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缶コーヒーからはじめよう。  作者: 崎ちよ
第4章  俺が知らない君
15/25

第15話 「もうそれはしょうがない」

 ●●●●●●


 伊原少尉から鈴が貧血で倒れそうになったことを聞いた。

 ――大川少尉とかいう男にからまれた後に貧血を起こして……。

 と彼女は言う。

 ……。

 あの童貞男。

 なーんで私の言い付けを守らずに勝手なことしてんのよ。

 あ、もしかして、もしかして鈴に気があるんじゃ。

 確かに年上好きっぽいとことあるけど、あの子Mだからどっちかっていうと鈴とかそっち好みじゃないと思うけど。

 いずれにせよ。あの馬鹿……一貫の癖して生意気な……。

 腹の虫が治まらないとはこういうことを言うんだろう。

 私はどうしてもあの子を怒鳴りつけないと気が済まない。だから、すぐに将校室から携帯を握って出て更衣室に向かった。

 五回も着信音が鳴った後に一貫が出た。

『もしもし……』

「出るのが遅い、何様?」

『ご、ごめんなさい』

「あ?」

『申し訳ございません』

「よろしい」

『あ、晶姉ちゃん、何?』

「晶姉ちゃん?」

『晶さんです、すみません』

「よろしい」

『で、その』

「鈴に何言った?」

『な、なんで、その事を』

「あんたね、もうひとり鈴以外の人間がいなかった? あなたの目は節穴? いたでしょう、そこに」

『背の高い女性……がいました』

「ばーか、筒抜けに決まってるじゃない」

『はい』

「で、何言った」

『いや、特に』

「怒らないから」

『あ、その、いきなり出会い頭だったんで、緊張して、何を言っていいかわからないから、その、すみませんでしたって』

「それだけ?」

『ちょっと言い訳チックなことを』

「どんな」

『襲った奴が、そもそも誘われたからやっちゃったし、その本当はいい奴で、もう反省しているとか、そういうことを……』

「あなた、馬鹿でしょ! だいたい、そんな言い訳ごちゃごちゃ言って! 襲われた方の身になってみなさいよ……あのねデリケートなのデリケート、恐怖で貧血とかしちゃうかもしれない! 馬鹿! 変態!」

『お、怒らないって』

「やかましい!」

『す、すみません』

 私はため息をついた。

「あのね、謝りたいという気持ちはわかってる、反省してるもんね……でもそれはあなたの自己満足、傷つけられた方はあなたを見るだけで、その事を思い出して怖くなるもの……まったく、そういうところは童貞だからよくわかんないと思うけど」

『童貞は関係ないよ』

「口答えするな」

『はい、すみません』

「以上、切るね」

『晶さん』

「なーに?」

『真田さん、なんかあったんですか』

「教えてやんない」

『う……』

「じゃ、お仕事がんばって」

『はい』

 通話終わり。

 なんだろう。

 原因は一貫じゃない。

 そういう気がする。

 しばらく携帯の画面を見て考えていると、ガチャリと音を立てて更衣室の扉が開いた。

 扉の目の前に置いてある衝立の向こうから鈴の顔だ見えた。

「……晶、どうしたの?」

 少し顔色の悪い鈴。

「大丈夫? あ、今、ちょうどあの一貫(バカ)に電話で説教を」

「バカ?」

「海軍の大川少尉」

「ああ、あの子ね」

 少し目を伏せて笑う鈴。

 いつもに比べ大分元気がない。

「ねえ、今日はもうここでゆったりしてた方が」

 彼女は椅子に腰掛けてうなずく。

「ごめんね、バカが迷惑かけたみたいで」

「別にー……なんか謝ってきたから無視しちゃった」

「あ、そう」

「こっちもごめんね、あの子、大切な幼馴染の弟なんでしょ?」

 以前、私と一貫、それからもう今は亡くなった彼の姉の牡丹や伊藤さんの関係について話をしていた。

「晶の知り合いだってわかってるんだけど、まだ許せないから、気を使わせてごめんね」

「気を使うとか……バカの自業自得だから、もっと苦しんでもらった方がいい」

「晶厳しいー」

「甘やかすだけが面倒をみることじゃないからね」

 鈴は少しだけ笑った。

「……ねえ、基地で何があった?」

 一貫が原因じゃないと思ったから、そう聞いた。

 鈴は、少しだけ床を見つめる。そして顔を上げて私の目を見てから口を開いた。

「山岡少佐に会った」

 私は固まった。

 私の統合士官学校での先輩、そして私が紹介して鈴が付き合うことになった元彼氏。

 彼女を散々狂わせ、妊娠させて、そして捨てた人。

 私は声が出せずに呆然とする。

「全然変わってなかった」

 棒読み。

「あの高圧的な態度、感情の入ってない言葉」

「鈴、何か変なこと……」

「何も」

「……」

「ただ、目があっただけ」

「……そう」

「ただ、この前、電話があった」

 まさか、また鈴に手を出そうとか……。

「また、鈴に……」

「そう、『しばらく、金沢基地にいる。欲しくなったら連絡しろ』とか言ってきた」

「何それ……」

「たぶん、与助君がいなかったら……私、彼のところに行っていたかもしれない」

「鈴……」

 彼女は俯いて両手をおでこに当てた。

「うん、わかってる……与助君がいるから、そんなことは絶対にしない、でも、ついこの間まで、求めていたものだったから、たぶんそうなるだろうって」

「無視した方がいい……着信拒否とかもうしてると思うけど」

 私は彼女の肩に手を置いた。

 少し震えているのを感じる。

「ねえ、わかってるのに、それなのに、体が反応しちゃった……ほんと、バカなのかな私……なんか、与助君を裏切ってるみたいですごく自分が嫌で……」

 彼女が言い終わる前に私は背中から彼女を抱きしめる。

「大丈夫、そんなことはない裏切るとかそういうもんじゃ」

「でも……」

「ごめん、経験無いから、つい反応しちゃうとか、そんなに気持ちいいとかそういうのわかんないから、鈴の悩みに親身になれないけど……でも、鈴の気持ちは、綾部軍曹に対する気持ちは裏切ってないよ、それだけはわかる」

 二十七歳なんだけどまだしたことがない私。

 こういう恋愛相談にはいつも限界を感じる。

 ただ、彼女を抱きしめることしかできない。

 ちょっと恥ずかしい無力感。

「ありがとう、晶」

 ありがとうと言ってくれる。

「ううん、私に相談してくれてありがとう、少しでも気が楽になれば……もう、あんな人のことなんか忘れて、もし金沢にいるとしても無視すればいい、だって綾部軍曹もそばにいるんだし」

 鈴は抱きしめている私の手の上に、そのひんやりした手の平を乗せた。

「あのね、さようならを言ってないんだ」

「さようなら?」

「突然、あの人は消えたから」

 彼女はぎゅっと私の手を掴んだ。

 しばらく、私たちは目を瞑って抱きしめたまま、お互いの心臓の音を聞いた。

 遠くで、男達が怒鳴り合う声が聞こえる。

 男どもは毎日あんなに騒いで何が楽しいんだろうか。

 何分経っただろうか。

 彼女が口を開いた。

「ありがとう、大丈夫、これで向き合える」

「鈴?」

「晶に勇気もらった、大丈夫……これで終わらせるから」

 彼女は私が抱きしめていた腕をゆっくり解いて、そして椅子から立ち上がる。そして、くるっと回転してこっちを向いた。

「ねえ、この事は与助君には言わないで……これは私とあの人の問題だから、私がちゃんと清算したいから」

「でも……ひとりで……」

「晶がいてくれるし」

 もし、私が男だったら落とされると思うような台詞をさらりと言う。

「ねえ、あの大川少尉に連絡できる?」

「う、うん」

 彼女はさっきまでとは違って少し朱がさすぐらい顔色が良くなっている。

「明後日、基地に行く時にあの人を連れて来てって……ごめんね、電話かかってきたから、電話番号はわかるんだけど、なんか面と向かって話さないと、あの人言葉ではぐらかすから、危ないことになりそうで……」

「あの子、あの人のこと知ってるかな?」

「知らないなら調べてアポを取れって言って」

「厳しいなあ、鈴」

「それぐらいの誠意を見せてもらってもいい身分でしょ」

「そうね、そうしたらあの子許してあげるの?」

「それとこれは別」

「あー、かわいそう」

「しょうがない」

「そうね、しょうがない」

「ねえ晶」

「なに?」

「ありがとう」

「うん」

 彼女の目は部屋に入ってきたときとは全然違うぐらいに力強いものだった。

 うん、大丈夫。

 きっとうまくいく。

 私は彼女の目を見てそう思った。


 ■■■■■■


 約束の日。

 あの人と向き合う日。

 さすがに基地の中では、手をあげるとかそういうことをしてくる危険はないと思った。

 だから、この日のこの場所にした。

 その日はいつもの水泳訓練だった。

 学生たちは百メートル以上泳げる者が黒い水泳帽、五十メートル以上が白帽子、五十メートル未満が黄色帽子組に別れて訓練をしている。

 私や晶、他の小隊長や下士官はプールサイドに立って、泳ぎの指導をしていた。

 まあ、若い。

 目の前の水着の女の子たちを見るとそう思う。

 高校生達は肌のはり、つやが違う。

 男子学生たちの視線が私の胸や下半身に突き刺さるのを感じるが、よっぽどあなた達の同級生の女子を見たほうがいいと教えてやりたい。

 思春期の彼らはすべすべしたお肌よりもおっぱいなのかもしれない。

 私はたいしたことはないが、ボンっの晶なんかはきっと彼らのおかずにされているんじゃないかと思う。

 そういう軽口を晶に言うと、顔を真っ赤にして嫌がるから、ほんとかわいい。

 しょうがないじゃない。

 閉鎖空間、しかもお年頃の男の子たちなんだから。

 少しはそういう材料も与えてやらないと、逆に不健康だと思う。

 そういうことを考えながら水に浸かる。

 一応教官。

 ちゃんと仕事をしないといけない。

 私は気になる子がいるので、水に入ってそこに近づいた。

 黄色い帽子――泳げない、ひよこさんチーム――を被った女の子。

 その帽子の下には綺麗なブロンドの生え際が見えている、ロシアからの留学生のサーシャ=ゲイデン。

 彼女はロシア帝国貴族、軍人家系で厳しく育てられているためか、すごく高飛車で負けず嫌い。

 今はこうして素直に教官の指導を受けてがんばっているけれど、そもそも最初の五月ぐらいの素養試験でまったく泳げないのに『泳げる』宣言をして、見事に溺れたのだ。

 むきになって失敗して、溺れてパニックになって。

 晶がすぐに飛び込んで助けたから大丈夫だったけど、プールだって事故はバカにできない。

 晶は「溺れるということをバカにするな、下手をすれば助けに入った人間も溺れる……あなたの必要のないプライドで危険を犯すのは間違いでしかない」と言って厳しく叱っていた。

 サーシャの気持ちもわかる。

 ゲイデン家は海軍の家系、兄は海軍のエリート。

 それに比べ陸軍のサーシャは落ちこぼれ扱いされ、ずっとプレッシャーを与えられていると聞いている。

 そうは言っても、容姿端麗頭脳明晰。

 泳ぎと軽歩とかいう機械の操縦を抜かせばなんでもできる才女なんだけど。

 私たち凡人に比べればね。

 そういうプライドとプレッシャーの塊だった彼女に対して、溺れたその日の夜に、晶は優しく「素直になっていい、同級生を頼ってもいい」と言い聞かせたところ、少しは同級生と溶け込んで、水泳の時は素直になっているらしい。

「ほんと、人に言うのは簡単なんだけど、自分のこととなると難しいんだよねー」

 と、晶は恥ずかしそうに言っていた。

 確かに、それはちょうど私たちが微妙な喧嘩をしている時期と重なっていた。

 私はサーシャに近づくと、彼女はじっと私を見る。

「どうですか?」

 発音が日本人とほぼ同じすごく流暢だ。

 そのロシア美少女の顔から発せられていると思うと、そのギャップがより激しく感じる。

「日ごろの練習のお陰かしらー、すごくきれいなフォームになってるよー」

 私は笑顔で答えた。

「友達が空いている時間に教えてくれたから」

 少し目を逸らし、頬を上気させて彼女はつぶやくように言った。

 かっわいいいい!

「でも、息継ぎがまだあまり……」

「しょうがないよ、怖いもんね」

「……怖くは」

 私は首をふった。

「怖くていいの……一回おぼれちゃったし、ほら鼻とか口に水が入るの、嫌でしょ」

 こくんと頷く。

「頭ではわかっていても体が反応しちゃうんだと思う、もうそれはしょうがない……怖いのも受け入れて、慣れるしかないよ」

 しょうがないから。

 うん、しょうがないもの。

「息継ぎの時にはね少しは水が入るから、その時は手と足、それから顔を上げる動作をずっと繰り返すことばかり考える」

 彼女はうなずく。

「どうしても体がいうこと効かないときは」

「……?」

「ひとりで抱え込まずに友達とか教官とか、私とかに相談すればいい」

「……はい」

「がんばって」

 私は誰に向かっていっているんだろう。

 彼女にがんばってと言っている。

 がんばって。

 そうか。

 そうなんだ。

 水面に顔をつけて泳いでいく彼女。

 そのかわいいお尻のラインを見つめながら自然に「ありがとう」つぶやいていた。


 ■■■■■■


 十五時頃には学生を駐屯地に帰っていった。

 一部の現役達は残って訓練をしている。

 与助君は人事のお仕事があるから先に帰っていると思う。

 時間だ。

 更衣室で着替えた後、髪を整えた私は基地の待ち合わせ場所に向かおうとする。

「迎えに来ました」

 ぺこりと頭を下げるのは大川少尉。

 私は言葉を出さず頷く。

 晶がしっかり言いつけたようで、アポをとれたようだ。

 私は彼の後ろを歩いた。

 ――頭ではわかっていても体が反応しちゃうんだと思う、もうそれはしょうがない……怖いのも受け入れて、慣れるしかないよ。

 サーシャに言った言葉を思い出す。

 ――がんばって。

 そうだ。

 ――がんばって。

 しっかり、さよならを言おう。

 プールの施設内にある個室、そこのドアを彼が開ける。

 その部屋の窓際に立っている男に目が行く。

 海軍の白い制服。

 金色の階級賞は少佐。

「久しぶりだな鈴」

 彼は淡々とあまり抑揚のない口調でしゃべった。

 この声、この抑揚……聞くだけでぞくぞくする。

 あの抑揚の無い声で、酷く汚い言葉を発する口。

 体が少し反応したのがわかってしまった。

 ――しょうがない、それはしょうがない、快楽に嵌ってしまっていたことはしょうがない、隠すな、受け入れろ……。

「欲しくなったのか?」

「……」

「こんな、まわりくどいことをせずに電話でよかったものを」

 私は、高鳴る心臓のまま大きく息を吸った。

 できるだけ大きな声ではっきりと言おう。

「さようならを言いにきた」

 自分の声とわかっていながら、思ったよりも部屋に響き渡る声だった。

 だが、彼は無表情のまま鼻で笑った。

「無理だな」

 私の胸を刺すような声。

「無理じゃない」

「僕を知った君がさよならを言えるはずがない」

 彼は、音も立てずに私に近づいてきた。

 私はとっさに壁に寄りかかる。すると、彼は無言で左手を壁について私に覆いかぶさるようにした。

「君のすべてを知っているのは僕だ」

「だから、何」

「どうすればいいかも知っている」

 彼はぐっと顔を近づけてくる。

「……離れなさ……」

 基地の中だということに油断していたのかもしれない。

 彼の右手が私の首を掴んだと思うと、唇を塞がれた。そして無理やり唇をこじ開けようとする。私はとっさに彼を押しのけようと腕に力を入れるがびくとも体が動かない。

「……っ」

 声を上げようにも、息さえもできない状態。

 私は足を振り上げて彼の股間を蹴り上げようとするが、軽く足でガードされる。

「こういうのも好きだったろう」

 彼は唇を外し、何事もなかったようにしゃべった。

「馬鹿にするな!」

 頭に血が上り大声を上げた。

 汚された。

 与助君にあげた私の唇を汚された。

 そして、熱くなった下腹部に対して、そんな自分自身にも怒りが増す。

 ――頭ではわかっていても体が反応しちゃうんだと思う、もうそれはしょうがない……慣れるしかないよ。

 ……落ち着け。

 落ち着きなさい。

 危なかった。

 この人は……相手を怒らせて、そして自分のペースに巻き込む。

 怒ってはだめ。

 まずはこの人から……離れないと。

 ドアが勢いよく開いて人が飛び込んでくる。

「その手を離せ!」

 その声を聞いて与助君ではないと知って、がっかりする自分が情けなくなる。

 そう、これは私とこの人の問題。

 与助君は巻き込まないって決めていたじゃない。

 声の主は山岡少佐に掴みかかる。

 私はその意外な人物に少し驚いた。

 それは大川一貫だったからだ。

 彼の伸びた手が少佐をかすめる。

 それに対して少佐の手が流れるように添えられ、きれいな弧を描くように動く。そしてそのまま、その軌跡をたどるようにして彼のの体が引っこ抜かれ、宙に浮き、痛々しく地面に叩きつけられた。

 一瞬の事だった。

「お坊ちゃん、感動的な再開を邪魔しないで欲しい」

 容赦なく彼は足を振り上げ、そして彼のお腹を容赦なく踏みつけた。

「ぶはっ、うぅ……あぅあ」

 くの字に体を折り曲げ彼は悶絶する。

 もう一度少佐は彼の腹を蹴り上げる。そして私の方に向かってきた。

「お客さんもいるが、続きを愉しむか」

 無機質なのに官能的な声。

「これが一番興奮する遊びだったのを覚えているよ」

 私は体が震えた。

 体が動かない。

 呼吸が荒くなる。

「あ、あなたとは、もう、終わった、気持ち悪い」

「いつも一応は抵抗をしていた」

「違う、遊んでいない……私は」

 呼吸を整える。

 言え。

 勇気を持って。

 私はじっと彼の目を見た。

 空虚な瞳に吸い込まれそうになるが、眉間に力を入れて踏ん張る。

 そして、はっきりした声で言った。

「愛している人がいるから」

 言えた。

 ちゃんと言えた。

 でも、彼はすごくうれしそうな顔をして私の肩に手を置く。

 動けない私の制服の上から胸を鷲掴みにする。

 やだ。

 何回か繰り返した光景。

 私が別れようと言う度にうれしそうな顔をして、私を無理やり犯した。それが頭を()ぎる。

「や、め……ろ」

 地面から聞こえる声。

「なんだ、坊ちゃん、まだ起きているのか」

 鈍い音がする。

 彼は同じところを執拗に蹴った。

「……俺は最低な人間だがな……」

 地面から振り絞るような声が響く。

「……お前は人間ですらねえ」

「くどい」

 とうとう彼の後頭部を蹴った。

「なんだ、お前、鈴に気でもあるのか」

 鼻で笑う少佐。

「違、う……あ、あきら姉ちゃんとの約束、が」

 ――お姉ちゃん?

 そう言って少佐は声を出して笑った。

「パパにでも泣きつけ、いやお姉ちゃんの方か?」

 少佐の足を掴もうと伸ばす手、その指を踏みつけた。

 彼はその苦痛で声も出すこともできず、過呼吸のような息遣いをする。

 ひどい……私はあまりに凄惨な目の前で行われる暴力を目の当たりにして、血の気が引いてしまった。

「や、やめて、この人は、関係……関係ない」

 私は震える声で懇願した。

 懇願。

 だめだ、そんな声を私が出したらだめだ。

 ……与助君。

 与助君。

 ひとりで、ひとりでできるなんて思った自分が馬鹿だった。

 晶。

 もう、迷惑をかけたくないと思った。

 もう、傷つけたくないと思った。

 あなたからもらった勇気でなんとかなると思った。

 与助君。

 愛してる。

 でも、この人といるところを反応してしまう私を見られたくなかった。

 自分でなんとかするべきだと思った。

 ごめん。

 弱い私は、できなかった。

 でも、いくら体を汚されても、心は絶対に渡さないから。

 与助君。

 大丈夫。

 快楽なんかに負けないから。

 私は目を閉じ一生懸命与助君の事を思い出す。

 ごつごつした筋肉。

 少し汗臭い体。

 いたずら小僧みたいな顔。

 果てた時の可愛い顔。

 ひとつひとつ頭に浮かべる。

 ……与助君。

「ごめん」

 頭の中で与助君の声が聞こえた。

 謝るのは私。

 そう答えた。

 だって、与助君はここにはいない。

「ごめんな、遅くなった」

 はっきりと声が聞こえた。

 ぐっと引き寄せられる体。

 私の大好きな匂い。

 少し塩素の匂いが混じっているそれ。

 私は目を開けたとたん、涙があふれそうになるのを必死に堪えた。

 ああ。

 馬鹿だった。

 一瞬にして震えが止まる。

 ひとりじゃないのに。

 ひとりじゃなかったのに。

 ――よ、す、け、く、ん

 口を動かしたけれど、声にはならなかった。

 そう。

 あなたがいた。

 

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