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缶コーヒーからはじめよう。  作者: 崎ちよ
第4章  俺が知らない君
16/25

第16話 「さようなら」

 □□□□□□


「鈴が危ない、プールに戻って」

 携帯でそう伝えられた時、何の事かわからなかった。

 泳ぎは上手いはずだ。

 溺れたとか、そういうことはないと思った。

 ちょうど帰るための車に乗り込もうとしていた時だったので「副官に呼ばれた、後発で戻ります」と言って走った。

 とりあえず、考えることをやめる。

 現場に行けばわかることだ。

 そこでどうすればいいか考えればいい。

 到着すると、彼女から「遅い」と怒られながら事情を聞いた。

「あの男と再会してけじめをつけに行った、そして何かトラブルがあった」

 けじめ。

 鈴が抱え込んだ、あの男との事。

 彼女が依存して、愛して、妊娠までして、そして捨てられた。

 男はどんな奴かはわからない。

 鈴を散々弄んだのかもしれない。いや、本当に愛していたけれど、飽きてしまったから捨てたのかもしれない。

 でも、そんなことはどうでもよかった。

 どうして……。

 どうして鈴は一言も相談せずに……。

「俺は聞いてないって顔?」

 副官が歩きながら言う。

「……」

「自分で解決するべきことだって、鈴が言った」

「……どうして」

「心の問題だから、私達に頼れば頼るほど、また別の依存が始まるとか思ったんじゃない?」

 少し寂しそうな横顔の副官。

「前に進もうとするから、見守って背中を押そうと思った……鈴があれだけ強い意志を持っていたから上手く行くと思ってたけど……相手が悪かった」

「何があった」

「わからない、わからないけど、何かがあった」

 ふたりで扉の前に立つ。

「探り入れるために人を置いてた、その子から着信だけがあったけど……あれ? いない」

 副官が言う『その子』を探す。

 彼女は唇を噛み締め「あのバカ、鍵どーすんのよ」と呟いた。

 間抜けなことに『その子』が鍵を持っていたようだ。

 色々手は打っているところは関心……いや、それを通り越して少し怖いぐらいだが、ツメが甘い。

 完璧そうで、できてるように見えて、どこか間抜けだということは最近わかってきた。

 愛嬌と言えば愛嬌。

「オロオロしててもしょうがない、鍵がかかっているならぶち壊せばいい」

「そんなことできるわけないでしょう」

「何もやらないよりはいいだろう」

「あなたバカ?」

「どーせ、単細胞ですよ」

 基地の備品なんて安物だ、引きちぎるとか蹴りやぶるとかできるような扉が多い。俺はそう思いながらドアノブに手を掛け、思いっきり捻った。

 あれ? 鍵、開いてたんだ

 すんなり扉は開かれ、拍子抜けした。

 しかし、壁に目を瞑ったまま寄りかかるようにして立っている鈴が視界に入り、そして手の届きそうな場所に立っている海軍の男とその部屋の空気を感じた時、それは消えた。

 体が動いていた。

 必死に戦ったであろう彼女の手を握ってやりたかった。

 怖い思いをしている彼女を抱きしめたかった。

「ごめん」

 俺はそう言って彼女の手を引っ張った。そして壁から離す。

「ごめんな、遅くなって」

 彼女を抱き寄せ、その震える体を感じて自然とその言葉がでた。

「あ……」

 何か言いたげに口を開けるが言葉にならないのだろう。

 そんなに怖い思いをしていたというのか……。

「日之出、久しぶりだな」

 男が口を開いた。

「お久し……ぶり……です」

 いつもとは違う緊張した声の副官。

「で、挨拶にでも来たのか?」

 淡々とした口調と動かない表情。

「……鈴を助けに」

「助け? 何のために」

 男が口の端を少し上げる。

「僕達の関係を再確認させたところなんだ、野暮だな」

 関係を再確認……その言葉にいらない想像をしてしまいそうになったが、手の平で感じる彼女の息遣いがその妄想を吹き飛ばす。

 不安になってんじゃねーよ。

 バカ。

 自分に悪態をつく。

 その怒りも含めて、男を睨みつけた。

「おい、ボクちゃん」

 興味がなさそうな目で俺を見る。

「君が今の相手か」

 表情を変えないまま男は言葉を続ける。

「前に連れてきた男は僕と鈴が愛し合うところを見せただけで泣いていたが、君はそうなる前に退場した方がいいんじゃないか?」

 スッと男の手が動く。

「ああ、説明が足りていないな、そうだな、僕たちはそういう遊びが好きなんだ……昔からこうやって何回も遊んだ、そういうゲームなんだ……そういうこと、分かってもらえるかな?」

 長くなると手を動かしながら話す癖があるようだ。

「壊すゲームは、それが長ければ長いほど面白いが……君は付き合って何年だ?」

 何を言っているんだ、こいつ。

「……一月(ひとつき)以上」

「つまらん、それじゃ前の男と変わらないじゃないか」

 男は表情を変えずに淡々と言う。

「四年ぐらいすれば、少しは楽しめると思ったんだが、つまらん」

 そして、はじめて無表情に程近い顔が崩れ、好々爺のようなにんまりした顔に変貌する。

「だが、こんなクソ生意気な野郎の目の前で遊ぶのは悪くない、今までのはビビりばかりで骨がなかったからな、こいつみたいに」

 男が視線を落とした先には同じく海軍の制服を着た人間が床に伏せている。

 副官が言っていた、その子だろうか。

「四年か、少しは僕の形じゃなくなっているころじゃないか?」

 無表情に戻りべらべらしゃべりだす。

「ああ、君に聞いてもよくわからないか……僕のお古と言っても、時間が経っているからな」

 べらべらべらべら。

「僕が仕込んだからな、悪くない体だろう……いや、鈴みたいな淫乱、君は持て余すぐらいかもしれないな」

 べらべらうるさい。

 男の顔、その口調、態度。そしてボクチンとか言う言葉。

 そしてこいつ、喧嘩が思ったよりも下手だということ。

 挑発しようとしているがそれができていない。

 汚い雑音みたいな内容で不愉快なだけだ。

 だいたい、俺がごちゃごちゃうるさい口喧嘩に乗るわけがない。

 俺は言葉で生きている人間じゃない。

 もしも俺に喧嘩を売るなら、一発殴るか、それか鈴や副官に乱暴するぐらいしないといけない。

 そういう訳で、この根腐れ野郎の何もかもが気に食わない。

 俺の中の脳内裁判所はこういう輩は相手をしても面倒臭いだけなので、無視するのが一番だという判決を速攻下した。

「帰ろう」

 ……スッと押されるような、拒絶の空気。

「ごめん、まだ、終わって、いない、から」

 自分に言い聞かせるように彼女は言った。

 ――あの男と再会してけじめをつけに行った。

 ――自分で解決するべきことだって、鈴が言った。

 副官の言葉が蘇る。

 ぐっと力を入れて彼女は俺の胸から体を離した。

 震えは少し納まっている。

「ありがとう、もう少しであの人の『間合い』に入り込んでしまうところだったから……助かった」

 それから俺を見上げて「ずっと、ぎゅっとしてくれてありがとう」と言う。

 ああ、あの目だ。

 お見合いの時に見せた目。

 前に進もうという力を込めた目。

 俺はその目にほんの一瞬見とれてしまった。

 そして「がんばれ」と鈴の頭をポンポンと優しく叩くようにして撫でた。

 彼女が力強く振り返る。

 その視線の先には無表情の男。

 ふたりで男を見据える。

 ほんの一瞬だけ、あのにんまりした顔を男が見せた。

 クソみたいに醜い顔。

 俺は気づいたら彼女の手を握っていた。

 暖かい手、そしてそれが汗ばんでいるのを感じた。


 ■■■■■■


 酷い言葉。そして、本当の話。

 三回。

 三回も彼の言う遊びをさせられた。

 嫌だった。

 でも、堪らなく気持ち良かった。彼に愛されているという幻想に浸ることができたから。

 取り戻されたという気分になったから。

「帰ろう」

 与助君がそう言った。

 帰るべきなのだろうか。

 与助君や晶に助けてもらったまま帰るべきなのだろうか。

 彼が酷い言葉を投げるたびに、与助君の抱きしめる力は強く、そして優しなっていった。

 お陰で乱れていた心が落ち着いて、向き合う勇気を戻すことができた。

「ごめん、まだ、終わって、いない、から」

 私はそう言うと少しふわふわしていた足下をぐっと踏みしめ、そして手に集中する。

 それから、腕に力を入れて、与助君に感謝する気持ちを込めて体をゆっくり離した。

「ありがとう、もう少しであの人の『間合い』に入り込んでしまうところだったから、助かった」

 ありがとうと言いたかった。

 来てくれてありがとう。

 助けてくれてありがとう。

 受け入れてくれてありがとう……。

「ずっと、ぎゅっとしてくれてありがとう」

 絶対に泣かない、そう決めていた。

 私は振り向く、そして彼を見据える。

 まただ、あの楽しそうな顔。でも、そんなものには負けない。

 きっちり、もう一度言ってやろう。

 私の手を握ってくれる与助君の手が暖かくて、心に火が灯ったような心地よさがあった。

「晶もありがとう」

 私は彼に向いたままお礼を言った。

 きっと大川が乱入してきたり、与助君が助けにきてくれたのは彼女が何かしら手を打ったからだと思う。

 すると、床のほうからガサっという音がした。

「晶……さん……すみません」

「一貫!」

 晶が倒れている大川に気付き、私の横をすり抜けて駆け寄る。

 すごく以外なのはいつも冷静な彼女がすごく悲鳴に似た声を上げたこと。

「バカ! 勝手なことをして……」

 人を助けたのに大川は怒られている。まあ日ごろの行いが悪いから仕方が無い。

「この坊ちゃんをけしかけたのは君か」

 彼が晶に向かってそう言った。

 いっぽう彼女は無視して一貫を介抱している。

「統合士官学校の頃はあれだけ懐いていたのに、冷たいな」

 晶が膝をついたまま、彼をキッと睨みつけて見上げた。

「あの頃の先輩はまともでしたから」

 胃から搾り出すような声で彼女は答えた。

 彼はその言葉を聞いて、無表情のまま鼻で笑う。

「そうだ君も僕の遊びに入れようかと思っていたんだ」

 わざとらしく手のひらを打つ。

「後輩の伊藤が邪魔してな」

伊藤先輩(せんぱい)が……」

「それに、僕には君の同級生の……名前は……そうだ、牡丹とかいう玩具があったからな」

 晶の顔付が明らかに変わる、一瞬で。

 怒り、心の底から怒っている雰囲気。

 やばい。

「晶、この人はあなたを怒らせて楽しんでいるだけ! 話に乗ちゃだめ」

 そう、彼は相手の心を揺さぶり、乱す。

 それから自分のペースに巻き込むのだ。

 さっき与助君にしようとしたことと同じ。

「あれも面白かった、まあ学校卒業前に飽きたから、そのままだが……ああ、そうだ、そのお古を有難そうに伊藤が相手していたなあ」

 床のほうから野獣のような、そしてすごく哀しそうな呻き声を大川が発してる。

「貴様っ! 牡丹姉ちゃんを、姉ちゃんをっ!」

 大川は立ち上がり――正確に言うと立ち上がることもできず四つん這いに近い状態で――そう唸りながら彼に突進して掴みかかろうとする。

 晶はそれを止めようとして手を伸ばしたが、大川に振りほどかれその格好のまま固まっていた。

 大川の突進に対して彼は表情を変えることなく、その頭を両手で受け止た。そして間髪を入れずその顔面に膝を打ち込んだ

 私でも目を逸らしたくなる光景だった。

 鈍い音が聞こえた。

「一貫っ!」

 今度の晶の声は、悲鳴そのものだった。

「うう、ああ……、ちくしょう……ちく……しょ」

 ボタボタと鼻血を地面に落としながら、大川は泣いていた。

「汚れる、離れろ」

 冷たく言い放ち、彼は押し込むような前蹴りで大川は押し戻された。

「お前は牡丹の弟だったな……なるほど君たちは牡丹の自殺の原因が僕にある、そう勘ぐってないか?」

「……」

「彼女は仕事の問題で死んだ、僕は関係ない」

 伊藤さんの彼女。

 あの身の上を打ち明けあった時に聞いた話、亡くなられた彼女。

 原因は仕事なんだけれど、それを救えなかった自分に原因があるんじゃないかと悩んだ……彼がつぶやくように話をした内容を思い出す。

「そんなことはどうでもいい」

 その血が服につくことも気にせずに大川を座ったまま抱きかかえた晶は、そう呟くように言った。そして、声を強い口調に変えて続ける。

「牡丹を汚すような事を言わないで」

 彼はまた無表情のまま鼻で笑った。

「事実を言っただけだ」

「言って良いことと悪いことがある」

 彼女の瞳に怒りが浮かんでいる。

 でも晶はさっきに比べ思ったよりも冷静だ。

 大丈夫。

 ……大丈夫。

「二度とその汚い口で牡丹のことを言わないで欲しい」

「言ったらどうなる」

「今度は、この子の代わりに私がぶん殴る」

 すると彼はあのにんまりした顔して晶を見た。

「何がおかしい」

 晶は彼に向かって、そのハスキーな声をさらに低くして言った。

「おかしい、いや違う、僕は楽しい」

「……最低」

 まるで彼から大川を守るようにその頭を抱きかかえて、吐き捨てるように晶は言った。

 彼は何事もなかったかのように私に目を向けた……いや、私の手を握ってくれている与助君を見た。

「まだ居たのか」

「ああ」

 与助君が答える。

「鈴は僕が仕込んだ、僕のために、僕が作った女だ」

 彼の右手が犬でも払うかのように動くひらひらと動く。

「君は部外者だ、この部屋から出て行け」

「嫌だ」

 即答。

「この勘違い野郎」

 ぎゅっと手が握られる。

 暖かい手。

「聞き分けがないな」

 彼はその無表情な顔に少し困った色が入る。

「鈴、そいつと比べてどうだ、俺が欲しくなっているんじゃないか」

 あの麻薬のような快楽を知ってしまったために、ずっと彼を求めてきた。

 彼が私の前から居なくなってからは、いろいろな男と試して、探して、試して、探して、そして見つけきれなかった。

 ……与助君とでは、あの失神するような悦びを味わったことはない。

 足りない。

 正直そんな欲求があった。

 背徳感や羞恥心、服従心をぐちゃぐちゃに混ぜて次々に飽きないような快楽を与えてくれるようなことは絶対にない。

 彼の依存性の高い快楽は、別の女性との行為を目の前で見せられたり、人前で罵られて一方的に別れを言われることで更に深くなって、それも気まぐれのようで、計算ずくだった。

 彼のなすがままになっていた。

 四年前に『飽きた』の一言で終わりにされた後、ついこの間まで……。

 そう、ついこの間までだ。

「君を理解しているのは、僕だけだ」

 彼はほんの少し、私だけが解るぐらいにいつもより強い口調で言った。

 たぶん、私にしかわからない強弱。

 ――はっ。

 そう言って呆れた顔で与助君は笑った。

「それがどうした!」

 与助君が珍しく勝ち誇った顔を作って彼を見下す。

「俺と鈴とは、あれだ! もっとすごいことをやっている!」

 もっとすごいこと……、え、ええええ!

「ちょっと、与助君、な、なにを」

 私は湯気が出るぐらいに顔面が熱くなるのがわかった。

 彼に何を言われても羞恥心はなかったけど、与助君に言われて一気にそれが吹き出てきた。

 晶も目をまんまるにしている。

 今、そんな、晶いるのに、ちょ、ちょっと恥ずかしい。

 心を乱されたらだめだと肝に銘じて、ずっと気を強くもっていたのに、まさか味方の与助君に乱されるなんて、予想外の事にますます心が乱れる。

 私は少し咎めるような目つきで彼を見上げた。

 すると言った本人も相当恥ずかしかったんだろう、耳まで赤くなっている。

 あ、可愛いかも。

 そう思った。

 彼の頭を胸に押し当ててよしよしよしって撫でたい衝動に駆られる。その為、ついさっきまでの緊張が解れてニヤニヤしてしまった。

 ――はっははは。

 笑い声。

 彼だ。

 めずらしく声を上げて笑っている。

「とんだ茶番だな」

 笑い終わった後に吐き捨てるように言った。

 ぎゅっと、私は与助君の手を握った。

 そして、じっと与助君を見つめた。

 ――後は私がなんとかする。

 そう目で伝えた。

「茶番なんかじゃない」

 私はできる限り、言葉に力を、語尾をはっきり、単語一つ一つを丁寧に言った。

「山岡さん、ありがとうございます、感謝しています」

 彼は無表情に戻った。

「与助君と出会えたことに、そのきっかけを作ってくれたことに」

 言葉をしっかり選ぶ。

 (おの)ずと力強い声になった。

「もし、あなたに出会わず、与助君と出会っていたとしても」

 握った手が汗ばむ。

「きっと私はあなたが解放した部分をどうすることもできず抱えたこんだまま、おかしくなっていたかもしれない……そして、そんなことよりも大切な、与助君がいま与えてくれてる『すごいこと』を見つけることができなかったと思う」

 彼は右手を顎の下に持っていきワザとらしく考えるふりをする。

 でも相変わらず無表情。

「あなたがいたから、今の自分が居て、そんな私を包んでくれる人がいる」

 与助君は何も言わず、握る手に力を込めてくれた。

 私が言い終わった後、部屋の中を静寂が包む。

 それをかき消したのは、彼のため息だった。

「お前では満足させることはできない、そんな当たり前の恋愛なんかできる女じゃない、普通ではだめな女だ……それは僕が散々教えてやったことだろう」

 与助君の体に力が入る。

 歯を食いしばる音が握った手を通じて感じてきた。

 私は与助君の手を離し、前に一歩出た。

「もう、あなたは私には必要のない人間です」

 彼は無表情のまま、首を少し傾げるようにする。

「目を覚ませ」

「もう一度言います」

 彼はため息をつく。

 大好きだったそのため息、さっきまでは嫌悪感しかわかなかったそれ。

 今は、何も感じなくなった。

「さようなら」

 私は彼の目を見て強く言った。

「あなたはもう、私の思い出以外何物でもありません」

 握った与助君の手がとても暖かく感じた。


 ●●●●●●


 私が綾部軍曹の後からその部屋に入った時には、しっかりと鈴は彼に抱きしめられ、そしてその目の前には山岡先輩、床に一貫が転がっていた。

 悠長に床で寝転がってる一貫を見て、何やってんのと突っ込みを入れたくなった。

 そうい間の抜けたのと対照的に、鈴たちと山岡先輩の間には張り詰めた緊張感が漂っていた。

 何が起こったかは想像できる。

 きっと、山岡先輩が乱暴なことをしようとしたのだろう。

 昔のように。

 ひとりでなんとかすると言っていた鈴には悪いけど、もしものことを考えて一貫には、しっかりと中の様子を伺うように指示をしていた。

 まさかの時は携帯で連絡するように言いつけていた。

 そして、携帯がなった。

 そういう訳で予定通り駐屯地に帰ろうとしていた綾部軍曹を呼び戻し、ここに来たていたのだ。

 山岡先輩との間にいろいろあった。

 鈴、綾部軍曹(あいつ)が彼と話をしているうちに、私にも揺さぶりがかけられ、そして牡丹のことを辱められた。

 一貫が彼に掴みかかろうとしなければ、私が殴りかかっていたと思う。

 蹴られて鼻血でベトベトになったり、泣き出すわ散々だったけれど。

 やっぱり、肝心なところは締まらない。

 駄目駄目な子なんだよなあ。

 あいつとは大違い。

 ゴタゴタはあったけれど最後に鈴は『さようなら』を言って彼にとどめをさせた。

 ざまあみろ。

 まさにそれだ。

 あの男は無表情のまま「つまらない女になったな。興味が失せた」と言って去っていった。

 まあ、捨て台詞にしては大したことがない。そりゃ、こっちが赤面するぐらいにラブラブなふたりを前にしていつまでも食い下がっていれば、すごく惨めな世界が待っていると思う。 

 それにしても、人に『つまらない女』と言うわりには、そもそもあなた自身がつまらない男だと思った。

 山岡さん。

 少しでも、あなたを好きだと思っていた、好意を持っていた自分が恥ずかしい。

 ほんと、よかった告白しないで。

 ……と、思いつつ自己嫌悪。

 見る目がないのだ。

 私。

 話を戻す。

 その後、ちょっとこの子の面倒見るから先に帰ってとお願いして、鈴と綾部軍曹を部屋から出て行かせた。

 ちょっとふたりきりで話したいこともあると思ったから。

 どちらかと言えば私たちが出て行くべきことなんだろうけど、一貫がこれじゃね……。

 一貫の頭を膝の上に乗せて、頭をポンポンと撫でた。

 頭に触れると彼は痛がりながら、低く呻いた。

「ごめん、晶、さん……あいつを、止め、きれなか、った……」

「弱いくせに、生意気なこと言わない」

「だって、あいつ……無理やり、あの人にキス、したり……胸を掴んだりしたから、止めようとして、でも、全然できなくて……晶さんや、あいつが入ってきたら、助かったけど、もし、あのまま……」

「大丈夫、鈴はああ見えて強い人間になっているから、大丈夫」

 予想していたとはいえ、その事を実際に聞くと、あの男そんなことまで鈴にしていたのかと怒りが沸いてくる。

 でもよかった。

 もし、ちょうどそうしていた時にあいつが入ってきてたら、殺人事件の現場に変わっていたかもしれない。

「俺、何もできなかった……、牡丹姉ちゃんのことも」

「そんなことはない」

 とりえず、その体を張って、あいつが殺人者、私が傷害罪で訴えられるところを止めたんだから。

 膝の上で、涙を溜めた目、鼻血を止めるために鼻ティッシュをしている情けない顔。

「バカ……」

 膝に頭を乗せたまま、ぎゅっと抱きしめた。

 こんな情けない男の子のままでは、牡丹に申し訳ない。

 一貫が少し落ち着いたと思ったので体を外して、おでこを指で弾じく。

 彼は「痛てっ」と言って顔をしかめた。

「とりあえず、今日は一貫のくせして、ちゃんと言ったとおりのことはできたし、合格あげる」

「……」

「どうした? 褒めてあげてるのに」

「……いや、俺、もう、死ぬのかなって」

「なにそれ」

「ありえないことが起こったから」

「え?」

「いや、なんでもない……」

「はっきり言いなさい」

「いや、でも怒るし」

「怒らない」

 あえて笑顔を作る。

「褒められたこと?」

 彼は首を振る。

 そして、目をキョロキョロ挙動不審になりながら口を開く。

「その、顔が挟まれた」

「挟まれた?」

「うん、天国みたいな匂いだった」

「匂い?」

 脳内で巻き戻しが始まる。

 にこにこ。

 褒める。

 デコピン。

 抱きしめる。

 膝の上に乗せる。

 手を握る。

 ……あ。

「こぉのっ……」

 私は急に膝の角度を急にするとともに、それを横に回転させる。すると一貫の頭が重力に引かれるように勢いよく地面に落ちて鈍い音が響いた。

 顔が熱い。

 しまった。

 つい、子供のころに膝枕していた時といっしょで、何も考えずにぎゅっとしてしまった。

「まさか、あんた」

 プールサイドで同じようなことがあったことを思い出す。

「いや、その……」

 彼は股間を隠すようにくの字になっていた。

 一貫の癖して生意気な。 

 私で欲情するなんて、百年……いや十年早い。



 ■■■■■■


 今日は早めに仕事を切り上げて与助君のアパートにいった。

「今日はありがとう」

 私は彼の腕にすがった。

「俺は何も言えなかった、大したこと言い返せなかった、ごめん」

 何も言ってくれなかったから、手を握っていてくれたから、しっかり言えた。

 今まで何度も失敗した、彼の、あの快楽にさようならを言えた。

「耐えてくれた……」

「ああ」

 彼は恥ずかしそうにポリポリと顎を掻く。

「そういや、大川は思ったよりいい奴だったな」

「そうかもしれないけど、でも許さない」

「厳しいな」

「いい、晶がついているし」

 私は笑いながら言うと彼も笑った。

「でも、大川があの人を止めなかったら、与助君や晶が来なかったら、怖いことになったと思う」

 じっと彼を見る。

 隠すことはない、正直に話をしよう。

 ちゃんと伝えよう。

「あいつに無理やりキスされた」

「何っ!」

 瞬間湯沸かし器。

「あの野郎、やっぱ殴っとけばよかった」

 一瞬にして鬼の形相になる。

「私ね、やっぱり快感に弱いみたい、あの時昔を思い出して……心は、心は拒否してたけど」

 彼の表情が一瞬にして真剣になる。そして、じっと私の目を見てきた。

「でも、それよりも大切なものを思い出させてもらった、与助君が来てくれたから」

「大切な、もの?」

「うん」

「何?」

 このニブチン。

 散々、あの男を前にして言ったのに。

「教えない」

 意地悪な気持ちになった。

「そんなことより」

 そう言って、ぐっと彼に近づいた。

「一時間ぐらい歯磨きして、十回以上うがい薬でうがいして洗い流した」

 そして目を閉じてキスをせがむ。

「なにも、キスされただけで、汚れたなんて思わねえって」

「じゃ、はやく」

「なんかそう言われると、恥ずかし……」

 私は目を開けると同時に、彼の唇に飛びつくようにして軽いキスをした。

 不意の事で彼が慌ててる。

 ふふふ。

 大切なものをわからない与助君が悪いのだ。

「よし、いっぱいしよう」

「は?」

「明日、暇でしょう?」

「いや、あれ? 普通じゃないよ、鈴さん」

 なぜか怯える与助君。

「ふふふ、淫乱をなめないで頂きたい」

「あのね、もう三十手前だし、あんまり元気じゃないんだから」

 元気じゃなくてもいい。

 ただ、ぎゅっとされた時の彼の重さを感じていたい。

 今日は遅くまでじっくり重なりたい。

 そうだ、週末、土曜日は出かけもせずお昼寝をしよう。

 それから夜まで、ふたりでゴロゴロして過ごそう。

 あの日と同じように缶コーヒーを飲んで、夕食はピザでも頼んで、ビールを買い込んで、冷蔵庫でギンギンに冷やして、それを飲んで、シャワーを浴びて、手を握って……それだけでいい。

 十分。

 ありがとう。

 私を好きになってくれて。  

 与助君。

 ほんとうに……。


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