第18話 「それぞれの強がり」
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「まあ、そんなに気を落とすなって」
俺はしょんぼりしている男子の頭をポンポンと叩いた。
その男子ギュッと握っている黒い水泳帽、血色の悪い顔に、紫色の唇。
この曇り空の下で、緑色の毛布に包ってガタガタ震える姿がとても小さく見える。
「肉が足らねえって、お前さあ、筋肉はめっちゃいい感じだけど、体脂肪率一桁っぽい体してんもんな、だから寒みーのに弱いんだよ」
横から小谷伍長がからかう。
「まあ、少しは脂肪がないとなあ、そういう体じゃ山は弱ーよ、スタミナっていうか馬力っていうか、飯食わないとき真っ先にぶっ倒れる」
俺はその男子の頭をくしゃくしゃ撫でなでた。
こいつは低体温症だった。そして筋肉が硬直して泳げなくなったためにボートに引き揚げていた。
まあ、それでも足がつった状態で数百メートルは泳いだっていうんだから、なかなか根性があるってもんだ。
でも、根性でどうにかなることではない。
もしこいつがギリギリまで我慢してて溺れたら、その時のリスクがでかい。
溺れてパニック起こした奴を揚げようとしたら、助けるほうも巻き込まれる。なにせ俺たちは海軍と違って泳ぎはスペシャリストではない。
海岸縁に立てられたターフの下、倍率の高い望遠鏡を構えて監視していた副官から「様子がおかしい」という通報がなかったら、こいつが溺れかけているのを見落としていただろう。
なにせ、我慢していたから。
それに、上級者組でもある。しかもその中でも泳ぎが相当上手い学生ということで、教官の変わりに側衛として泳いでいたのだ。
だからほとんどこいつのマークをしていなかった。
安心しきっていた。
まあ、簡単に言えば俺らのミス。
あの女王様に後からなんと言われるか……それだけが面倒と言うか、恐怖というか。
震えるこいつが可哀そうだということもあって、今日の俺はすっごく優しい。
こいつにとって途中でリタイアしてしまったということは、プライドをずたずたに傷つけることになってしまったと思う。
上級者中の上級者、そして側衛を任された責任感。
果たすことなくボートに揚がっている。
いつもだったら「根性なしがぁ!」と引っ叩くところだが、今日はこんなに優しいお兄さん。
よくよく見るとどっかで見たことのある顔。
そう、あの格闘の授業。
クロの野郎をぶっとばしたあいつだ。
「お前、どっかで見たことがあると思ったら、あの格闘の授業で現役ぶっとばしてた上田だよな」
正確には、古流の武術っぽいもので、スっとひっくり返したと言った方がいい。
そんな投げ方をしていた。
投げられた現役、黒石上等兵は中隊でもトップクラスの腕だ。そして、そんなのが学生にひょいっと投げられ、形だけだったとはいえとどめの顔面踏み込みまでされた。
情けないことだが、クロの野郎は大人げなくブチ切れて反撃しやがった。
またひょいっとこいつにかわされた。
その後、クロの野郎は諦めず、卑怯にも不意打ちのタックルをしやがった。それで俺がしゃしゃり出て上田を助けた。
あの時は、副官に書類の不備でめっちゃ怒られたあとですっげーむしゃくしゃししてた時だった。
せっかく憂さ晴らしに道場に来たというのに、現役が学生をいじめるような訓練を見ちまったからついつい手を出してしまった。
そういう訳でクロの野郎にはドロップキックをお見舞い。
お陰さまで、ちょうどいい憂さ晴らしにはなったからいいんだけど。
そんな事があったからか、こいつのことはよく覚えている。
最初っから上手くやりながら、クロの野郎相手に手加減しているのがよーくわかったから。
まあ、そういう生意気な感じがかわいい奴ではある。
「ま、人生経験、いい勉強になっただとろう」
上田はコクンと震えながら頷いた。
「もう陸に上がってる黄色帽の女子とか、副官とか見てみろって、男にはねえ脂肪あるから全然寒そうにないだろう? ああ、特に副官の胸な、ありゃ寒くない」
ついつい下ネタを言ってしまう。
元気がない男子を笑わせる効果が一番あるからだ。
エロと下ネタに年齢は関係ない。
世代の壁をぶっとばす話題。
上田はじっとそっちの方を見て、それからニヤニヤする俺と目を合わせた後、目を伏せた。
いかん、逆効果。
恥ずかしがってやがる。
これだから、お堅いピュアな男子というのは扱いにくい。
ちょうど四キロの中級者組が海岸についたところだが、よく出来ましたと、二キロ組みの女子も混ざってキャッキャ喜び騒いでいた。
あのロシア娘もちゃんと泳げたようだ。
そんなに騒いでないものの、その輪の中には入っている。
そして、副官。
難しい表情のまま相変わらず望遠鏡を握って、六キロ組の様子を見ている。
さっき上田に言った通り、上半身は薄手のパーカーみたいなものを羽織っているが、胸を見る限り脂肪は多そうだ。
「ま、がまんするってのも必要だが、これ以上は駄目だって線が人それぞれあるんだ、上田の場合はそれがさっきだったってことだよ……まあ、寒さの耐性はこれで目安がついたと思うから、いい経験じゃねーか」
そう言いながら俺はついつい陸の上の鈴を見ていた。
二キロ泳いだ後は、ロシア娘の頭を撫でてやったり、何か話しかけていたが、今度の中級者組に対してもひとりひとり話しかけていた。
きっとお疲れ様とか調子はどうとか健康状態のチェックをしているんだろう。
いまいち頼りなさ気な感じもするが、一応小隊長だし教官ということもあり、学生の前ではちゃんとお姉さん的な存在のようだ。
まったく普段の彼女を知っている俺からすると、あんなので大丈夫かなって心配になってしまうけど。
そうやって、ボートの上で上田を慰めつつ、残りの六㎞を泳ぐ上級者組の監視を続けていた。
そうしているうちに、六キロ組は低体温でリタイアする学生が三人出た。
ぜんぶ男子。
若いうちからガンガン走りこんだりしているから、体脂肪が少ない子がけっこういる。
平均寿命も長いし、耐久力とかそういうのは女の方が強いんだなあと妙に納得していた。
そろそろ、ゴールに着こうとした時に曇り空の間から太陽が顔を出してきた。まだもやに遮られているので、刺さるような夏の日差しではなく、柔らかい暖かさだ。
これで少しは上田たちの体も暖まるだろう。
終わった終わったと、ボートを海岸につける。
やっぱり副官が寄ってきた。
警戒警戒怖い怖い。
目を合さないよう努力してみたものの、あまりの迫力につい目が行ってしまう。
あ、やっばい。あの顔相当怒ってる。
ずんずんと近寄る。
「ボートから間近に見ていて、学生の異変に気づかないことについては、後でしっかり説明しなさい」
ドン、ドン、バッという効果音が聞こえてくるような足運びで仁王立ちした副官がとても怖かったため「了解!」と愛想笑いを浮かべて返事をしてしまった。
「笑ってごまかすな」
「すんません」
きゃー怖い。
「次っ」
俺の方は後回しらしい。
ずかずかと上田の方へ向かう。
「自分が犯したリスクをわかっている?」
上田は目をパチパチとしている。
「溺れてパニックを起こした時点で、あのボートの上の二、三人が命の危険を冒してあなたを助けなければならなかったかもしれない、この意味はわかる?」
確かにそういう教育は事前にしていた。
溺れたらどれだけ人はパニックになるか。そして、暴れる人間を助けるためにどれだけリスクがあるか。
こいつは頭がいい部類だろう。
すぐにその表情が曇り、目を伏せた。
「わかったならいい、無理をしすぎないということはこれからの人生でも当てはまることはいっぱいある……これから先はこの経験を活用しなさい」
はー、まとめるね副官さん。
高校一年生にはちょっと難しい話だと思うけど、よく言うわ。
「以上」
と言って踵を返し、ずかずかと元の位置に戻った。
上田は少しボーっとしてその後ろ姿を見つめていた。
俺はその少年の姿を見て、急におかしくなってきた。
「大きかっただろう」
「はい」
「よし合格」
「……いや、違いますそういう意味じゃなくて」
赤くなる少年。
高校一年生ってこんなにピュアだったっけ?
「なあ上田、あの人はやめておけ、あの人だけはやめておけ……いろいろ大変だぞ」
笑いながら上田の首根っこに腕を絡ませ、軽くヘッドロックをかける。
「そ、そんなんじゃないです」
「いーや、兄ちゃんにはわかった、あれは年上に惚れる男の目だ」
「やめてくだ……いててててて」
「上田、お前マゾだな……だいたいああいう女王様に惚れるってのは、マゾの証拠だ、ところでお前の下の名前は」
「……次郎です」
「そうか、じゃあ今日からミドルネームをつけてやる。上田M次郎だな」
「そんな、頭悪そうなミドルネー……いてててってて」
「マゾじゃないだけ喜べ」
そう言って俺は上田の頭をギリギリ締めて遊んだ。そのうち見上げると黄色い水泳帽を被り、肩にはタオルを羽織ったロシア娘が目の前に立っているのに気付いたため、それを緩めた。
「次郎」
はっきりと透き通る声で名前を呼んだ。
「う……サーシャ」
少し、嫌そうな顔をする上田。それに対して腕を組んで上田を見下ろすロシア娘。
「何キロでリタイア?」
「四キロちょっとまで……だけど」
心配している顔ではない。どこか挑むような顔。
そして、舌打ち。
「負けた」
負けた?
黒帽子――上級者――の上田を前に、黄色帽子――低級者――のロシア娘が何を負けたと言うのだ。
そもそも勝負にならないだろう。
「リタイアってことは記録無効じゃない?」
ひょいっと後ろから顔を出したのは黒帽子を被った中村という女子だ。
一番最初にプールで泳ぎの練度判定の時にすごくきれいな泳ぎ方をするので、名前はその時に覚えた。
なにせ、すっとした体系で邪魔するものがないから泳ぐ速度も速い。
「私の勝ち?」
「うん」
「やった」
女子ふたりで話がまとまったらしい、いつの間にか抱き合って喜んでいる。それを見てゲンナリした顔の上田。
「なあ」
「なんですか?」
「勝負してたのか?」
「してません、あっちが勝手に」
「そうか」
「そうです」
「なあ」
「はい」
「お前モテモテだな」
「はあ?」
はあ? じゃねーよ。
はあじゃ。
青春してる若いのを見るとイライラしたのでそのままヘッドロックの続きをお見舞いした。
「おいおい、俺が優しくしなくても、お前の周りにはよりどりみどりじゃねえかよ」
「意味がわかり……いてててててて」
なんだか、久しぶりにいじりがいがある若いのを見つけたので、俺はそのままヘッドロックを続けた。
いいなあ。
青春。
こういうやつらと絡むのも悪くない。
●●●●●●
露天風呂。
一通り周りを見たけれど、狙撃スポットはない。
一応。
万に一つだけ考えているだけ。
大隊長に呼ばれたあんなことを言われたものだから警戒はする。しかも、身一つ、裸なんだから一番弱点を晒す場所でもある。
専属で綾部軍曹を付けてはいるものの、相手は女の子。
四六時中べったり彼がついてることは困難だから、こうして私がくっつくことにしている。
もちろん何気なく。
あんまりべったりすると、サーシャはヘソを曲げる。
守られたくないお年頃。
「ねえ、もう少しリラックスしなよー」
隣で肩まで使った状態で手と足を伸ばしている鈴がそう言ってきた。
「してるけど」
「なーんか、眉間に力が入っているというか」
「そりゃね、あなたの彼氏がやらかしてくれそうになったから」
「あー、与助君なんか当てにしちゃだめだよー、彼、土壇場にならないとちゃんとやらない人だから」
なんだか彼女が他人事みたいに言ったことが妙にひっかかった。
イラッとしたため衝動的に右手でお湯をすくって顔にかけると、キャっすっごく女の子っぽい声を出して目をつぶった。
あのね、鈴もういい年なんだよ、私たち。
お湯かけられてキャはないでしょキャは。
そういうことをやっているうちに、学生たちが入ってきた。
「あ、副官に真田中尉、お疲れ様です」
中村風子おとサーシャ、それと数人が入ってきた。
「お疲れ様」
急にお姉さんな言い方に変わる鈴。こういうの、上手に使い分けてるんだよなー、この子。
「温泉に入れる訓練とか、他にもっと増えないんですかー?」
そう風子が言ってくる。
「ありません、これだってたまたま泊まった宿が温泉付だっただけだし、ここのご主人が石川県の在郷軍人会の会長されている方だからできることなんだよ」
鈴がニコニコしながら答える。
「こんな素敵な温泉宿、あのガキ達がいなければもっといいのに……」
そう言って、柵の向こう側でギャアーとかウラーとか叫び声が聞こえてくる男湯の方を見た。
確かに、あの男子とういう生き物はどうしてあんなに騒がしい生き物なんだろう。
せっかくの露天風呂の雰囲気も台無しだ。
「デートとかこういうところに行くんですか?」
目をキラキラして聞いていくるおかっぱの女の子がそう聞いてきた。小動物のような感じの女子、三島緑だ。
「うーん、どうだろう」
彼氏がいませんなんて言うのもアレなので、はぐらかす。
ねえ、どうして女子高生相手に見栄を張ってるんだわたし……。
微妙に笑顔が引きつる感じがわかる。
「副官みたいな綺麗なお姉さんだったら、イケメンなおじさまが彼氏なんだろうなあ」
妄想膨らんでるよこの子。
「日之出中尉はねー、こう見えて年下好きなのよ」
「えー、本当ですか?」
「鈴、いえ……真田中尉、変なこと言わない」
「彼氏さんは年下、えっまさか十代とか」
「それはない」
「や、やっぱり初めての人は年下だったとか……」
「はいはい、そういう話はしません」
私は手を叩いて終わらせる。
いつもだったら強気に出て強制終了なんだけど、こういう話は苦手なため、ついついペースが掴めず流されてしまう。
どうして、こうも若い子はこの手の話が好きなのだろうか?
私ひとりだとそういう話をされることはないが、鈴がいるせいだろうか。
一応この学校の表向きは学生内の恋愛は禁止と言っているから、教官陣にこういう話をすること自体ご法度だと思う。
でも、鈴は話しやすい雰囲気を醸し出しているから話題を振りやすいんだろう。そして、不覚にも会話を明確に拒否をせず乗ってしまっている。
それにまさか「まだ、未経験」なんて言えないし。
「真田中尉はどーなんですか?」
「彼氏もいないし、あまり男性経験がないからあまりよくわからないのよ」
よく言うよ、ほんと。
「でも、真田中尉は林少尉とできているという噂が」
そう言ってきたのは風子。
「ないない、林少尉は無口だし仕事以外で接点ないのよねー」
「めちゃイケメンなのに」
目をキラキラ持続中の緑が文字通りお湯から上半身を出すように身を乗り出してその話題に食いつく。
「林少尉は彼氏いないんですか?」
ちょっとまて。
「三島、そういう妄想はしない」
「だって、噂で」
「あなたたちの噂でしょう」
そういう話が好きな子にとっては、あの彼女がいなくて寡黙なイケメン林君なんかはそういう話のネタになるのは仕方がない。
「はいはい、そういう話はおしまい」
と言って私は二回目の手を打つ。そして、さっきから黙ったままのサーシャに目を向けた。
「今日はがんばったな」
「ありがとうございます」
流暢な日本語。
「苦手な事を克服できたのは、日ごろの努力が実ったからだ」
「でも、まだあいつには……あ、えと、まだ二キロしか泳げていません」
「二キロ泳げれば、六キロを泳げる実力はある」
私は彼女の金色の美しい髪に手を乗せる。
かわいいなあ。
すっぴんでぜんぜんいける若い子達がうらやましい。
「それは、泳ぎ方を教えてくれたのと、真田中尉が横についてくれていたから」
鈴がバシャンと音を立ててサーシャに飛び掛るようにして、後ろから抱きしめた。
「もー、サーシャちゃんはかわいいなあ、お姉さんの言うことを素直に聞いていたから、ほんとエライ!」
「や、やめて! ど、どこ触って」
「んー、授業料だったら安いでしょ」
「や、やめ」
バチャバチャ抵抗するサーシャ。
もう、壁の向こうの男子たちのことを言えない。
「真田中尉、私なんかより、副官の、ほうが、もみ、応え……」
「ふふふー、いつも触ってるから、若いぴちぴちした方がいいのよ」
「だいたい、どうやったらそんなに成長するんですか?」
すごく控えめな感じの胸を自分で押さえながら風子が聞いてくる。
「たぶん遺伝子の問題」
「うう……」
あ、やっちゃった。
ショックだったかな……。
「おっぱい大きくても、ほら邪魔だし」
「日之出中尉、それいじめ」
鈴が嫌がるサーシャを抱きしめながら抗議する。
「違う、これがあるから女の魅力があがるわけじゃない、中身勝負、中身」
ブーメラン。
中身、中身かあ。
どーせ、彼氏イナイ暦年齢ですよ。
ちくせう。
気分がどんより。
その後、鈴が緑、風子にとびついては「キャー」とか「ワー」とか叫ばせていたが、いいかげんしつこいと思ったので「やめなさい」と一喝して鈴の頭に手刀を振り下ろしてやめさせた。
涙目になりながら、鈴が抗議の目を向けてくるが無視。
話題を変える。
「そういえば、サーシャと風子はあのボートで凍えていた上田にケンカを売っていたと聞いたが、何を言い争っていた?」
それに対して、風子が答える。
「むかつくんです」
むかつく。
なるほど、わかる。
ちょうど、あいつや一貫もそれだから。
「何か、癇に触るんです、あいつは別に相手してないような素振りをするんですが、それがまたムカムカしてきて、ねえ? サーシャ」
「うん」
頷くサーシャ。
「あ、でも学校祭の時は暴漢からかばったんでしょ」
鈴が話しに入ってくる。
「そうです、でも、なんか後夜祭に来ていた外の女子高生とチューしたんです」
話が見えない。
「あ、見た! ねえ、あれなんだったの」
鈴が興味津々で食いつく。
「わっかんないんです、せっかく……ここだけの話ですが、私に気がある素振りみせて、ちょっとだけいいなーって思っていたんです……そしたらあの馬鹿、目の前でなんか女の子がチューしてるんです」
よくわからん。
でも、なんというか高校生の女子って感じだなあ、おい。
でも、後夜祭で風子といい感じになっていたのに、ほかの女の子とチューをした。
わからん。
「あの時、すぐにサーシャが飛んできてとび蹴りしたからいいものの」
こくんと頷くサーシャ。
まって。
後夜祭でチューを上田が他校の女の子にチューをされたのをサーシャがとび蹴り。
ねえ、それただの四角関係。
そんなに騒ぐことじゃ。
「ジロウは、実力を隠している」
サーシャがそう話を切り出した。
「それがムカついた、勝負しようとして投げたら、はい降参って実力出さずにふらりふらりとよける、日本の例えで、カーテン、カーテン……」
鈴がニヤニヤしながらサーシャを向く。
「暖簾に手押し」
「そう、その癖、逃げる時は私のブラのホックを外すとか、私の不意を付くとか……思い出しただけでも蹴りたくなってくる」
何? ブラのホックとか。
え、押し倒して。
あ、今の高校生ってそんな進んだことするの。
え、それってええええ。
「ほら、学生の時女の子同士やってだでしょ、そういういたずら」
鈴がニヤニヤ顔のまま私にこっそっと技とらしく耳打ちする。
「わ、わかっている、そんなこと」
……だよねー。
「青春だねー」
鈴が呟くように言う。
「何がですか?」
「どこがですか?」
「ですよねー」
風子、サーシャ、緑の順でそういう言葉が出てくる。
「若いっていいなあ、もうおばちゃんにはそういう世界はないなあ」
「真田中尉だって、十分若いじゃないですか。だってまだ二十前半ですよね」
その瞬間、鈴がニヤニヤしたまま固まった。
そして口がゆっくりと開く。
「二十八ですけど何か」
ついこの間誕生日を迎えた鈴。
「全然見えません」
「日本人ってすごく若く見える、真田中尉は更に若く」
「女の色気は三十からです」
風子、サーシャ、緑の順。
肩を落とす鈴。
いいじゃない。
あなたにはあいつがいるんだから……という念を入れて鈴を見た。
「ちなみに副官の彼氏さんはどんな人なんですか? 軍人ですか? 民間の人ですか?」
緑がまた目をキラキラさせて聞いてきた。だから、どれも違うんだって。
彼氏いないもん。
なーんて言えず。
「はい、おしまい。あんまり長湯するとのぼせるし、その後湯冷めするからな、はいはい」
本日三回目、おしまいの手拍子。
キャッキャはしゃいでいる女の子達。
うらやましいと思う。
どうしてか、あの頃はああいう雰囲気が苦手で、避けてきたから。それに、ああやって男子に勝負を挑むとか、そもそも声をかけることなんかできなかったから。
だめだ、思考がおばちゃんだ。
私は湯船から上がり、そしてもう一度鏡を見る。
化粧も一切せず、分厚い眼鏡をかけていた高校時代。
あのころの自分は写っていない。
高校を卒業する前に眼鏡を外して鏡を見ながら『こっちの方がぜったいかわいい』と思い込んでイメチェンをした。
そういうことを思い出して恥ずかしさが湧き上がる。
ため息をつく。
「お堅い感じがやっぱり駄目なのかな」
鏡で笑顔を作ってみる。
無理。
無理よ無理。
そう言って頭を抱えてしまった。
そして、自己嫌悪。
なんで、こんなことになってるんだろうか。
私は立ち上がる。
いかんいかん。
早く食事を取って、明日の段取りを組まないと。
もう少しゆっくりと温泉につかっていたかったが、諦めて脱衣所に向かった。
夏なのに、妙に足元の濡れたタイルが冷たく感じた。
■■■■■■
学生と教官陣は別口で食事を取っている。
もう、学生指導をしない人間は夕食といっしょに晩酌を始めている人もいるが、小隊長である私や中隊長は飲んでいない。
まだ、夜の指導があるからだ。
夜の指導と言っても、この後の花火鑑賞のマナー指導とか、点呼で確認することや、ちゃんと消灯時間を守っているかとか、年頃の少年少女が闇夜で悪さをしていないか見張りをすることぐらいなのだけど。
テレビはお難く国営放送なんてつけているところが、いかにも軍隊らしいと思いながそのニュースを見ていた。
『ロシア情勢です』
そう液晶画面の中のニュースキャスターが言うと、ロシア帝国軍が国境付近に兵力展開している映像が流れる。
『なお、ソ連についても急速な戦闘展開を行い、少なくとも冬を越した春先には……』
なんて言っている。
「始まるんですかね」
私が中隊長にそう聞いてみる。
「わからん……わからんが、上はそのつもりかもしれない」
中隊長はうんざりした顔でそう言った。
「二中の副中隊長……野中大尉が混成旅団に逆指名されたとか聞きました」
そう言ったのは晶。
野中大尉というのはお隣二中隊の副中隊長をしている人で、大隊随一ダメなアラフォーとして有名な人だ。そして、混成旅団というのが帝国陸軍唯一の外征軍的な編成、装備になった部隊であり、同盟国の有事に際して派遣される部隊になると言われている。
野中大尉と混成旅団。
まったく接点がなさそうなふたつ。
「野中さんは、その話受けるらしい」
「本当だったんですね、その話……」
「ああ、あの人は士官候補生で前の戦争に参加した、そして最後は小隊長クラスで生き残っている、それが理由だと聞いている」
「あのダメっぽい人が、実戦経験者なんですか?」
つい、あの野中大尉ののらりくらりとした風貌を思い浮かべると、まさか実戦経験のある様な人とは思えなかったのだ。
「野中さんはああ見えて、あの戦争の英雄話に出てくる人なんだ……小隊長として、けっこう戦果を挙げている」
中隊長は少し遠くを見るような目で話をした。
「あの人のやったことを聞くと、とてもこの学校にいるような人間じゃない、でも停戦後に心の調子を崩されて」
――気持ちはわかるが。
そう中隊長はぼそぼそっと呟いて話を続ける。
「小隊長、中隊長経験者の生き残りは少ない、その多くが戦死されている……日之出中尉の親御さんのようにな」
中隊長は晶をちらっと見て話を続ける。
「だから貴重なんだ、あのクラスの実戦経験者が」
「……その、中隊長はどうなんですか?」
晶が少し躊躇い気味に声を出す。
野中大尉と同様、二十年前の戦争を経験していると聞いたことがある。
「どうって?」
「その、同じく実戦経験者の中隊長は」
「野中さんと違って、俺はあれの経験を活かせるような戦場は生き抜いてないよ」
そのままテレビの方を向いた。
「ただ、一介の兵士だった、しかもこの学校の学生……目の前の敵から逃げることだけで必死だった、山に篭って戦闘と言えばゲリラ活動だけだ……敵のメシを奪うためにちょっかいを出すぐらい」
自嘲気味に中隊長は笑った。
ふと目が与助君に行く。
彼はただテレビ画面を睨みつけている。たぶん、私たちの会話のあいだそうしていたようだ。
「まあ、人に話すような内容じゃない」
中隊長も、今はもう別のニュース映像になったテレビを睨みつける。
「できれば、もう二度と戦場なんかには行きたくないけどな、野中さんが行こうと決めたことはすごいことだと思う」
そう言うとお茶を飲んで、そして軽くため息をついた。
「今ここで何か起これば私は戦う、でも正直、わざわざ外国まで行って積極的に戦いたくはない……情けないが、私にとっての戦場は恐怖でしかなかったから」
――一介の兵士だった私と部下を抱えていた野中さんではそこが違うのかもしれない。
そうボソッと言ったのが聞こえた。
寂しそうで、悔しそうな、そして無機質な声だった。
「与助君は行きたい?」
この遠泳訓練は旅館の温泉以外にもうひとつの裏イベントがある。それはちょうど海辺の花火大会と日が重なるということ。
旅館のバルコニーや庭が絶好の花火鑑賞スポットなのだ。もちろん学生は夜間に外出させるわけにもいかないが、旅館の敷地内は自由に行動していいようにしている。
教官陣もそれに合わせて、早々に食事を切り上げ――もう飲んでいる人は部屋から花火鑑賞ができるので、そっちで飲みの続きをする――食堂には彼とふたりきりになっていた。
ちょっとした仕事と仕事の合間。
「……花火?」
「ううん、戦場」
「……」
最近、与助君の様子が少し変だと思っていた。さっきの中隊長の話の時の彼の態度で、それが何かはっきりわかった。
沈黙が続く。
「俺は……」
彼はじっと私の目を見た後に、今は消されて真っ黒になっている液晶画面を見た。私も釣られてそっちを見る。
「わからない」
そう言った。
「ただ焦ってるんだ」
「焦っている?」
「遊撃課程同期は、みんな第一線でがんばっている」
昨日、与助君と電話をしていて『遊撃過程の時の学生長、今は出世して少尉だけど、その人が混成大隊の小隊長になるらしい』という話をしていたことを思い出す。
他にも、富山の連隊の人が最近忙しい忙しいいっていたこと……そういう彼との他愛の無い話だったものが、頭の中で関連付けされて一気に繋がっていった。
「学校から出たい?」
私はいじわるな質問をしてしまったと思った。
たぶん彼が悩んでいるのはそういうことだから。
彼は第一線部隊に戻りたい。でも、それは彼が今の仲間を捨てることを意味する。いや、普通の感覚からすればそういうことはないのだけど、きっと彼はそう感じてしまうのだから。
「わからない」
「うん」
彼は焦っている、そして悩んでいる。
「なんでだろう」
「うん」
「最初、ここの勤務は嫌だった、でも二年が経って悪くないと思っていた」
「うん」
「でも、急にこんなことでいいのかって……わかっている、ここの仕事は重要だってことは、人を育てることはすごく大変だし重要だってことは」
彼は私を見る。少し泣きそうな顔。
「だから、わからないんだ」
正直な気持ちだと思う。
わからない。
どうしていいのかわからない。
私だって、彼になんて言っていいかわからない。正直与助君の気持ちは理解できない。そこの感覚が私とは違いすぎるから。
でも、わからない気持ちはわかる。
「希望してみたら?」
彼は振り返った。少し驚いた顔をしている。
「混成旅団は無理だと思うけど、富山の連隊とか。春の異動で出れるように」
「いいのか?」
……いいのか。
「異動の希望は、今の職場を否定しているわけじゃないんだし」
「……俺と」
「石川から富山ぐらいだったら遠距離なんて言わないよ」
それを聞いた彼は少し顔を緩めた。
ひとりで考えて思いつめて、難しくしてしまう彼。
根が真面目過ぎる。
そこがいいところでもあるけれど。
……正直、今の環境のままがいいし、与助君に戦場なんかに行って欲しくない。
軍人としてあってはならない感情だけど。
心の中ではそう思ってもいいじゃないか。
私は自分の恋人が危険に晒されても平気な顔ができるようなタイプではないのだ。
――いっしょにいて欲しい、寂しいから。
そう素直に言えない自分。
意外と私は意地っ張りで格好つけなんだな、と思った。




