バクスターの悪霊
◆ハンブルグ侯爵領 ヴァイマール◆
バクスター家が治めるハンブルグ侯爵領は帝都東部に位置する領地であり、領主が住むヴァイマールは商業で栄える都市である。保有する戦力もかなりの数であり、戦争においては当然、主力となる存在だった。
しかし結局は一兵も派遣せずに戦争は終結。今では裏切り者の烙印を押される寸前のところまで追い詰められていた。
「私は父上も母上も信用出来ない。兵を送っていればこの様な事態にはならなかったはずだっ!」
領主軍の駐屯地――――その指揮官を任されるエルザは苛立ちを隠そうともせず、声を荒げて目の前の副官にそう告げた。
「今さら悔やんでも遅いと思いますが。問題はこれからのことです」
「言われなくても分かっている。だがその原因を探るのも必要なはずだ。五大貴族の一員でありながらその義務を放棄したのだ。相応の理由でなければ取り潰されるぞっ!」
怒りながらも正当な意見を述べるエルザに、副官はどうしたものかと考えを巡らせた。
「御当主様に直接聞くのが一番なのでは?」
「今や私でも屋敷に入れないのだぞ? どうやって聞けというのだ」
王国軍の侵攻が始まって以降、エルザは自分の屋敷に帰っていなかった。実家に帰る度に何かと理由をつけて追い返されるのである。
「お前はおかしいと思わないのか? どう考えてもこれは異常だろう。もはや手段を選んでいる場合では無いのかもしれない。帝都に状況を説明して軍の派遣を要請した方が良いかもしれない」
「それだけはなりません。そんなことになれば家名に傷が付きます」
その案を慌てて否定する副官だったが、その言葉を聞いたエルザはさらに機嫌を悪化させた。
「これ以上、傷を広げるわけにはいかない。そもそも傷ならすでに付いているだろう」
「ですが軍の要請は性急過ぎると思います。ですからまずは私が屋敷に赴いてみます」
昔からバクスター家に仕えてきた副官の言葉を聞いて、エルザは少し考えてから許可を出した。確かに実家の問題に対して軍を要請するなど印象が悪すぎる。最悪の場合、そんな問題も解決できないバクスター家などもはや五大貴族として妥当では無いと判断されることすらあり得るのだ。
「頼む。最悪、理由は聞き出せなくても良いから私が会えるよう取り計らってくれ」
実の娘である自分が会えない状況でどこまで事態が改善されるか疑問を感じるエルザだったが、とにかく副官に任せて様子を見ることにしたのだった。
「失礼します」
翌日、バクスター家の屋敷を訪れた副官は執務室でエルザの両親と面会した。
「それで何の用かな?」
笑みを湛えながら用件を尋ねる当主。だがそんな彼を見て、長い付き合いの副官はすぐに違和感を覚えた。それは夫人を見ても同じだった。
「どうしたのです? 用件は?」
夫人の姿は明らかにおかしかった。彼女は露出するようなドレスは嫌いであり、一度もその様な姿を見たことは無かった。だが今の彼女は完全に目の毒と言って間違いないドレスを着用しており、言い方を変えれば高級娼婦に近い感じがした。
「……どうしてエルザ様の面会を断るのです? 実の娘にお会いにならない理由を教えて頂きたい」
何かが違う。それを感じ取った副官は緊張しながら言葉を紡いだ。そしてその返答を聞いた瞬間、彼は異常事態が起こっている事を痛感した。
「何を言っている。娘なら妻の隣にいるだろう」
「なっ……何を言っているのですか」
夫人の横に立っていたのは明らかにメイドであり、娘のエルザとは似ても似つかない存在であった。それを娘と間違えるなど絶対にあり得ない。だが二人はそのメイドを娘と言い切ったのである。
(一体何が起きている? こいつが娘だと? そんな馬鹿な話があってたまるか)
笑顔を浮かべながらその場で静かに佇む一人のメイド。その顔を凝視しながらそんな事を考えていた副官だったが、すぐにもう一つの事実に気付いて声を荒げた。
「貴様は一体何者だっ! お前の様なメイドは一度も見たことが無いぞっ!」
バクスター家にいた人物では無い。それに気付いた副官が剣に手を掛けると、そのメイドは落胆した様な表情を浮かべて言葉を発した。
「残念です。ここまでは上出来だったのに、ここで見破られてしまうとは。まだまだ改良の余地がありそうですね」
柔らかな口調でそう告げたメイドは、両手でスカートを軽く持ち上げると流れる様な動きで頭を下げて名前を告げた。
「私はアングラ・マインユ様に仕える悪霊の一人べリアルと申します。今回は実験のためにこの場所をお借りしました。お陰で多くのことを得ることが出来ましたので、本当に感謝しております」
再度深々と頭を下げたメイド――――べリアルは頭を上げると、美しい笑顔で副官を見つめながら優しげな声で最後にこう告げた。
「ではここで死んで下さいね」
それが副官がこの世で最後に聞いた言葉だった。彼は何が起きたのか気付かないまま、あの世へと旅立って行ったのだった。
「……一体……何だこれは」
副官が屋敷に向かってから三日後、帰りが遅いことを心配したエルザは、領主軍の中でも信頼出来る人間を集めて自分の屋敷へと突入した。そしてそこで見たものに衝撃を受けたのだった。
「……酷い……何が起きたというのだ」
その光景に耐えられず多くの騎士が屋敷を飛び出して外で朝食を吐き出す中、エルザだけは懸命に両親を探していた。だが彼女は執務室で二人を見つけた時に全てを察したのだった。もはや遅すぎたのだと。
「こいつらを連れ出せ。もはやこの二人に領主は務まらない。連行して牢にぶち込めっ!」
血塗れの両親と、そこに倒れる変わり果てた副官を見て怒りが頂点に達したエルザは、怒鳴り声を上げながら騎士たちに命令を下した。
「一体なにが起きたのでしょうか? 全て当主様の凶行なのでしょうか」
「……私は関わらない方が良い。これは実家の不祥事だ。帝都に調査隊を派遣してくれるように要請を出す。調査隊が到着するまでここは封鎖する。騎士の人選を頼む」
力の無い声で指示を出したエルザだったが、彼女は選択を間違えることは無かった。この様な事態で身内が調査すれば、それはあらぬ疑いを領民に抱かせかねない。ただでさえ致命的な事態を引き起こしたのだ。そこにそんな疑いまで掛かれば、もはや領主としては終わりである。
「分かりました。屋敷を封鎖して調査隊の到着を待ちます」
「ありがとう。それと私もしばらく牢に籠る。ちょっと考えたい。とりあえず領主軍でこの街を仕切って頂戴。調査隊が到着したら彼らの指示に従って。話は以上」
この惨状に頭が追い付かないエルザは、当面の指示を与えると重い足を引きずりながらその場から立ち去って行った。残された騎士たちは、迷うことなく彼女の指示通りに動き屋敷を封鎖したのだった。
それから五日後、リヒャルダ率いる調査隊が到着するとすぐに屋敷内の捜索が行われた。そこから発見されたのは王国とのやり取りを記した手紙の束であり、その内容は戦争に関する密約が殆どであった。
「王国との間に密約があった事は分かったが、この惨状は理解出来ない。一体なにが起きた?」
屋敷内を見て回るリヒャルダは、その惨状を眺めながら思考に耽っていた。
「とても私には人間の仕業とは思えませんが」
調査に当たる近衛騎士の言葉に、リヒャルダもすぐに同意の言葉を返した。惨劇を生き残った何人かは完全に精神を病んでいた。しかしそれが惨劇を目撃したからでは無いことはすぐに分かった。
「そうだな。私もこれが人間に出来るとは思えないよ。人間だとすれば……」
そこで言葉を濁したリヒャルダは、もう一度惨状に目をやってから声を発した。
「完全に狂っている。頭のネジが飛んでいる異常者だ。それだけは間違いない。私がそう断言するわ」
尋問官として犯罪者を尋問してきたリヒャルダには分かる。この様な所業は異常な人間でしか成し得ない行為だと。そしてここまで出来る人間は殆どいないと。
「とにかく私は娘のエルザに会って来る。お前たちは捜索を続けろ。それと手紙の中に娘の名前が無いか念入りに調べろ。名前があれば同罪だ。もっともあの娘が裏切りに加担するとは思えんがな」
エルザが正義感溢れる人間である事を知っているリヒャルダは、最後にそう付け加えて屋敷をあとにして彼女が籠る牢へと向かって行ったのだった。
「実験の方はどうだったの?」
果物を入れたカゴを持ちながら通りを歩くべリアル。その姿はまさにメイドそのものであり、誰も彼女が悪霊だとは気付かない。むしろ美しい容姿によって多くの人間の目を惹いていた。
そんな彼女に声を掛けたのは、美人だが勝気な顔をした二本の剣を腰に吊るす女性騎士だった。彼女は肩に掛かる白銀の髪を払いながら普通の会話をするように状況を尋ねた。
「まさかバエル様の守護騎士であるイブリス様が迎えに来て下さるとは。感激でございます」
白銀髪の女性騎士――――イブリスの姿を見たべリアルは通りを歩く誰もが見惚れる動作で頭を下げた。
「まぁ命令だから仕方なくね。それで実験はどうだったの?」
「お陰さまで殆どが成功しましたが完璧ではありません。まだ実験は必要です」
「そう。ならその実験は次の場所で行って。帝国での遊びは終わりよ。貴女は仕事に取り掛かって」
「そうですか。では続きはその場所で行うことにいたします。場所はどちらでしょうか」
品行方正な態度で言葉を紡ぐべリアルだが、その正体を知っているイブリスは思わず苦笑いを浮かべていた。その美しい外見からは想像も出来ないが、彼女は平然と嘘をつき騙して人を悪事へと誘う悪霊であり、その甘い言葉と魔法によってかつての創世戦争では国すら崩壊させた事があるのだ。
「大陸中央部のローランド王国よ。そこの王太子に接触して頂戴。もうすぐ国王が死ぬから」
「死ぬのですか? 殺すのではなくて?」
人の生死をまるで明日の天気を語るかのように話す二人は、そのまま人ごみにの中に消えて行った。そしてヴァイマールの街から姿を消したのだった。
それはエイミーたちが帝都に凱旋する一週間前の出来事だった。




