。
たかが名前を呼んだくらいだ。
なんとでも誤魔化せる。
「おともだち」
私は笑顔で答える。
「鈴! っていってましたよ、すっごく必死な声で」
風子も入ってきた。
「だっておともだちだもん」
「あんな人が好みなんですか?」
と緑。
おいおい、人の彼氏をあんな人とか言うな。
「おともだちをあんな人とか言わない」
「ですよねー」
「いい? 綾部軍曹はおともだち、そういう関係じゃないから」
「すずぅー!」
風子がそう言ってまったく似ても似つかない物真似をする。
「こら、大人をからかわない」
「いたいいたたたた」
私は笑いながら風子のこめかみをぐりぐりした。
「大人をからかう人は、大人として断固たる態度で接しますから」
こぶしを握り、ぐりぐりするしぐさをして笑った。
サーシャも少し笑った。
すごく可愛らしい笑顔だと思った。
ああ、これじゃひとのこと言えたものじゃない。そして、衝動的にそのつやつやした金色の髪の毛をぐしゃぐしゃっとかき混ぜた。
まったく、生意気でかわいいんだから。
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スピースピーとかわいらしい寝息が聞こえる。
まだ暗い。
目が覚めてしまったようだ。
私が一番興奮したままなのかもしれない。
彼女達のケアを堂々としていたけれど。
ピッタリとくっつけた布団の上。
残念なぐらいに年頃の女子である三人とも寝相が悪かった。
冷房をつけてはいるのだが、狭い部屋にすし詰め状態で寝ている。
暑苦しいのも手伝ったんだろう。
けっして異性には見せれない格好をした女子三人が転がっていた。
私は立ち上がり、お腹だけは冷やさないように、彼女たちのめくれたTシャツを元に戻したり、タオルケットをかけてやったりしながら窓の方に近づいた。そして、そこから外を覗く。
まだ、外は明かりが付いたままだ。
事件の処理をしているのだろう。
と、いうことは晶はまだ起きているのかもしれない。そして、与助くんも。
彼とはあの後、少しだけ二人きりになって話をすることができた。
少し疲れた顔で「撃てなかった」と繰り返し言っていた。
理由はわからない。
――撃てなかった。
と言う彼。
女の子のたちの話を聞いたけれど、彼はあの仲居の姿をした敵を撃ったという。しかも足に命中させ、動きを鈍らせてサーシャを助けている。
撃てなかったとはどういうことなんだろう。
あんなにひどい顔をしたのを見たのは初めてだった。
すごく気になってしまうけど。
カーテンを戻し、少しだけため息を付いた。この子達みたいに話をもっと聞けばよかったのかもしれない。
でも、この子達の方が傷つきやすく脆い。
優先順位は間違っていない。
そう、優先順位は。
とにかく寝よう。
私だって、いろいろありすぎて疲れているのだから。こういう疲れを引きずってはいけないことはわかっている。
私はまた寝床に戻る。そして、枕元に置いていたペットボトルの水を飲んで眠ることにした。
目を閉じたとき、いつもより瞼が熱く感じていた。
□□□□□□
なんにしても、よくわからないことが多い事故だった。
なぜ中隊長は襲撃を予見できたのか。
あの母娘はなんなのか?
どうして娘が暴走していたのか?
なぜ助けに入ったのか?
そして、襲撃してきた奴らは誰なのか?
翌日、鈴から事の顛末は聞いて全体像はつかめてきた。
あの母娘のことも。
首に生々しく残る、ゾッとする細い腕。
気持ち悪いぐらい正確に、俺の頚動脈を捉えていた。
サーシャに何かの恨みがあっての行動だろうか。だが、もしそうだとしたら俺を締める必要も無く、さっさと目標をやっておけばよかったのだ。
あの少女の行動はいちいち不思議なのだ。
たぶん一人一人の首を絞め失神させてから目標をやるつもりだったんじゃないだろうか。
そうなると、日露関係の悪化を目的とする奴らと同じだ。
わからない。
全然目的がわからない。
ただのボディーガードがそんな政治目的のために襲撃をする、しかも母親を裏切る行為をする意味がわからなかった。
俺はその日、あれだけ当事者になったんだから知る権利はあると思い、中隊長に直接疑問をぶつけることにした。
中隊長の勘。
びっくりした。
これこそたまげて目が飛び出るという表現を使っていいと思う回答だった。
「勘? バカヤロウそんな非科学的な話を真に受ける奴があるか」
と、予感については一掃された。
「だって、みんな旅先ってこともあって、花火前でウキウキしているし、ちょーっと喝入れておこうって思って少しかまかけただけなんだけど……もう俺の方がびっくりだった、ほんと」
「え、それ俺が冗談で言った時、全否定していたじゃないですか」
「ばかもん! 喝入れるってのに、わざわざ『あーさいでした、そうでありんした、んじゃまあと適当によろしくー』なんて言える訳ないだろう」
「でも、あれだけ迫力があったじゃないですか、みんなその、実戦経験のある中隊長のゲリラ屋の勘ってやつを信じたんですよ」
「だからな、何度も言うが俺は当時ここの学生で、戦闘と言っても逃げたことしかないっていってたじゃないか」
「じゃあ、ああやって敵が来たのはなんだったんですか」
「一番びっくりしたのは俺だって、ビンゴー! って叫んじまったよ」
「……」
「だいたいな、もしその俺の勘がすごく当たるってわかっていれば、もっと警護もつけたし、そもそも花火研修なんて中止にしているよ、わざわざ弱点さらすようなことはしないって」
だめだこの人。
さっきまで、やっぱりすごい人だったんだ……という評価は霧散してしまった。
ただ。
ただ、この人の敵に対する処置は背筋が凍るような扱いだったことを思い出す。
容赦の無い至近距離からのヘッドショット。
確実に命を奪いにいったあの動作。
倒れた敵を容赦なく蹴りつけ安全を確認する動作。
動作すべてが機械的だった。
朝起きて、飯食って、歯を磨いて、通勤する。そんな感じの動きだったのだ。
軍人として完璧だった。
やるべきことをやっていた。
果たして同じように俺はそれができるのだろうか。
答えは明白だ、十分あの時に思い知ってしまった。
遊撃課程といってもしょせん訓練でしかない。
ああいう覚悟はできるものではない。
そう、間違いなく俺には無理だ。
俺は軍人として欠陥品なのかもしれない。
任務のため、仲間のためでも人を殺せない臆病者。
口でなんと言おうが、心でどう思おうが、あの土壇場でできなかったのだから。
俺と中隊長の差はなんだろうか?
埋めれる気がしなかった。
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あの事件の後も色々なことがあった。
私たちの正当性の証明。
軍憲兵と警察の介入の問題。
政治的な話。
多くのいざこざが起きそうになったけれど、九月の頭にはそれ以上にロシア情勢が急展開を見せてきたため、それは収まった。
それどころではなくなったというのが正直なところだ。
あれからサーシャに対する攻撃はない。
学校も淡々と教育をしている。
九月。
例の二中隊副中隊長である野中大尉の不定期異動の準備もバタバタと行われていた。
軍直轄の混成旅団隷下の第三混成大隊に異動。
まもなく戦闘序列が正式に発表され、旅団はロシア遠征旅団と名称を改めて対ソ連支援のための部隊派遣を決定することが公然の秘密になっていた。
そんな状態での見送り式典。
名残惜しそうな二中隊の面々。
別れの挨拶の時、サーシャは野中大尉に近づいていき「ロシアのためにありがとうございます」と言っていた。
彼女自身は帰国の許可を、特に父親に許可をもらおうとしたが『引き続き留学先で教育を受けよ』という返答が戻ってきたと聞いた。
自分の国で戦争が起きるというのに、軍人として任務を果たすことがゲイデン家の存在意義なんだろう。
それなのに帰れない歯がゆさから、少し落ち込んだ時期もあった。
彼女のアイデンティティの否定そのものと言ってもいいだろう。
「私は帰っても足手まといになると兄が言う」
海軍大尉の兄にそう言われたそうだ。
そう言って少し拗ねていた。
その拗ね方がかわいいのだけど。
まあ、そのかわいいという話は置いといて、ゲイデン家の処置はなるほどっと思った。
その兄とは少し面識がある。
前にこの学校に来た時には妹を「ゲイデン家の恥」とか言って馬鹿にしていたが、サーシャが行くとこ、裏には彼が潜んでいたし、サーシャを後ろから見守る目を見てしまった時、相当なシスコンだと直感的に思った。
実際裏では妹大好きお兄ちゃんだと言う噂も聞いている。
そもそも、サーシャを守るために高い報酬であの女性を雇っているのも、その兄らしい。
つまり、ゲイデン家としては、あのかわいい若い娘を戦争に巻き込みたくないというのが本音じゃないんだろうか。
あれだけかわいい娘だ。
あれに親ばか兄ばかが加われば過保護にしたくなるのはわかる。
お別れ式は続く。
野中大尉が第三混成大隊に異動するという意味を知っている職員は熱のこもった拍手で送り、学生の大半は意味もわからず手を叩いていたと思う。
「あの、遊撃課程の時の学生長、どうも野中大尉が中隊長するところの小隊長らしいんだ」
――第二小隊長とか言っていたかな。
隣にいる与助くんがそう私につぶやくように言った。
夏の頃、その学生長だった人の話をしているときは、言葉に微かな焦りがあったが今はない。
「そういうのって何か不思議よね」
私がそう言うと少し首をかしげ。
「そうかな」
と言う。
「だって、そう思ったから言ったんでしょ」
お世話になった知り合いが別の知り合いの部下になる。
よくある話かもしれない。でも、その部隊が遠征旅団になろうかとしている部隊内の話なのだ。
何か因縁があるような気もする。
その日の転任式も終わり部隊の喫煙所に与助君は独りで居た。私が近づくとタバコを消した。
周りに人がいないことを確認して私はまた与助君にあの話をすることにした。
「与助君行きたかった?」
と同じことを聞いた。
彼は即答せず、少し考えるようにしてしゃべりだす。
「行きたくないといえば嘘になる……ただ、熱烈希望というわけじゃない」
私とこうして喫煙所でふたりきりになると彼はタバコを吸うのをやめる。だから、いつのまにか私が缶コーヒーをふたり分持っていくようになっていた。
今日は無糖タイプのミルクだけ入ったものを渡す。
すると彼は「ありがと」と言ってさっそくプルタブを開き、口につけた。そして一口含んだ後に話を始めた。
「俺はあの時撃てなかった」
「でも撃った」
「そう、頭を撃てなかった」
彼はベンチに座り膝の間にその缶を握り締めて空を見上げた。
「あの敵は頭に撃ち込まないと止まらないというのは知っていた」
「知っていた」
「うん、知っていた」
彼は目を伏せ、少しもじもじした。
それから少し多めに息を吐いてから続ける。
「でも、撃てなかった……いや頭では撃ったつもりだったけど、体が足の方を撃っていた」
そして伏せた目を上げ、私を見つめる。
「俺は無意識の中で人を殺さないように動いたんだと思う、理由は簡単だ……人を殺すことが怖いから……要するに俺はビビリってこと、かな」
彼が目を閉じる。
「俺は覚悟がない」
搾り出すような声だった。
「それは違う」
私はできるだけはっきりした声で否定した。
「優しいだけ、それに上手くいった」
彼は少し戸惑った目をしたあと言葉を続ける。
「でも、あの時は運が良かっただけだ……俺が撃たなかったせいでサーシャの命が危険になった」
「でも実際は助かっているし、殺す必要はなかった」
「いいや、あそこで仕留めるべきだった、それができたし、それが最善だった」
彼は少し興奮したようにしゃべる。
まだ、痛々しい心の傷が見えてしまった。だから私は多めに息を吸った後、できるだけゆっくりはっきりを意識して話を始めた。
「私、軽トラで突っ込んだ時、あの敵と与助君とサーシャしか見えてなかった……ただあなたたちを助けるにはこうするしかないって思ってああいうことをやった、ただ、敵の命がどうなるとかそういうことはまったく頭をかすめもしなかった……今考えるとそれはすごく恐ろしいことだと思う」
「鈴は躊躇なくやれたんだ」
「どうしてだと思う?」
「覚悟があって、そして判断力が高かったから」
「……違う」
「違う?」
私は柱に寄りかかるようにして話を続ける。
「敵の命のことは考えてなかった、目の前のことしか見えていなかった」
そう見えていなかった。
考えていなかった。
考えることができなかった。
「そうやって考えないならいくらでも残酷になれるんだよ……ねえ、それってすごく怖いことじゃない? ああ、自分がそういうことをできてしいまう人間なんだって気づいちゃったし」
彼はまた目を伏せて、そしてコーヒーを少し飲んだ。そして私の方を向いた時に話を続けた。
「私は、考えてしまう与助君が好き」
そう。
そうやって悩んでしまう与助君がたまらなく好きなのだ。
「今の与助君じゃだめ?」
彼は返答の変わりに笑い出した。
こっちは真面目に言っているのに笑うとは失礼極まりないと思う。
むすっとして顔を背けた。
「ごめん、違うんだ」
違うんだといいながら笑っている。
人がどんだけ心配して、どれだけ恥ずかしさをがまんして「好き」っていっているのかわかっているのだろうか。
鈍感。
ばか。
あー腹立つ。
顔が、特に耳たぶが熱くなるのを感じる。
「ありがとう」
「なに、ありがとうって」
「さっきまで、軍人辞めようと思ってたけど、もうどうでもよくなった」
「どーしてよ」
「あまりにも臭いことを聞いていたら、なんというか、もう悩みがぶっとんだ」
「なにそれ、馬鹿にしてる?」
「違う、愛されてるってわかっちゃったからかな? 今の自分で背伸びしてもしょうがないし、今の自分の性格でできることをやってけばいいのかなって」
愛されるってわかっちゃったからかな。
臭いこと聞いていたら、なんて言ってるくせに与助君の方が全然臭いこと言ってるじゃない。
私は、どうしようもなく恥ずかしくなり、そしてもどかしく腹が立ったので「むううう」とうなりながら、与助君の髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。
「愛してるよ鈴」
平気な顔でそんなことを言ってきたから、私は目を背けたまましばらく黙って缶コーヒーを飲むことにした。
こういうことを自然に言う彼。
ほんと嫌い。
私の顔は熱くなる一方だ。
どうしようもなくて、むすっとした表情で誤魔化すことにした。
次は第六章。最終章になります。
お付き合いいただければうれしいです。




