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缶コーヒーからはじめよう。  作者: 崎ちよ
第1章  気が付けば煙草に逃げている。
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第1話 「さようなら、元気で」

 ■■■■■■


「こういう事、嫌いじゃないでしょ?」

 体の芯が熱くなった。

 さっきまでは緊張していたせいもあって、冷え固まっていたというのに……。

 そのうち、ちょっとおへそのあたりがブルッとしたあとトロリとする感覚があった。

 もうどうしようもない。

 あのスイッチが入ってしまった。

 私は座っている無精ひげの男にゆっくりと近づき、その太ももに触れた。

 そう、いつもの様に。

 いつも繰り返し、今までやってきた様に……こうやって相手を作るための処方箋。

 罪悪感はある。

 絶対に部隊の男に手を出さないと誓っていたものを簡単に放棄してしまったから。しかも、目の前の男は漢気(オトコギ)があると有名な軍曹さん。

 絶対に手を出してはいけないタイプの人。

 しょうがない。

 この男が私を脅そうとするから。

 しょうがない。

 もう、ここ以外行き場がないんだから。

 晶との約束を破る後ろめたさ。

 でも、約束を破ってでも彼女と離れるわけにはいけないから、なんとか残りたいから……という矛盾した思い。

 私は男から目を移した。

 チカチカする暗い蛍光灯と、薄暗いPCのモニターに照らされた書類や荷物で雑然とした事務室を見わたす。

「ここじゃ、最後までできないかなー」

 私はそう言うと、男の太ももに跨ったまま、その頭に胸を押し付けようとした。


 □□□□□□


「ほんと、終わった後はかわいいのにね」

 彼女は俺の股間に手を当てて笑った。

 そりゃ、そうだ。

 四六時中あんな状態だったら世の中は大変な事になる。

「ミハルさん……俺、もう元気になりませんから」

「なられたら困る」

 容赦なくそれを指先で弾く彼女。

「これが二十歳そこそこなら全然違うんですけどね」

「三十も越していない子がそういうこと言わない」

 彼女は少し拗ねた声でそう言うと俺とは反対側を向いた。

 汗ばんだ背中を俺の胸に押し付けるようにして丸まる。

 心臓の音を彼女の背中から感じた。

 少し、速い。

「あのね……来月、旦那が帰ってくる」

「……そう」

 俺は彼女の胸を触ろうとした手をゆっくりとひっこめた。

 いつもこういう態勢になると彼女の胸に手を置くのが癖になっていた。

 その汗ばんだ柔らかい肌に触れ、突起物を指で挟むと、欲情するというよりも心から安らげるからだ。

 しばらくその状態で沈黙した。

 それに耐えかねたのか彼女は「タバコ、吸っていいよ」とそのままの格好で言った。

「タバコの匂い、最低、最悪、嫌いだって……言ってたのに」

 顎の下にある彼女の頭に向かって言った。

「くさい、くさいってうるさかったのに」

 俺が続けて拗ねた口調で言う。

「うん、やっぱりダメ」

 彼女は少しうれしそうな声でそう言った。

「意味わかんねえ」

 俺は彼女から離れる。そして、大きく腕を広げ大の字になった。

 彼女は上半身を起こし、俺の股間をツンツンして弾く。

 力なく垂れたそれはいつものポジションに戻ろうとのそりのそりと動いていた。

「ほんと、面白い動きするよね、コレ」

「コレ、とか言わない」

「うちの息子のと変わらない」

「普通にショックだよそれ……そりゃね、大きさとか元々自信なんてない代物だけど」

「うそついちゃった、息子のはもっとかわいい、チンって感じ?」

 ケタケタ笑っいながら「ほら、このスローな感じのかったるい感じが、ヨスケ君そっくり」と言って、じっくり観察している。

 まるで土から間違って這い出たカブトムシの幼虫を観察しているかのように。

 俺はさすがに恥ずかしくなり、横を向いて股間を押さえるようにして隠した。

「ねえ……ヨスケ君って、どういう字、書くの? 変な名前よね」

「まあ、変な名前だけど……そうはっきり言われると」

「いいからお姉さんに教えなさい」

「わかった、えーっとね、オバサン」

 その瞬間、俺に激痛が走る。

 電気ショックっていうんだろうか。

「痛い、痛い、すね毛、痛い」

 内側のすね毛を引っ張って抜かれた。

「兵隊さんなのに、ガタイはいいけど弱いわ」

 と意地悪く彼女は言った。

「お姉さんに教えなさい」

「お姉さんに教えます」

 間髪を入れず。

 とは、こういう受け応えを言うのだろう。

 俺は天井を向いて人差し指を立て、大きく「那須の与一の」と言ってから『与』と書き、「助さん角さん」と言って『助』と書いた。

 彼女は「ふーん」と言いながら、俺の腕を胸に挟んで横になる。

「そっか、名前どおりなんだ……与助君って」

「……どうして?」

「ほら」

 彼女は俺と同じように天井を向いて指をさす。

 胸が重力に負けて平べったくなる。

「おっぱいばかり見てないで、こっち」

 と言って指を動かす。「与える」と言ってから『与』と書き、「助ける」と言って『助』と書いた。

「いや、ひねりがないなあ」

 率直な感想を言った。

「マザコンのくせに、生意気」

 彼女は勢いよく起き上がり、ベットの横に立ちあがった。

 少しふっくらしたお尻と目が合う。

 この金曜日の夜。

 彼女は仕事と偽りここにいる。

 保育園児の息子がいると言うのは聞いている。

 夜は自分の母親に『残業の多い仕事のために』面倒を見てもらっているらしい。

 彼女が家に帰り何事もなかったかのように、その息子君を抱き上げる姿を冷静になってから想像すると、なんとも言えない罪悪感を感じるとともに――本当にこういうことを考えてはいけないんだろうけど――すごく、興奮して下半身が元気になってしまう。

 そして、その都度……自分が嫌になる。

 だから少し元気になってしまった下半身を悟られないように、シーツを掛けなおし、ゆっくりと上半身を起した。そして、彼女の背中に抱きつこうとする。

 ……抱きついてから、準備していた言葉を出そうと思っていた。

 でも、彼女のほうが先に話し出してしまった。

「与助君は夢を与えてくれたし、私の心を助けてくれた」

 とても明るい声で彼女はそう言った。

「ごめん、いろいろ期待もしたけど、やっぱり若い子に面倒かけられないよね」

 まるで自分に言い聞かせているような言葉だった……部屋がとても静になった気がする。

 喉がカラカラになってしまった。

「今日でお別れしましょう」

 そんな風に、息子に言い聞かせるお母さんのような声で。

 笑顔で彼女は一方的にお別れを宣言した。

 俺はどんな顔をしたか覚えていないが、その宣言を受けてしまった。

 別々にシャワーを浴びる。

 俺がシャワールームから出てきたときには服を着た彼女がいた。

「ここでお別れしようか」

 いつもの元気な声とは違い、それはちょっと疲れているような、そして静かな声だった。

「ミハルさん……あの」

「何?」

 その後姿のまま発した返事は震えていた。

 俺は用意していた言葉を躊躇して飲み込んだ。

 そうだ、うん。

「……さようなら、元気で」

 俺はできるだけ、元気に言った。

「バイバイ」

 ミハルさんは笑顔で振り向いてそう言った。そして遠慮がちに手を振って部屋を出て行った。

 急に重力が増えたような錯覚におちいって、ぺタリと、ベットに座った。

 煙草に火をつける。

 肺の中が暖まる感覚……その溜めたものを無駄に輪っかをつくって天井に吐き出した。

 綾部与助(アヤベヨスケ)、二十九歳、独身。

 職業は軍人。

 階級は軍曹。

 結局誰からも与えてもらえない。

 結局誰からも助けてもらえない。

 そして、最後まで誰にも与えることも、助けることもできない中途半端な男。

 結局……結局、ミハルさんに、俺はいったい何を与えることができたと言うんだ。


■■■■■■


 金曜の夜から日曜にかけて、携帯のメールが忙しく鳴り出す。

 私はそういうコミュニティに入っていた。

 金沢は北陸最大の都市……軍都ということでそういう方面はお盛んだった。

 出会いを求める男女が集うコミュニティ。

 わりきり。

 不倫OK。

 そんな(たぐい)の会則。

 私はプロフィールの『職業』という欄に『軍人』とは書かず、ふつうの職業の人間を選んでいる。

 当たり前だ。

 こんなことが職場にばれたら、間違いなくクビになる。

 本当は真田鈴(サナダスズ)という名前、帝国陸軍中尉という階級、陸軍少年学校教官兼独立歩兵第九大隊第一中隊騎兵小隊長という長ったらしい肩書きがある。

 まあ、こんな会で正直に名乗る人なんているはずはないが……。

 いたら、さすがの私でもどんだけ無防備なんだと注意したくなるようなおバカさんだろう。

 プロフィールには事務系OL、五十鈴真耶(イスズマヤ)と名乗っていた。

 補助金を男性から女性に渡す。

 いってみれば援助交際なんだろう。

 好きでやってるから交渉の段階で金額は少なく設定することが決まっている。

 ほんのお小遣い程度という建前だ。

 そういうわけでお金は貰っている。

 もちろんお金欲しさではない。

 私はわりきってくれる相手としたいだけだから。

 今まで『してきた』男達から得た経験。

 安全なのはそういう人々との関係だった。

 もちろん危ないのが『当たる』時もあるが、お金を挟まない方がよっぽど危険だというのは、私の経験値が証明していた。

 相手がわりきらずやってしまうと、面倒くさいことになったことがある。

 体が目当てなのに、心を欲しがる男はごめんだ。

 ここの部隊に来る前……前の部隊では私に狂ってしまった若い子が数人暴走してしまった。そして大騒ぎになって調べられ――いわゆる部隊内における不特定多数の男性との性行為――が問題になり、今の半分学校で半分部隊であるここに飛ばされた。

 まあ、そこの隊長と不倫していたということはバレなかったが、処分しなかったのはあのひとの保身とかそういうのもあったと思う。

 馬鹿みたい。

 うん、本当にクズだと思う。

 親友の(あきら)はそんなことも知ってて「ほどほどに」と言う。

 彼女はするなとは言わない。

 できないと知っているから。

 それでも……。

 やめなきゃいけないと思う。

 でも、週末になると……独りになると発狂しそうになる。

 激しい寂しさと欲情に襲われる。

 何もしないと、胃の中身を液体になるまで吐き出す。

 狂ったようにおもちゃで自慰をしようとしてもオーガズムはやってこない。

 痛いだけ。

 苦しいだけ。

 そう……セックスじゃないとだめなのだ。 

 ただ単に快楽を求める訳ではない。

 自慰なんてなんの慰めにもならない。

 人の温かい部分を自分の中に入れて夜を過ごさないと、本当に狂いそうになるのだ。

 だから抱かれる。

 だれでもいい。

 ひどいことをせずに、気持ちよく包んでくれるひとならだれでも。

 そして、できればその日だけで忘れてくれる人が。

 だから、このコミュニティは気に入っていた。

 今日の相手は既婚者で四十くらいの会社員らしい。

 そんな男と待ち合わせをして、犀川沿いの料亭で少し高そうなご飯、少しのお酒を飲み、そしてそれをするためだけのホテルに向かう。

 まだ、ベットに入るまではわからない。

 いきなり豹変する変態もいるが、私のカンは『当たり』と言っている。

 少し恋人気分を味わいたいという彼、まだ肌寒い五月の金沢はぴったりと体を寄せ会うにはちょうどいい気候。

 私は彼の腕にぶら下がるようにして体を寄せ、ホテルに向かい歩いていた。「どこがいい?」と相談しながらホテル街を歩き、そして決めたところの入り口の前に差し掛かった。

 その時、遠くで車の急ブレーキの音がしたので何気なく振り向いて……後悔した。

 私は間違いなく、強張った顔だったと思う。

 知り合い……職場の人間と目が合ったからだ。

 綾部軍曹。

 いつもだらしのない格好、無精ひげの目立つ、遊撃課程も出て武闘派なのに中隊の人事係をして、慣れていないのかPCのキーボードもブラインドタッチができないような人。

 たぶんひとつかふたつほど年上だったと思う。

 その彼が目が合った。

 彼はその瞬間いつものように軽薄な笑顔を浮かべていた。

 私は背中に冷たい汗が伝わるのを感じた。

 ……でも、なぜだろう。

 馬鹿だと思うけど。

 少し安心した。

 誰かに見つかったことに。

 少し興奮した。

 なんて思われたんだろう。

 そう思いながらホテルに入っていった。

 その日の相手は予想通りだった。

 つまり、とても丁寧で優しい人だった。

 当たり。

 でも物足りない。

 本当の当たりは優しく私を(もてあそ)ぶ様な人。

 節度があるけど、いろんな快感を与えるような人。

 それでも、当たりであっても……あの人に比べれば全然だめなんだけど。

 だから私は気持ちいいふりをして、そして乱れるふりをした。

 理由は物足りないだけじゃない。

 ……不安だったから。

 あの綾部軍曹は人事係だ。そして、中隊の人事係というものは、そこに所属する全員の個人情報を握っている。

 建前では下士官である彼が将校の私の個人情報を握ることはない。

 将校は中隊長が握ることになっているが慣習的にどこの部隊もこの下士官の人事係がすべてを知っているのが普通なのだ。

 つまり私の前の部隊での事情も、今の部隊にいるための『条件』も知っている。

 ……どうしてこんな時間に独りでラブホ街を歩いているのか。そして、あの笑顔……もしかして、私のことを調べていたのか?

 私がそうやって不安になっていたら、相手の彼は果てていた。

 私はいったふりをして……いつも言っている言葉をつぶやいた。

 その瞬間だけ不安なことは消える。

 たとえ、ふりだったとしても、なんか高揚するものがあるから。

 絶頂イコール満足という訳ではない。もちろんあるに越したことはないけれど……。

 そそくさと行為の後始末をする男を見るのは面白い。

 すごく可愛らしい。

 私は彼にもたれかかり、甘える声で囁く。

 彼は私を抱き寄せ、満足そうにしばらく目を閉じていた。

 こうしている時、こうしている間は、人の温かさを感じることであの不安が消える。

 目を閉じる。

 彼の汗の匂いを感じる。そして、今日もこれで狂わずにすむ。

 そう安堵のため息をついた。



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