第17話 「焦りと予感」
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――学校はのんびりでうらやましいな。
何気ない一言。
他意はないと思う。
俺たちの間では『暇そうだな』が挨拶みたいなものだから。
――有事モードだよ、有事モード……大陸でドンパチ始まりそうだろ? そのせいで、ドサクサに紛れて極東共和国の奴らがちょっかい出してくるんじゃないかって。
話をしていたのは遊撃課程同期。
俺の原隊――一番最初に所属した部隊――である富山歩兵二連隊時代からの馴染み。
――この、そ暑いのにフル装備、そんで停戦ライン辺りで山狩り訓練やってんのよ……お陰で熱中症でばったばったいっちまう。
新潟の親不知から福島の白河の停戦ライン。
その日本海側にある最前線に富山十四師団があり、その隷下が俺たちの歩兵第二連隊。
連隊の任務は停戦ラインの死守。
もちろん師団も同じ。
二十年前の戦争では、緒戦で壊滅してしまったがその奮闘を称えて『磔』師団、磔連隊と言う俗称が付いている。
軍隊というところの俗称は不思議だと思う。
一見馬鹿にしたような名称でも、逆にそれが誇りになるのだから。
そんな俺たちは磔であることを誇りに思っていた。
確かにニュースでは、北の二つのロシア情勢が悪化しているようなことで騒いでいた。
同盟国である西のロシア帝国とコミンテルン陣営の東のソ連が慌しく国境付近に戦力を集中しているという話だ。
戦争になるかもしれない。
そういう風潮。
奴の話しだと富山の連隊は相当慌しくなっているようだ。しかし、俺が今所属している独立歩兵第九大隊は、相変わらず平時編制のまま第一〇九少年学校として高校生の教育を続けている。
――ま、後ろは頼むわ。
久々に会った同期とは片町の古びた居酒屋で飲んで、そういう話をした。
いつもより多く飲んでしまったが、酔いがまわらないことを不思議に思いながら別れた。
飲み屋街の喧噪から離れ、犀川の静かな夜道を歩きながら考えてしまう。
俺はここでいったい何をしているんだ。
と。
机に座って書類とにらめっこしたり、高校生相手に指導したりするのが俺の目指すところなのか。
遊撃のスキルはそのために鍛えてきたものじゃないのか。
こんなところに居ていいのだろうか。
わかっている。
……『こんなところ』ではないってことぐらい。
今じゃ、あそこも大切な仲間がいる場所だ。
わかっている。
わかっているが……なあ、なんで俺はそんなに焦ってるんだ。
何が不満なんだ……。
酔い覚ましに買った缶コーヒーを飲む。
ぬるくなった液体がブラックのくせして喉に引っかかって、なんとも言えない気分になった。
■■■■■■
「特殊事情」
無駄にダンディーな大隊長がそう言った。
中隊長、先任、副官の晶、それから私、そして他小隊長が三人……つまり、中隊の主要メンバーがその部屋に呼ばれていた。
「サーシャ・ゲイデン、君たちが預かっているロシア帝国のお嬢さんの話だ」
中隊長が咳払いをして一歩前に出る。
大隊長の代わりに説明するらしい。
「ゲイデン家はロシア貴族の中でも皇帝に近く、影響力が強大だということは承知していると思う……彼女の祖父は大臣経験者でもあり帝国の元老的な存在だ、もちろん彼女はその直系ではなく、ゲイデン家からすると傍系の家柄……しかし『ゲイデン』の名前がついている」
詳しくは知らないが、皇帝の血に近い軍人家系。そしてロシア国内でも大きな政治力を持っていると聞いていた。
「ロシア本国から、ボディーガードを付けたいという依頼が来た」
六月の学校祭の暴漢騒ぎ。
あの時、外国人排斥主義者達がサーシャを襲ったからだろうか? あの騒ぎでは、暴漢を中隊長や専属教師の小山先生が蹴散らしたからたいした騒ぎにはならなかったはずだが。
「サーシャ君を狙う奴らがいる……無論、学校祭の時のような連中とはレベルが違う相手が」
大隊長は静かな口調で言った。
狙う? 何を……誘拐したいのか? それとも命を狙っているとか。
「誰が、ですか?」
そう発言したのは晶だ。
「わからない」
大隊長が即答する。
「どうしてですか?」
「彼らはその事について話をしない」
敵の情報。
そんなとっておきの情報をこんな末端部隊の人間に教えるはずがない、か。
「でも、それがわからないと守りようが……」
「だからボディーガードをつけたいと言ってきている」
我々がそんなこと受け入れるなんてありえない。
私たちが学生に対する責任を放棄できるはずがないからだ。
例えそれが留学生だとしても。
「どうやったって、情報に疎い帝国陸軍に重要な情報は渡してはくれん」
中隊長が悔しそうな声で言う。
イライラしているのだろうか、軍刀のあたりを握ったり離したりしている。
「ここからはあくまで私の想像なのだが」
大隊長が立ち上がり静かに話を始めた。
「結論から言うとソ連の工作員だろう、そして狙いは日露同盟の亀裂……手段は直接自前の工作員か特殊部隊を使うと思う、東の工作員の線も考えたがあの二国間は北海道の漁業権で最近関係が冷めているからその可能性はほとんどない」
「ロシア人の工作員……そんな目立つ相手がこの国で暗殺、誘拐なんかできないと思います」
晶が口を挟む。
大隊長は少し苦い顔をした。
「ソ連の工作員は日系人を使って一般人に紛れ込ませている、警察も東の工作員を押さえるので手一杯……ソ連のは押さえきれていないと聞く、だから怖い」
「では、ボディーガードを受け入れるとおっしゃるんですか?」
晶がやや興奮した口調で食ってかかる。
中隊長が首を振った。そして大隊長に目配せをする。
それを受けた大隊長は晶を抑えるように右手をあげ話を続ける。
「それは政府として断っている、国内の……しかも軍隊内の治安の一部を外国人に任せるなど、国として許せる話ではない」
そんなことはわかっている。
じゃあ、どうするというところが見えない。この上司達はいつになく回りくどい言い方をしている。
「我々で彼女のプライベートまで守るということですか?」
回りくどい話は苦手だ。
とうとう私も口を挟んだ。
ただ、言いながら反省した。イライラが隠せず少しきつめの口調になってしまったからだ。
それに対して大隊長はダンディーな顔を崩すことなくニッと笑った。
「表向きは断った」
「表向き……」
訝しげな顔をする晶。
「現場レベルでは受け入れるよう裏で話をつけてある」
「受け入れるんですか? 政府が断ったものを」
晶が少し驚いた声を出す。
そりゃそうだ。
お上が駄目だと言ったのをこんな大隊レベルで裏取引するなんて。
「大丈夫だ、上も承知している」
「なら、なんでわざわざ断ることを」
「プライドだ」
「プライド……」
「政府としては外国当局に治安の一部でも握られるのは受け入れられないが、実際にゲイデンを守る責任を果たせる訳ではない……だから現場が勝手に協力したということにする」
「……」
「要人警護のスキルなんてものは我々が持っていない……ロシア帝国もわざわざ高い金を払ってその道のプロを雇うって話だから、わざわざ断る理由もないだろう……軍隊が警察の力を借りるよりはハードルが低い」
大隊長はぽんっと晶の肩に手を置いた。
「気持ちはわかる……私と違って、じかに子供達と接している君たちにとっては、面白くない選択だろう」
彼女は少しうつむき、そしてうなずく。
「……わかりました」
うなずく彼女を見る大隊長の顔は、なぜか少しだけ父親な感じに見えた。
聞き分けのない娘を扱いもわからずなだめる……そんな感じに。
「要するに学校の中や部隊で外に出るとき以外はロシア帝国側の要人警護がつくということですね」
私は大隊長に対して確認する。
「そうだ、わざわざ休日潰して、学生のボディーガードなんてことをする必要はない」
「休日を潰すとかそんなくだらない問題では……」
ジト目で晶が抗議するように口を挟む。
「でも、休日は遊びたいだろう」
「それと比較できるような案件ではありません」
「日之出中尉は真面目だな……うん、もう少し柔らかくすればもっと美人なんだが」
「関係ありません、真面目で結構です、大隊長が不真面目なだけです」
腕を組んだまま言い返す晶。
上司に対する口の聞き方ではない。でも、なぜかうちの職場ではそれが許される。
「真田中尉」
真面目な顔でじっと見据えられた。
「はい」
とっさに返事をする。
「休日に仕事はしたくないだろう?」
晶の相手がきつくなったのだろうか、真面目な顔でそんなくだらない振りをする大隊長。
すごく面倒臭いおっさんだ。
「はい」
「そっけない」
「別にそっけなく言ったつもりはないのですが」
「休日は彼とデート」
おいおい、それが言いたかっただけか。だいたい、なんで私に彼氏がいることを知っている。
「さて、なんの事でしょう」
「ボディーガードの軍曹と付き合うようになったんだろう『俺がくっつけました』なんて中隊長が自慢するぐらだから、相当ラブラブじゃないのか」
ちょっとまておっさん。
なんでその事を知っている。
中隊長が大隊長に『その話はやめてください』って一生懸命ジェスチャーしているがまったく通じていない。
口をパクパクする中隊長が情けない。
「ああ、そうだサーシャ君もボディーガードを付けるとしたら、うーん、恋に落ちて関係を持ってしまうかもしれないな……いや、面白い……間違えた、由々しき事態だな」
大隊長はダンディーに「ふうむ」なんて声でうなずく。
すごくむかついた。
「そうだ、目の前に実例があるからな……なんとか効果というやつだったな、えっと」
ぶつぶつ言う大隊長は無視をして、少し慌てている中隊長を睨む。
「おっさんのくせして……おしゃべり」
決して上司に言うような言葉、冷淡な口調ではないが自然に出た。
しょうがない。
中隊長が悪い。
いくらプライベートが薄い世間だというのは承知しているが、人の色恋沙汰を面白そうに人に言いふらすのはよくない。
許さない。
っていうかこのゲス野郎。
私が軽蔑の眼差しに耐え切れなかったのだろうか。
中隊長は何も言わず両手を合わせてペコリペコリ頭を下げている。
「ところで日之出中尉」
また真面目な顔になるダンディー大隊長。
きっとまたアホな質問をするんだろう。
だいたいこの人の振り方はわかってきた。
「はい」
晶はジト目のままぶっきらぼうな声で答える。
大隊長は椅子に腰を下ろし、足を組んで一息入れた。そして見上げるようにして晶を見据えた。
しかし予想は外れ、真面目な話だった。
「さっそく、海水浴場での遠泳訓練があるだろう」
「来週です」
「さっき言ったように、サーシャ君は我々で守らなければならない」
「はい」
「専属で警護役を付けたい、中隊でそういう器用なことができそうな者はいるか?」
「林少尉が適任です」
晶は即答。
私はちらっと、ずっと黙ったままの二小隊長を見る。
彼は部内選抜将校、寡黙で武術、射撃そして体力を含め中隊でもトップクラスの人。
「……」
大隊長は、口をへのじにしたまま沈黙している林をじっと見て、それから晶に向き直って口を開く。
「だめだ」
「なぜですか?」
「林は小隊長だ、全般を見る必要がある、ひとりの学生だけを面倒見る立場ではない」
彼は大隊長の言葉に軽く頷いた。
「それなら、やはり」
晶は私をちらっと見てから大隊長に向き直った。
「中隊本部の綾部軍曹が適任じゃないかと」
「やはり彼か」
「バランスがあって、何よりも機転が利きますので」
「辛口の日之出中尉にしては評価が高いな」
「性格と生活態度、規律には問題ありますが、そういうことだけはできる人ですので」
あのね晶。
人の彼氏をその彼女を前にボロクソに言うのはよくない。
どんだけ嫌っているんだよ。
もう……。
少しは遠慮してほしい。
間違ってはいないんだけど。
「わかった、了承する……中隊長、それでいいな?」
中隊長と先任が頷く。
「しかし心配だな」
少し渋い顔になった大隊長は私に目を向けながら言う。
「何がですか?」
「サーシャ君と綾部軍曹がくっつんこしたら、どうしよう」
くっつんこ!
このおっさん……何がくっつんこだ。
「……」
「そういうのって芽生えるものなんだろう? こういうシチュエーションだと」
「……で」
「で?」
「で、何が言いたいんですか?」
「ちょっと絡んだだけじゃないか」
「セクハラです」
ニッと笑う大隊長。
このじじい、こういう会話を喜んでいる。
うわー、ほんとメンドクサイ。
すると今度は晶の方を向いて何やら言いたそうな感じで視線を送る。
晶が口を開く。
「どうせ、お見合い話ですよね、それはいいです間に合っています」
先手を打つ晶。
「浮いた話がなくて心配しているんだ」
「それ以上」
バン。
晶が大隊長の大きくて高そうな机を叩いた。
「それ以上何か一言でも私の男女交際に関する事項をお話になると、とても心苦しく残念ではありますが、公益通報をせざる負えません」
すっとボイスレコーダーを差し出す晶。
「今のでもセクハラ?」
「アウトです」
「でもワンアウトぐらい」
「真田中尉でワンアウト、私に対してダブルプレーぐらいですから……しかも九回裏です」
「けち」
「大隊長、残念です、そんな語彙力が低い人とは思いませんでした……あの戦争を小隊長それから中隊長として生き永らえた勇士がかすんでしまいます……なお、これも録音しております」
「ふうむ」
「ふうむじゃありません」
ずんっと前に出る晶。
「昔は……」
「昔は昔、今は今」
何かしゃべろうとしたところをすぐにかぶせる。
さすが、晶姉さん。
――日之出大尉に頼むと言われたからなあ。
もぞもぞっとそんなことを大隊長が呟く。
階級間違えてるし。
「申し訳、ございませんでした」
ぺこりと頭を下げる大隊長。
「わかっていただければいいのです」
腕を組んだままうなずく。
いや、大隊長にそういう態度はいかがなものだと思うけど。
なぜか絵になるのだ。
彼女の場合。
中隊長がハイハイと言いながらパンパンと手拍子を打ち、二人の間に割って入った。
「いつものお約束はいいので本題に入りましょうか。もう満足でしょう大隊長」
うんざりした顔の中隊長は「私も暇じゃないんです」とぼやいている。
そもそも、あなたが軽率に私と与助君の関係を大隊長にべらべらしゃべったことが原因なんですけどね。そういう思いを込めてじーっと中隊長を睨むが目を合わせようとしない。
しょうがない。
あとで奥さんにチクっちゃおう。
きっと叱ってくれる。
「では本題に入る、それでは次の遠泳訓練の日程から、副官」
その後は計画の内容と、サーシャ・ゲイデンの警護要領の話を進める。
武器の携行。
警察権の範囲内での武器の使用だけど、拳銃の南部零式を常時携帯。そして敵の出方で小銃も準備することに決めた。
あとはまじめな話。
また、与助君か。
便利屋な彼。
きっと与助君にこの話がいったら。
――ドめんどくせー。
とぼやきながらしっかりと準備をすると思う。
そういう人だから。
私の好きな人は。
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俺らが浮いている場所から見える離れた海岸には、若い水着のおねーちゃん達とおにーちゃん達がウフフアハハとボールの取り合いっこをして楽しんでいた。
俺は双眼鏡を外して、ため息をつく。
どんぶらこどんぶらこと浮くボートの上で若すぎるねーちゃんにーちゃんが競泳水着を着て必死に泳いでいる姿を監視。
何この格差社会。
ああ、海だよ。
海。
なんで訓練に来ているんだよ。
遠泳訓練。
一年生、夏のイベント。
黒い水泳帽の上級者は六キロメートル、白い帽子が中級者が四キロ、そしてひよこさんチームこと黄色い帽子が二キロ泳ぐことになっている。
七月半ばの割にはちょっと肌寒い天気。
低体温がでてもおかしくはないと思うので、監視組はピリピリしている。
急に足がつって溺れたりするからだ。
白い帽子の団体様が横切って行った後ろの方に、黄色いものが数個、海面に浮いている。
それが波でゆらゆら揺れていた。
その団体の翼を泳いでいる赤い水泳帽に目がいく。
学生の水泳帽はメッシュタイプのものなのだが、教官陣はわざと目立つ赤い艶々したビニールタイプのキャップを被っているのだ。
ゴーグルをして頭だけが見えるが遠めでも彼女だとわかる。鈴もこうしているのを見ると一応教官っぽくはある。
一応どころか、教官なんだけど。
黄色帽から少し見える金髪の生え際。
あれが留学生の娘ちゃんだろう。
鈴がその子に話しかけている様子が見える。
『あの子、水が怖いって』
鈴がそう言っていたことを思い出す。
『子供のころに溺れかけてから、足の届かないところに行くとなんか妄想しちゃうみたい、泳ぐことに必死な時はなんとかなるんだけど、ふとした瞬間に海の底から変な生き物が足ひっぱってきたらどうしようかなっとか考えてしまうみたい……私もそういうのあるから気持ちはわかるけど、与助君はそういうのない?』
俺は苦笑しながら『ない』と答えると『想像力が貧相』と彼女は非難した。
悪かったね。単細胞で。
『プールでも足の届かないところに行くと、過呼吸気味になるのよね、あの子』
すっごく生意気で、腕っ節もいいって聞くけど、結構可愛いところがあるんだな、と言うと『女の子はいろいろあるから』と流された。
女の子はいろいろある。
それ。
男が口を出せない世界の一例だと思う。
そういうことを思い出しながら二人を観察していると、鈴がしきりにあの子に何か話しかけているのが見える。
たぶん鈴は鈴で一生懸命話しかけることで恐怖を少しでも紛らわせようとしているに違いない。
なんだかんだで、やっぱりそういう面倒とかも見れる人間んだよな。
鈴って……。
俺が知っている普段のほんわかしたものと儚い危なさを持った感じからは想像できないが。
しかし、カナヅチだったあの黄色帽子の子達もたった数ヶ月で二キロも泳げるようになったもんだ。
俺も暇があれば教えに行っていたが、それ以外にも学生同士で特訓したとか、副官が教えたとか、そういう話は聞いている。
いっぱい努力したんだろう。
時計を見る。
「よし、そろそろひよこさんチームが休憩の時間だ!」
俺がそう言うと舵を預けている小谷伍長がアクセルを回す。そして、船はあっという間に黄色の集団に追いついた。
「そろそろ時間です! 真田中尉」
「ありがとう、綾部軍曹、それじゃボートを止めて」
「小谷! エンジン停止!」
奴が了解と言ってエンジンを止めると、急に静かになり波がボートに当たる音と木製ボートがギシギシなる音が妙に大きく聞こえた。
あと、鈴の態度があまりにもそっけないので、ついつい寂しさを感じてしまった。
職場で素っ気無いのはしょうがない。
わかっているし、職場ではそういう雰囲気を絶対に出さないということを固く約束しているんだけど
「ボートに付け!」
彼女が指示をすると、学生達はボートの左右の側面についている白いロープにつかまってプカプカ浮いた。
ちょっとした休憩。
ボートに群がる黄色い頭の学生達。
この前まで泳げなかった子達が必死に海で泳いでいる。
ちょこちょこ教えにいった兄貴分としては、ひとりひとりの頭をぐしゃぐしゃっと撫でたくなるが、まあここは我慢。
「今日は水が冷たいから、腹も減ってるだろう」
寒いとカロリー消費が激しい。
俺はボートに乗せていた袋から一口チョコレートと乾パンを取り出すとひとつずつ渡していった。そして、鈴の前に手を出したときに目が合った。
「真田中尉どうですか、調子は?」
あまり、変な雰囲気を出すわけにもいかないので、業務的な言葉をだす。
「思ったよりも冷えているから、上級者組とかは低体温患者がでるかもしれない」
日が差さない曇り空。
日に焼けて体力を損耗することはないが、なにせ寒い。
鈴も露出した肌は鳥肌が立っている。ふと目を横にやると、金髪の生え際があるロシア娘ちゃんも鳥肌が立っていた。
「がんばっているな」
俺はそう言ってチョコレートを差し出す。
「ありがとう」
彼女はそう言って、受け取った後、チョコレートを食べる。もぐもぐと口が動いた後、緊張した厳しい顔つきが緩んだ。
「美味しい」
よくわからないが、ロシア語でありがとう……とか言っているのかもしれない。
「あと半分だ、がんばれよお嬢ちゃん」
ポンポンとその黄色いキャップを撫でた。
隣の鈴が不思議な笑顔で俺を見ている。
ん、なんだ。そう、出会ったころの無機質な感じの笑顔。
あれ、なんか、気に障ることをしたかな。
……チョコレート。
一個じゃ足りなかったかな?
それからもう一周チョコレートと乾パンを配ってから休憩時間は終わる。
「休憩終了」
鈴がそう言うと次々と黄色い帽子がボートから離れていく。
俺とボートに乗っている男たちは「がんばれよー、あと半分だー」と手を振りながら応援した。
すいーすいーと平泳ぎで離れていく集団を見ながら、昨日中隊長から言われたことを思い出す。
――遠泳訓練中、サーシャ=ゲイデンを襲う人間を排除せよ、状況によっては射撃も許す。
机に置かれた、南部零式と弾倉。
もちろん弾倉には艶々した黄銅の弾が入っていた。今、救命胴衣の内側につけているそれ。
――私、それから副官が持つ、あと小銃も弾付きで持っていく……相手によってはそれを使う。
相手は誰ですか? と聞いてみた。
――ソ連の工作員、又は雇われたそういうたぐいの輩だ。
私の表情が曇ったのを見たんだろう、中隊長は少し笑顔で言ってきた。
――念には念を入れているだけだ、敵も馬鹿じゃない……わざわざ我々が大所帯でいるところに襲撃することはない。敵も大人数では動けない、小人数で行動しているとすれば、ここでくる可能性は更に低い。
念には念ですか。
――ああ、そうだ、念には念。ただし可能性はゼロではない、覚悟はしておけ。
了解しました。
と俺は言うことしかできなかった。
なぜ自分が選ばれたんですか? と聞こうとしたところ、先任が口を挟んできた。
――どうして、俺なんだ……と、思っている顔だな。
その凶悪な顔が人懐っこい笑顔になる。
――決まっている、暇そうだからだよ、暇そうだから。
と言って豪快に笑った。
暇じゃねえって。
暇じゃ。
ちくせう。
本当に雑な使い方をしやがる。
だって……。
遠泳訓練の楽しみといったら、夜、宿泊先の旅館での美味しい肴とうまい酒を飲むことだというのに。
拳銃持てってことは……飲むなってことだろう。
まったくメンドクサイ。
暇があれば夜中に抜け出して鈴と星を見ようかなとか思っていたのに。
それもできないってことじゃないか。
「がんばれよー!」
俺はボートの上から黄色いひよこ組の背中に向けてその鬱憤を晴らすように大声を上げた。
無意識に胸にあたるごつごつした拳銃に触れる。そして、どんよりした雲を見上げた。
けっきょく今日の夜は星なんか見えない天気なんだろう。
鈴と星空散策をする目論見を諦めた。
星が綺麗ですね。
とか、月が綺麗ですねとか言いたかったのに。




