第2話 「定番のものだったら」
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ミハルさんが出ていってひとりになったダブルベット。
俺はどうしようもない気分になって朝までふて寝をきめようと思っていた。
しばらくボーっとしていたが、何もすることがないので気が付けば無意識にテレビをつけていた。
大音響でワザとらしいあえぎ声と、男の吐息が鳴り響く。
慌てて声を落とすためにローテーブルに置いてあるリモコンを操作しようとベットから飛び降りた。
するとローテーブルの角でスネを……そんな間抜けな俺は悶絶しながらリモコンを操作してなんとかテレビを消した。
そのあと笑いたくなったので笑った。
涙がでるほど笑った。
もやもやした気分をすぐにでも払いたい。
とりあえず、外の空気を吸いたくなった。
決心変更、部屋を後にすることにした。
日付が変わる前の時間帯。
ラブホ街は今からがんばろうとしてるふたり、がんばった後にそそくさ出てきたふたり……だいたい、そのどちらかの部類に入る人々がぽつぽつと歩いていた。
ひとりでいるのは自分だけ。
なんだかすごく寂しい気分になった。
金沢の春の夜は肌寒い。
ホテルを出た直後、急激に冷めてしまったので思ったよりも堪える。
「へっ、くっしょん……ちくせう」
いろいろ溜まったものもあったので、職場と同じような勢いでくしゃみをしてしまった。
すると何人かのカップルがその声に振り返ってしまったため、気まずくなり赤面して愛想笑いをして誤魔化した。
さらに悪いことは重なる。
遠くで急ブレーキの音、思わずそっちを見ようとした。だが、俺の視線はホテルに入ろうとしていたカップルに釘付けになってしまった。
俺と同じようにその音で振り返った女が知り合いだったからだ。
目が合う。
職場ではおとなしそうで、子供っぽくて、いわゆる天然の女。
いつもと違う表情――普段は考えられないような女の顔――が凍りついた。
どうも俺に気づいてしまったらしい。
俺はいつものように笑顔――軽薄な笑い方とよく言われる――で会釈した。
隣の男はよくわからない。
四十歳ぐらいのおっさんだ。
俺はため息をついてしまった。
いろいろ理由はある。
その女の名前は真田鈴。
二十七歳。
同じ軍人だが、下士官の俺とは違い、彼女は将校様。
陸軍中尉殿だ。
職場では直接の上司ではない。
同じ中隊の小隊長の一人。
民間に例えると、中隊というのが二百人程度の会社。
小隊長は営業部のなかにある三十人ぐらいの課があるとしたら、そこの課長みたいなもの。
ちなみに俺は中隊本部の人事係。
中隊長が人事は握っているがそれを補佐する仕事。
民間でいうと総務部人事課のヒラ。
そういう訳で立場上、書類的な個人情報を含めてそういうものを中隊二百人分握っている。
建前では将校の書類を俺が見てはダメだが、仕事の効率化ということで中隊長に許しもらって……いや仕事を押し付けられているため、拝見している。
だから、知りたくもない個人情報だって知ることになった。
借金。
離婚。
もっとドロドロしたこととか……。
もちろん誰にも話さない。
人事のことを知っているのは中隊長と中隊の先任曹長――家庭で言うと親父と母親――と俺だけ。
なんでまた、俺にそんな重たい仕事与えるもんかな……と今更思う。
もっと現場でアホ達と汗流して、大声だして、クソみたいに訓練する方が一万倍は性に合ってるはずなんだが……。
何のために苦労して遊撃課程を出たかもわからん。
クソがっ。
あいつら、嫌味で俺にこんな仕事をやらしてるんじゃないだろうか。
坊主頭のおっさんと熊殺しのような鬼の形相のじじい――中隊長と先任上級曹長――の顔を思い出しながら、悪態をつく。
ホテル街を抜け犀川に架かる橋を渡った。
川沿いに流れる寒風に打たれるのを利用して、頭の中から真田中尉のことを忘れようとした。
でも、それを振り払うことはできなかった。
余計なこと……そう、彼女がうちに飛ばされた理由を思い出していたから。
上司部下関係なく、職場の男と関係を多く持ちすぎたたことが問題になったため、転属させられたという裏の理由。
いっしょにホテルに入った男がうちの部隊の人間じゃないか……と頭の中で照合していた。
そんな嫌になことを平気でしてしまった。
『彼女が中隊にいるのは条件付だ、職場でのそういう事例があった場合は士気に係わる……噂でもあれば報告するように』
中隊長の言葉が思い出される。
爆弾。
そんな人物は早く手を打ちたいんだろうか……つまり少しでもきっかけがあれば人事的な処置をしたい。
どっかに行ってもらうということだ。
クソッタレ、本当にクソッタレだ。
ミハルさんには捨てられるは、職場の仲間の素性を探る……いや、疑うことになるなんて。
なんて日だ。
寒みーし、胸くそ悪いし……なんとも最低な夜だった。
■■■■■■
半分は部隊、半分は高校。
何かあれば実働部隊として動く独立歩兵第九大隊。そして学校でもある第一〇九少年学校。
綾部軍曹のように現役と言われる兵隊のほか学生と呼ばれる高校生達が混在している。
いわゆる出世とは無縁な者達の巣窟。
特に将校は何かしら私のように経歴に傷を持っているか、扱い難い人間の部類と見られている。
そんな所で私は第一中隊で騎兵――装輪戦車――小隊長をしている。
基本的に午前中は現役達の訓練、午後は学生たちの訓練とか勉強なんかを教え、夜は躾的な指導を寮で行う。
子供の相手、苦手でしかない。
どうしようか悩んだ挙句、なるべく普段通り、自然体で子供たちに向き合うようにしている。
本当に今の自分のそれが自然体かどうかはわからない。
学生の前に出ている私は親友で同僚の日之出晶が一言で表すとすれば「天然」だそうだ。
お陰で四月に入ってきた新入生達からも「スズちゃん」と呼ばれるぐらいなめられているが、そういうのも悪くない。
平日、あまり力むことなく生活できることは、この精神状態を維持するのにちょうどいい。
なにせ、それとは真逆の週末があるからだ。
――よくもまあ、こんな変態が十歳も年下の子供たちを指導しているものだ。
そう思う時がある。
平日でも、学生の男の子達の視線を感じてムラムラすることもある。
普段は制服だけど、体育の時間とか水泳とかそういう時は少なからず感じてしまう。
もっとも学生だけには死んでも手を出そうとは思わないが……。
ただ、少しだけ、そういう時に表れる男の子達の欲情を見ては、心の奥のほうで悦んだりしていた。
罪悪感。
胃がキリキリする。
いつまでも吐くことができないような吐き気に襲われる。
でも、もっと深く、もっと快感を味合わせてくれる別の感情が勝ってしまうのだ。
あの人が教えてくれた、私の本性。
私が最も軽蔑しているその本性。
今の部隊が私には合っていると思う。
微妙な精神の均衡を保つのにちょうどいい環境なのだ。
気軽に話せる同期もいる。
やっと見つけた居場所なのかもしれない。
だから絶対にこの生活を壊したくない。
絶対に。
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あの夜から一週間が経った。
もちろんあの男はうちの職場の人間ではなかった。
真田中尉を抱いたはずの男は。
お陰で中隊長や先任に報告する必要はなく、俺の中でさーっと消化してそこらへんの便器に流すことができた。
そう、別に騒ぐことではない。
職場の女がどこの誰と寝ようが関係ない。
俺がミハルさんと不倫をしようが中隊には関係がないように。
何も変化はない。
彼女と俺も職場で会う。
すれ違いざまに敬礼をするぐらい。
いつものように「うーっす」と言いながら俺は敬礼をする。向こうもいつもどおり「おつかれさま」と答礼をする。
まったく気にもならない。
職場での彼女はとても二十七歳には見えない容姿だった。
背も低く、化粧も薄いからかとても幼く見える。
もっと化粧っ気をなくせば学生達と同化してしまうと言っても過言ではない。
美人というほどではないが男が圧倒的に多い職場ではそのかわいらしさで、モテモテだ。
うちのゴツイ野郎どもの目じりが下がるのがよくわかる。
そんな顔をしていないのは先任上級曹長の中川曹長ぐらいだ。
あのクラスになると人の心を捨ててしまって、鬼の心だけ残しているはずだからしょうがない。
学生に関して言えば男子だけでなく女子にも人気がある。
かわいい癒し系教官というような扱い。
すでに一学年のガキ共にもなめられていると聞いている。
そんな天然キャラの小隊長。
それにしても俺は職場の女というのがどうも苦手だ。
しょうがない、馬鹿か阿呆しかいない野郎どもの中で十年近く生活していたんだから……二年前にこの職場に転属してから男だけの世界から、女もいる世界に来てしまった。
未だに彼女達との『正しい』接し方がわからない。そんな事をぶつぶつ文句いいながら、事務所でひとり人事書類を片付けていた。
なんと日付はとっくに変わってる時間だ。
春は学生達が入ってくるものだから、それの整理にいくら時間があっても足りない。
ここの中隊には二百人ほどが所属しているが、ものがものだけに書類は俺ひとりでこなさないといけない。
お手伝いの作業員下さいとはいえない。
兵隊は二三〇〇には寝る義務があるってのに……。
「くっそー! なんで人事なんてやってんだ、俺……メンドクセー! ちくせう! 俺に鉄砲もたせろ! 走らせろっ! ああ、道場で殴りてええ! 投げてええ! 事務所でタバコ吸わせろ、分煙の馬鹿野郎」
ひとりで叫んだ。
どうせ誰もいない夜の事務所。
――綾部軍曹、まじぱーねえっすね、大変っすね、でもいいじゃないっすか、体使わなくていいなんて、きつくないっしょ。
アホのひとりがヘラヘラしながらそう言ってきたことを思い出す。
くそっ。
あいつら本当に好き勝手言いやがって……。
だんだん腹が立ってきた。
今から営舎に行って、アホ面でイビキかいて寝てる、体だけ使っとけばいいボケどもをひとりひとりパワーボムしてやろうか。
うん、やろう。決定!
……とは思ったが一応俺も三十手前の中堅下士官だ。
まあ、大人だ。
うん大人になれよ、と自分に言い聞かせる。でも、前言撤回。
やっぱり腹の虫が収まらん。
あの野郎に腹パンぐらいは入れておこう。きっと神様も仏様も哀れな俺を許してくれるだろう。
よし、もう少しがんばって、下宿に帰るついでにぶん殴ろう。
うさ晴らしの方法も決めたし、ちょっと休憩とポケットの煙草を取り出した。
だが、神も仏もいないのか中身は空。
買いに行くのも面倒なのでうめき声をだしながら机に突っ伏した。
入り口のドアが開いたのはその時だった。
「お疲れ様……綾部軍曹」
缶コーヒーを持った真田中尉が現れた。
「あ、ども」
俺は制服のズボンにタンクトップという格好だ。
PCやコピー機がウンウンうなっているから部屋の中は暑い。
「遅くまで大変ね」
「そーですね」
彼女は机の近くまで来る。そして「これ、差し入れ」と言って缶コーヒーを俺に渡した。
受け取りつつそれをとりあえず机に置く。
きっと不審な表情をしてしまったのだろう。しょうがない、あの夜のことを考えるとどうしても身構えてしまう。
「……この前の夜はほんとうに寒かったと思いませんかー? そんな夜にどうしたんですか? あんなところをひとりで歩いて」
彼女は笑顔のまま、いつもの明るい声でそう言った。
さすがに「不倫していた人妻に捨てられた後」なんて言えない。
「たまたま、通りがかっただけですが」
PCのウインドウから目を離さずに答えた。
しばらく沈黙が続く。
「……私の」
彼女はあの笑顔を貼り付けたまま話だした。
「前の部隊での出来事は知ってますよねー」
俺は沈黙で応じた。
「あの男の人とお付き合いしてるって言っても信じてもらえないかな?」
彼氏のことをあの男と呼ぶ人間がどこにいる。
――つけられているってわからなかった、さすがは遊撃持ちだなー。
と彼女はつぶやいた後、ふふんと笑う。
「どこまで知っているのかなあ?」
「何の話かさっぱり」
俺がそう言うと、今度は彼女が沈黙と笑顔で答えた。
一体何が言いたいんだろう、この人は。
彼女は顔に似合わないため息をつく。
沈黙。
時間が過ぎる。
「どうせ調べは付けられているんですよねー」
彼女は俺を見据える。
「なんか、変な男から問いただされたって後からクレームが来て」
――その彼、怖くてついついお金で買いましたーって言っちゃったらしいんだけど。
お金? 買う? 男を問いただす?
その意味がわかったとき、俺はさすがに目をそらした。だが、問いただした男ってだれなんだ。
「中隊長からですか? 調べろって言ったのは、人事係の綾部さん」
笑顔。
ただ、さっきまであった子供っぽい声質が抜けた。
それに対して俺はいつもの顔――副官の日之出中尉から「軽薄」と言われるヘラヘラ顔――に戻した。
「だから、たまたま」
「でもおかしいんですよ、一週間たっても中隊長には呼ばれないし」
彼女は座っている俺に覆いかぶさるように顔だけ近づけた。
「何で黙っているんですか? あのこと」
笑顔が崩れない。
そりゃ、あのことは彼女の過去のこともあるし、中隊長に報告すべきかどうか迷った。
――大丈夫です、職場内では手をだしてません、外の男でしたよ。
なんて言ってどうなることでもない。
言ってもしょうがないと思った。
……しかし、お金をもらっているって。
「あーあ、手の込んだ脅し方しますよね、軍曹」
彼女はくるりと後ろを向いた。
「……は?」
「ちょっと調べたんですが、前の職場で綾部軍曹は暴力事件を起こしてここに来たんですよね」
俺の頭がグラリとする。
ちょうど三年前、窃盗した部下をぶん殴った。
加減して怪我をさせてはいないが、その調査が入った時に、窃盗した本人から『殴られた』と訴えられた。そして俺も停職の処分を受けた。
そして事実無根の噂だが、俺は裁判で負けて損害賠償五百万とか一千万とかを支払うことになってしまっているらしい。
実は綾部軍曹は借金まみれとか……そういう陰口が叩かれているのは知っている。もちろん、裁判沙汰にもなっていなけりゃ借金もしていない。
とりあえず、言っていた奴はぶん投げといたけど。
それを真に受けているのだろうか?
「お金はないですよー」
「なっ」
こいつ、俺をなんだと思っているんだ。
本当に俺があんたを脅していたとか思っているんだろうか。
「でも、中隊長に言いつけるのはやめて欲しいーってのもあるけど」
彼女はまたくるりと回り、顔を近づける。
昼間とは正反対である中尉の表情。
その唇が官能的な動きする。
「定番のものだったら」
中尉はそう言うと俺の太ももに手を当てる。そして前かがみになった。
そんなに大きくない胸だけど、その格好になったことで強調されるものだから、つい目がいってしまう。
俺は少し、いやとても混乱した。
なんだこの光景は……と。
そういえばこの間、営舎にあったエロ本に同じ似たようなシチュエーションがあったことを思いだす。
二ページ目で「身体で払うんだよ」と悪人面でデブのおっさんが人妻を脱がしていた。
俺はそれを読みながら「いくらなんでも早ーよ」と突っ込みながらゲラゲラ笑ったのだ。
が、目の前で本当にそういうことが起きると、しかもその当事者になったものだから混乱する。
一瞬固まった。
非日常すぎる光景に。
だが固まったのは一瞬。
すぐに別の感情が俺の頭の中でパンクしそうになった。
「こういう事、嫌いじゃないでしょ?」
笑顔。
「ここじゃ、最後までできないかなー」
彼女は太ももに跨る様にして座る。そして胸を俺の頭に押し付けてきた。
生唾を飲み込み、そして見上げるようにして彼女の顔を見る。
やっぱりあの笑顔のままだ。
俺はヘラヘラしていた顔が引きつるのを自分で感じた。
どうしようもない。
怒りの感情が顔の筋肉をひっぱるから。
「馬鹿野郎!」
大声が出た。
バカ、アホ、マヌケの兵隊を声だけで動かす、そんな軍隊生活で鍛えられた怒声。
彼女は電気が走ったようにビクッと立ち上がり、それから俺の膝から離れた。
「つけてもない! あんたがどこの誰と寝ようが知らん! 金のことは知らん! 中隊長には言ってないし、言う気もない!」
彼女はさっきまでの笑顔、強気の笑顔が剥がれ落ちていた。
笑顔が震えている。
「いいか! よく聞け! 俺は仲間を売ることはしない! 以上、それだけだ」
俺は缶コーヒーをつき返した。
彼女を追っ払っうように。
まるでつき返した缶コーヒーに魔法が働いているかのように、彼女はそのまま扉の向こうに無言で出て行った。
むしゃくしゃが収まらず、しばらくして怒りがぶりかえす。
いったいなんなんだ、あの女。
「くそがっ!」
机を蹴って、バタ、バサリと派手な音を立てながら書類が飛んだ。
そして二十分後。
どことなく悲しくなり、誰もいない夜中の事務所で俺はそれを拾っていた。