3
「よし。凛もちゃんと結んだか?」
「うん、できたよ。あんちゃん」
電車を降りてすぐの所に、笹はあった。
それは、『初鷲駅』にあった例の笹氏や、さっきまで電車から降りていた年配の方々のように、満身創痍ではなかった。枯れかけてもいない。
青々しくて、ごく普通で。けれど、僕や凛にとっては特別な笹だ。
「凛。膝、痛まないのか? 背伸びしてたけれど……」
彼女と連れだって笹から離れつつ、僕が尋ねるのを、
「うん。平気。小さいケガだし、なんともないよ」
凛は笑って返す。
……短冊をつける時、高いところにつける、と言い張って、思いきり背伸びして、顔を歪めていたのに。気づかって、凛の短冊も一緒にかけてやろうか、と提案したのだけれど、彼女は自分でやると言って聞かなかった。
「それならいいか」
僕は頷いて、手近にあった階段に足をかける。この駅の唯一の改札がある下りホームへ向かうためだ。電車に乗るにも、ここからどこかへ行くにも、まずは向こうに行かなければならない。
と、ここで僕はふと思ったことを口にする。
「凛。お前って、この辺りに住んでるのか?」
「……」
けれど、反応がない。
まるで、スイッチを切ったロボットのように。
僕は振り返って、再度尋ねる。
「……凛?」
「……え、あ、うん。凛の家は……あるよ。この辺に」
珍しく歯切れの悪い調子だ。顔色もどこか良くない気がする。
どうしたのだろう。
「やっぱり、膝が……?」
「う、ううん。それは大丈夫だよ。気にしないで」
「そうか?……まあ、痛かったら言えよ」
「うん」
凛が頷くのを見て、僕はひとまず安心して、階段を上る。一段一段。踏みしめるように。
他の乗客は、短冊を結んでいた僕たちを置いて、既に向こうの改札をぞろぞろと通り抜けている。周囲は閑散としていて、後ろからついてくる凛のパタパタという足音が、寂しげに聞こえた。
僕は手すりを掴んで上りつつ、後ろを向く。
と、すぐそこに凛がいて、彼女は後ろ手に手を組み、上目遣いで、
「あんちゃん、しばらくここにいるの?」
クリッと可愛らしく首を傾げる。
「うーん、そうだな」
足音の違和感は気のせいだったのかな、と考え直しつつ前を向く。
「せっかく家出っていう名目でここまで来たんだし、少し散歩しようと思う」
「現金だね、あんちゃん」
「普通の思考だって」
「ふーん。でも、その後は――」
「――帰るんだよね、あんちゃんの家に」
少女の切なげな声と共に、階下から柔らかな潮風が吹く。
羽衣の裾が風につられて、ゆらゆらと揺れるのを感じる。
「……」
「……」
僕らは立ち止まり、沈黙に身を委ねる。
特に意味があるわけでもない。ただの、一瞬の空白。だから、間を持たずに破られる。
「……うん、帰るよ」
はっきりとした口調で答え、再び階段を上る。
背後で、凛が俯いた気がする。
「……でも、まだ行かないよ。小腹もすいたからな。凛も何か食べたいものあるか? おごってやるよ」
「ほんとに?」
僕が話題を転換するのに、星の欠片が飛び散るような調子で、凛は応じる。
「ほんとほんと」
「絶対?」
「絶対絶対」
「じゃあじゃあ、特大フルーツパフェ」
「ダメ。ゼッタイ」
「えー、ケチー」
「いや、だってあれ軽く四桁越えるやつが跳梁跋扈してるだろ?」
「そんなパフェが悪いみたいな言い方、しなくてもいいと思うんだけど……まあ、あんちゃんがそう言うならお子様ランチでいいよ」
「お子様ランチ?」
僕は階段を登りきり、連絡橋を渡りながら尋ねる。
「お子様ランチ、て日の丸の旗がご飯の山に突き立ってるアレか?」
「うん。それ」
「……凛、いいのか? そんな子供っぽいので。普通、小さい子はそういうのを嫌がると思うのだけれど」
「そんなことないもん」
僕の後ろにぴったり貼り付いたパタパタは、きっぱりとした口調で言った。
「お子様ランチは、平和と幸せの象徴だから」
「……」
僕は思わず柔らかく微笑む。
平和と幸せ。
それは僕が、先ほどの短冊にこめた想いだったから。
「それにあんちゃん。子供は、口では嫌だと言っていても、潜在的にお子様ランチを嫌いになることはないんだよ。つまり今風の言葉で言うと、つ、つ……ツンドラ?」
「……ツンデレ?」
改札側のホームに続く階段に足をかけつつ、僕は遠回しに誤りを指摘する。
「そう、それ」
「それって今風かな……むしろ、廃れてきてるような気がするけれど」
「テレビだって出てきたのは昔だけど、今でも流行してるでしょ。そんな感じだよ」
「すごい極端な例だな。まあ、液晶が出てからは、またテレビがどうとか騒がれたりしたけれど」
「エキショウ? あんちゃん、何それ?」
「うん? 液晶を知らない……いや、凛はデジタル派なのかな?」
「デジタル……? 凛はそんな頭の良さそうな派閥には入ってないよ?」
キョトンとして返す凛。
どうも話が噛み合わない。
凛の家は、まだ旧式のテレビを使っているのだろうか……いや、もうデジタル放送移行期間は過ぎているから、映らないのでは……?
あれ、まだ映るのかな。
僕はあまりテレビを観ない質だから、よくわからない。
「――まあ、いいや。とにかく飯食いに行こう。パフェでも小さいやつならおごってやるから」
「やった!」
階段の最後の段から降りつつ、凛は声を上げる。こういう時は子供っぽくて愛らしい。
僕らは楽しげに、笑みをほころばせながら、改札へと向かう。
「切符出しとけよ」
「うん。でも、今なら切符なんかなくても通れそうな気がするけど」
「……?」
どうしてだろう。切符を使わずに改札を通り抜ける方法なんて……。
しかし凛の姿を見ると、その疑問は簡単に消え去る。
「……ああ。凛は小さいもんな。改札に隠れて見えなくなりそうなぐらいだし」
「違うもん! 凛はそこまでちっちゃくないもん! 頭ぐらいは見えるもん!」
「ほんとかよ。電車で座っていた時なんか、足ブラブラさせてたじゃん」
「それは足が短いだけ! 成長すればもっと……っじゃなくて、隠れる以前にあそこのおじさんが寝てるんだよ」
「おじさん?」
彼女が乱暴に指差す先を見ると。なるほど、確かに改札脇の事務室で、駅員さんが船を漕いでいる。
「……起こさないように、静かに行こうか。もちろん切符は通すけれど」
凛が頷くのを確かめてから、静かに改札を通り抜ける。
そのまま駅を出ると、先ほどの電車から眺めていた時よりは、赤く映える街並みが、僕らを出迎える。
僕は腕を伸ばして深呼吸する。
そして、振り返りながら凛に声をかける。
「さて。僕はこの辺り、あまり詳しくないんだ。どこに料理店があるかとか、教えてくれよ。ああ、ファミレスでも……凛?」
しかし、彼女は僕の話をまるで聞いていないような顔で、ある一点を見つめている。
ガードレールの側で、こちらに背を向けてしゃがみこむ女性を。セミロングの黒髪を青いリボンで束ねるその女性は、どうやら『花』に向かって、手をあわせているように見える。
凛はその人に視線を注ぎ、
「――お母さん……」
今にも消えそうな声を漏らす。
「……あの人、凛のお母さんなのか?」
「うん……」
凛が首肯するのを見て、僕は言った。
「……早く行きなよ。お母さんなんだろ?」
けれど、
「……ぃ」
「え?」
「行けない……んだよ、あんちゃん。凛、行けないんだ」
辛そうに、凛は俯く。唇を噛み締めて。本当に、悔しそうに。
それは、全く彼女らしくない表情だった。
「……凛は、お母さんに会えないんだ」
「いや、だってすぐそこに……」
凛は首を横に振る。
「違うの。『ここまで』、みたいだから」
「ここまで?」
「……うん。もう少しだけでも、あんちゃんと一緒にいたかったんだけど……」
凛は懸命に笑顔を作りながら、
『物理的に足を浮かせながら』、
僕に語りかける。
「ごめんね。パフェ、食べられないや……」
「な、何言ってんだよ……! そんな……パフェならいくらでも食べさせてやるから! つーか長椅子もないのに地に足がついていないなんて、はは、面白いな……ピアノ線でもあるんだろ? そうなんだろ……!? いつの、間に……仕掛けたんだよ……?」
凛が『空中に浮かんでいる』という状況に混乱して、自分でも何を言っているのかわからなかった。
「ううん、あんちゃん。違うの、凛は……」
続く言葉は小さすぎて、聞き取れなかった。けれど、口の動きと、視界の隅に映る『ガードレール脇の花』が結びついた瞬間に理解できた。
理解してしまった。
「嘘……だろ? 嘘だ、て言ってくれよ……!」
僕の念押しに、凛は寂しげな笑みで返す。
そして、
「……ねえ、あんちゃん。一つだけ、聞いてほしいことがあるんだ。笹の葉にかけることもできない、とても大切なこと」
凛は胸元から一枚の短冊を取り出し、僕に手渡す。
その短冊は、やけに折り目がついていて、古臭くて、しわくちゃだった。
「それ、お母さんに渡してほしいの。いいかな? あんちゃん」
同じ目線の高さで、少女は頭を下げる。
背中でリボン結びの帯が揺れる。
「いいわけ、ないだろ……! ここに残って、自分で、渡さないと……!」
「わかってる。だけど、もう……時間なんだ。だから――」
「――その短冊と一緒に。お母さんに、凛は元気だよ、て。伝えておいて」
凛の体が上昇する。
「……凛ッ」
彼女を引き戻そうと手を伸ばして、羽衣を掴むけれど、
「っ」
まるで空気を掴んだかのように感触がなく、『すり抜けた』。
「ごめんね……」
「凛……」
「そんな顔しないで、あんちゃん。……大丈夫。凛はずっと、あんちゃんの側にいるから――」
凛は、
星のようにキラキラした笑みと、幾筋もの涙をこぼす。
僕はせめて、その表情を目に焼き付けようと凝視するが、やがてまばたきに抗えなくなり、
そのたった一回のまばたきの後に、凛の姿は、羽衣は、リボン結びの帯は――
――消え去っていた。
「凛……凛ッ!!」
叫んでも、虚しいだけだった。
こらえても、こらえても、涙が止まらなかった。
たった一日の付き合いだったけれど、たった一日仲良く会話しただけだけれど、涙は止まらない。
気づけば、僕は膝と両手を地面につけていた。
足の力が、入らなくなったのかもしれない。
――そんな時だった。
「あの……」
上から声をかけられた。
「今、『凛』と……叫んでいませんでしたか……?」
声の出所にゆっくりと目を向けると。
あの少女にどことなく似ている女性が、僕を真っ直ぐに見つめていた。
「……はい。凛の、お母さんですか?」
女性は頷く。
潮風が吹いて、頭の青いリボンが揺れる。
羽衣の帯のように。
***
轢き逃げ、だったらしい。
八年前の七月七日。
当時小学二年生だった凛は、やはり今日と同じく『琴末駅』~『初鷲駅』区間で、短冊をつけてまわっていたそうだ。
例の天女を彷彿とさせる羽衣を、身に纏って。
腰のリボン結びの帯を、生き生きと揺らして。
パタパタと、可愛らしい足音をたてながら。
「事故が起きたのは、その帰り道のことです」
凛のお母さんは辛そうに造形の整った顔を歪めながら、とつとつと語る。
「全ての短冊を結んだ凛は、初鷲駅からここへ戻って来たのだと思います。そして、それは夜になるかならないかぐらいの時間でした。……一方、当時の私は、凛の好きなように遊ばせていたので、あの子が短冊をつけてまわる、と言い出した時も快く送り出しました。ですが、やっぱり心配になって、駅まで迎えに行ったんです」
彼女は先ほどまで黙祷を捧げていたガードレールに、そしてその向こう側の通りに、目を向ける。
「ちょうど、あの通りに出た時だったんです。凛が、宝物でも手に入れてきたような満面の笑顔で、駅から出て、横断歩道を歩いていて。その横から、トラックが突っ込んできて……」
凛のお母さんは、俯いて、両手で顔を押さえる。
……凛の体は潮風が短冊をさらうように、簡単に突き飛ばされて。ものすごい勢いでコンクリートを転がり、最後にはあのガードレールに思いきり頭を打ちつけたそうだ。
相当打ち所が悪く、トラックが去ってから凛のお母さんが駆け寄った時には、ほとんど虫の息だったらしい。
「……あの子は、コンクリートで体のあちこちを強く打って、ボロボロでした。それでも、私を見てにっこり笑って、そのまま――」
意識を失い、搬送先の病院で息を引き取った。
僕は呆然としながら、彼女の声を聞いていた。
未だに、信じることができない。
それもそうだ。さっきまで仲良く話していた女の子が、あんなにも明るかった凛が、実は八年前に死んでいただなんて――。
「トラックの運転手はすぐに捕まりました。彼は凛を轢いたことに気づいていながら逃走し、拘束された後も無罪を主張していました。ですが、私と同じように現場に居合わせた人達の証言で、罪を認めました」
きっと、その証言がなければ。そいつは無実を主張し続けていたのだろう。
……そんなにも、無かったことにしたかったのか。凛を消したことを、忘れるつもりだったのか。
「っ」
どうして。
どうして凛は、そんな奴なんかに全てを奪われてしまったのだろう。
どうして、この世界は。
あんなにも純粋な少女を消してしまうぐらいに、理不尽なのだろう……。
僕は俯いて、拳を固める。
凛のお母さんは、僕を見つめて目を細める。
「あなたは、そんな顔しないでください。さっきまで、凛と一緒にいたのでしょう?」
凛は、誰かが泣いていると、辛そうにしていると、それを悲しむ子だ。
甘くて、優しくて、そして、ある種残酷な――。
「そう、ですよね……すみません」
僕はあの女の子と同じように、無理やり笑顔を作る。
苦痛も、悲しみも、全部飲み込んで、最後まで笑っていた、あの子のように。
「凛は私のこと、何か言っていましたか?」
闇夜を照らす月の光のように優しい笑みで、彼女は問いかける。
その表情は、泣きたくなるぐらい、凛にそっくりだった。
「……凛は、元気だよ、て」
声がかすれるのにも構わず、言葉を紡ぐ。
「笑いながら、言っていました……」
「……あなたから見て、凛は元気そうでしたか?」
「もちろんです」
「そう……」
呟くように言って浮かべた、その慈愛に満ちた表情は。
間違いなく、娘を想う母の顔だった。
僕はそこに、凛の面影を重ねる。
そして、
「……そうだ」
ようやく思い出す。
「この短冊を渡してほしいと、凛が……」
しわくちゃの短冊を差し出す。
「短冊……?」
受け取った凛のお母さんは折り目を伸ばしながら、そこに書かれているであろう、凛の想いに目を通す。
ランドセルいっぱいの星の欠片を持つ、あの少女の最後の想い。
彼女は一体、何を遺したのだろう。
そんなことを夢想しながら。僕は一歩下がって頭を下げる。
「お話、ありがとうございました。僕は、もう帰ろうと思います」
きっと、目の前にいる女性にできることは、僕にはない。
そろそろ、立ち去るべきだろう。
そう判断して、背を向ける。
けれど、
「……あなたは、これを読みましたか?」
凛のお母さんに呼び止められた。
なんとなく、その声がかすれているのが気になって、振り返る。
「いいえ。きっと、貴女が読むべきだと思ったので」
「……あなたも読むべきよ。本当に、凛らしいことが書いてあるから」
聖母の笑みをたたえる彼女に促されて、遠慮がちにその紙切れを覗きこむ。
そこには、小学生のわりに達筆な書体の文字が踊っている。
『みんなが、幸せでありますように』
「っ」
これは、単なる常套句じゃない。凛が心の底から祈っている、切実な想いだ。
「あの子は、変わらないのね……」
優しく苦笑いするような調子で、凛のお母さんは囁く。
けれど、僕の意見は違う。
「凛は、変わらないわけではないです。あの輝きを失い、失ったからこそ、永遠に持ち続けているだけなんです。誰しもが、すぐに忘れて諦めてしまうような。そんな子供じみていて、けれど本当に大切なことを。――凛は、信じ続けているだけなんです」
その言葉を聞いて、彼女はしばらく黙りこみ、やがて、
「そう、かもしれませんね……」
呟くように言って、ようやく赤く染まってきた空を、見上げる。
僕は夕焼けに照らされたその姿に思わず見惚れてしまい、慌てて手のひらの短冊に目を向ける。
そこで初めて気づく。
文面の横に名前が書かれていたのだ。
『星川 凛』
今日一番の強烈な既視感。
それと同時に、色々な物が頭の中を駆け巡る。
記憶の奔流。
ランドセル。
七夕の短冊。
そして、
『あんちゃん』
「あの……星川、さん?」
口が勝手に動いていた。
「以前、『初鷲駅』の辺りに住んでいたことは、ありませんか……?」
「初鷲に? ええ、十年近く前に。それがどうかしましたか?」
凛のお母さん――星川さんが、こちらを向いて首を傾げるのを見て、確信する。
僕は……凛を知っていたんだ――。
〈続〉