2
電車に乗る前の灰色の気分がほんの少し薄れてきた僕と、小学生の女の子――凛は、いつの間にか仲良く話すようになっていた。
あれから、次の駅に着くまで色々な話をした。
ピーターパンとネバーランド、そして七夕……。
小学生が好きそうな、明るい話ばかりだ。
今の僕には少しばかり眩しい話題ばかりだったけれど、それでも僕らは語り合った。
そんな風に時間が過ぎるのに任せていると、
「あ、あんちゃん。ちょっと待ってて」
気づかない内に電車が停車していた。
凛は羽衣についたリボン結びの帯を揺らしながら、パタパタと電車を降りる。
また例の出入りだろう。
僕はちょうどいい旅の道連れの不在に物足りなさを感じながら、後ろの車両を見つめる。
確かこの駅は近所に高校(僕が通う学校ではない)があるとかで、多くの高校生が利用するはずなのだ。もしかすると知り合いがいるかもしれない。が、いたところで何かを話したいわけではない。それに、これから僕がしようと、いや、していることを考えれば、顔を合わせたくないというのが本音だ。
しかしそれでも誰かを探してしまうのは、僕の中で踏ん切りがつかないからだろうか?
少なくとも電車に乗るまでは、そんな躊躇いはなかったはずなのに……。
自分の内心がわからないまま、電車から高校生達が降りていくのを眺める。幸か不幸か、その中に知人はいなかった。
少し複雑な心境で、どんな感情を伴っているのかもわからない息をつき、俯く。足下の灰色のエナメルが、くたびれてへこんでいる。形を整えるべきかどうか迷う。
けれど、決断を下す前にパタパタが戻ってくる。
「どうしたの、あんちゃん?」
目の前で淡いピンクと白色の羽衣が揺らめく。
「いや、なんにも」
顔を上げると、凛が不思議そうな表情でこちらを見つめていた。
「空っぽのものを、空ではないように取り繕うのは嘘になるのかな、て。思案していただけだよ」
「そのカバンのこと?」
「半分正解」
「残りは?」
「そうだな……」
僕は考えるふりをして、時間を稼ぐ。
それは答えがなかったからではない。ただ、それを表現するのが難しかったからだと思う。
電車の扉が閉まり、再び動き始める。
相変わらず僕らの車両に誰かが入ってくることはない。始発の『初鷲駅』からずっと、僕と凛の二人きりだ。
もしかすると、世界に僕らだけがこの車両の持ち主なのかもしれない。
凛は僕の左隣に座り、浮いた足をふらふらと揺らす。
「ねぇ、答えは?」
上目遣いで尋ねるのを、僕ははぐらかすような調子で答える。
「……終点に着くまでの宿題な」
「えー」
「宿題は嫌いか?」
「ううん。宿題は家に帰ったらすぐに終わらせるよ」
「へぇ。それは優等生だな」
「うん、夏休みの宿題もプリントの束をもらったその日に全部終わらせるもん」
「それはどうなんだろう……」
夏休みの宿題、て休暇中にまんべんなく進めて、勉強する癖をなくさないための課題だと思うのだけれど。
「少なくとも僕なんかは、始めの三日間ランドセルの中に入れっぱなしにするけれど」
「凛のランドセルはいつも空っぽだよ」
「空っぽ? 教科書とかどうするんだよ?」
「机の中に入れっぱなし」
なぜか誇らしげに胸を張る凛。自慢げに主張することでもないと思うけれど。
……それにしても、ランドセルが空っぽか。
エナメルの空っぽとは天と地ほどに訳が違う。
なんだか今の僕には羨ましい。
当時の僕のランドセルは点数の悪いテストやつっこんだままのプリント類でいっぱいだったから。だから本来入れるべき、明るくてキラキラしたモノを入れる隙間が無かった。
そんな僕が色々なことを見失い、今の状況に陥っているのは、何も不思議なことではないのかもしれない。
……今さら考えても仕方のないことだけれど。
「……置き勉ごときで胸を張るな」
だから僕は、
「ところで凛。お前電車から出たり入ったりして、何やってるんだ?」
無理やり方向転換するために話題を変えた。色々な後悔から目を逸らすように。
「え?」
凛は何を聞かれたのかわからないとでも言いたげに、首を傾げる。
本当に感情が豊かな子だ。
「だから駅に着く度に電車から出ていって、何をしてるのか、て……」
聞いてるんだよ、と続けようとして、僕はふと既視感を覚える。
このやりとりと似たようなことを、どこかで……。
そんな、テンプレートなデジャビュを。
しかし、
「凛は、短冊をつけてまわってるだけだよ」
思い出せなかった。
笹の葉に短冊を不器用に結ぼうとして、他の枝を巻き込んでしまうように、何かが引っ掛かっているのはわかる。けれど、それが何なのかわからない。
ともかく、違和感を覚えたまま、僕は尋ねる。
「どうしてそんなことを? 書くことが多すぎたのか?」
「うん、そう」
彼女は困ったような表情で微笑む。
「たくさんあるから、全部の駅に短冊をくくりつけるんだ」
そう続け、彼女は年相応の可愛らしい笑顔をこちらに向ける。
しかし、僕はやっぱり思い出せない。この、妙な違和感を。
……仕方がない。あとで考えよう。
事態を先送りにして、僕は口を開く。
「欲張りだな、それ」
「そう?」
「そうそう。数打ちゃ当たるってわけでもないんだしさ」
「それはそうだけど、やっぱり一つでも多く叶ってほしいから」
「へぇ。一体何書いたんだよ?」
「……あんちゃんには教えてあげない」
ツンと顔を逸らす凛。
「……でもさ、なにも駅全てにくくりつけなくても、一つの駅に集中した方が効率よくないか?」
移動する労力も減るし。
「そうかもしれないけど、全部の駅にした方が、何か起こりそうなんだもん」
「何か、て?」
「奇跡とか」
奇跡、か……。
小学生なら、なんの疑いもなく信じられるんだろうな。
今の僕には、とても考えられない事象だけれど。
「……」
僕は黙って、窓の外の海を眺める。
相変わらず青い海は夜空の星のようにキラキラと瞬き、僕を手招きしている。
――奇跡とか、短冊とか、ランドセルとか。
そんな色々なモノを、故意に、または知らない内に拒絶したり、根拠も無く頭ごなしに否定したりした僕には。
その誘いがある意味での救いのように思える。
もちろん僕だって、凛のように無邪気に信じていたかった。
いつまでも、短冊に叶うはずのない想いを書き連ね、ピーターパンの夢の世界に飛び込み、ランドセルに明るくて綺麗なモノを詰め込んでいたかった。
けれど、そんな段階はいつのまにか過ぎ去っていて。
僕はいらない物ばかりを詰め込んだランドセルを下ろし、代わりに空っぽのエナメルを担いでいた。
灰色でつまらない、絶望的なまでに入れる物のないこの鞄を――。
「あんちゃん?」
気づけば、凛が不安そうに僕の顔を覗き込んでいた。
電車も減速し始めている。
そろそろ次の駅に着く。
「いや、なんでもないよ。……また短冊をつけにいくんだろ?」
なんとか顔を綻ばせて、僕は凛を促す。
「うん、そうだけど……。あんちゃんも短冊つけようよ。きっと元気になれるから」
「……いや、僕はいいよ」
彼女の気づかいはとてもありがたかったけれど、そんな気分ではなかった。
「そう?」
ちょっと残念そうに凛が頬を膨らませると、ちょうどいいタイミングで電車が停まる。
彼女は例の通り、腰のリボン結びを揺らしながらパタパタと降りていく。それを見送ってから他の車両を眺めると、会社員らしい大人達が数人出ていくのが見えた。
最寄りに会社でもあるのだろうか。
そんな風に適当に結論を出し、しばらく目を閉じていると、パタパタが戻ってくる音が聞こえた。
しかし突如、何の前触れもなくそれが途絶える。
どうしたのだろう、と目を開くと、
「いたたた」
凛が倒れていた。
どうやら転んだらしい。
「大丈夫か?」
側に寄って手を伸ばすも、彼女は首を横に振って立ち上がり、そのまま長椅子に座る。
「へへ、転んじゃった」
「一体何につまづいたんだよ?」
「わかんない。でも、凛けっこうドジだから。何もないところでも普通につまずくよ」
「へぇ……一応ケガとかないか確認しとけよ」
「うん……あ」
足下までかかっている羽衣の裾を捲ってから、彼女は声を上げる。
「擦りむいちゃった……」
見ると、色白の膝小僧の辺りに小さな傷が。
小さいけれど、痛々しい。
「あんな風に倒れてたら擦りむくぐらいするよ……ちょっと待ってろ。ガーゼはないけれど、バンソーコーならあるから」
エナメルの側面についているポケットを漁り、バンソーコーを取り出す。
凛はそれを受け取り、ふー、ふーっと血を乾かすように息を吹きかけつつ、傷の上にぺたりと貼り付ける。
「ありがとう、あんちゃん」
「いやいや。というかなんでそんな動きにくそうな服着てるんだよ? コケたのも多分それが原因じゃないのか?」
「えー、そんなことないよ。それに今日はこれじゃないと……」
「なんで?」
「だって今日は七夕だよ? 織姫様が彦星様に会いに行く日なんだから羽衣じゃないと」
「それ凛とは関係なくないか?」
僕のその意見を聞き、凛は滅相もない、といった具合に目を丸くする。
「あんちゃんは知らないの? 『郷に入っては郷に従え』っていうことわざを」
「それは知っているけれど」
「でしょ? だから凛も短冊をくくりつけるためだけにこんな織姫様みたいな羽衣を着ているんだよ」
わかるようなわからないような。
それに、ことわざの使いどころも微妙に違う気が……。
「だいたい、七夕の時ぐらい全日本女子の羽衣着用を義務化するべきだ、と凛は思うんだよ」
「なんだよその画期的なコスプレデーは」
僕は苦笑いしながらダウナーにつっこみ、貼り付けられたバンソーコーから目を離す。
……と。
「?」
今さらになって、違和感を覚える。
それは先ほどの既視感とは別の物だ。
つまり、なぜ凛が転倒した時に何かしらの物音がたたなかったのか、という。
思わず凛の横顔を覗きこむが、
「どうしたの、あんちゃん?」
彼女はくりっと首を傾げるだけだ。
「……いや、なんでもない」
答えて、僕は慌てて目を背ける。
僕らを乗せた空っぽの車両に、駆動音だけが鳴り響く。
急に利いてきた冷房が、妙に僕の背中を冷やす。
***
そんな風に違和感や既視感に動揺したりしてから、小一時間経った。
あれから、妙な感覚に陥ることはほとんどない。
あるといえばほんの小さな、それも六等星のように見つけにくくて、些細な違和感ぐらいだ。
それはさておき、やや熱いが、やわらかな陽光が電車の中を照らし始めていた。そろそろ夕方といっていい時刻だ。この電車に乗ったのが大体十四時過ぎで、『初鷲駅』を出発してから、もうかれこれ二時間強程経っている。
僕の中では何年も乗っているような感覚だったけれど。
しかし年をとって人生を回顧したら気づくような感じで、実はあっという間だったな、とも思う。要するに、人の感覚の前では時間という概念なんて、簡単にねじくれてしまうということなんだろう。
中学生や高校生の時代が体感より早く過ぎ去ってしまうように。一年だって、十年だって。それに例に挙げた通り、人生だって。
そう、人生なんて……。
「なあ、凛」
この電車に乗ってから仲良くなった旅の道連れに軽々しく声をかける。
道端で旧友を見つけて軽く手を振るように。
「なに? あんちゃん」
先ほど、登山者らしい中年の団体が降りていく駅に短冊をかけてきた凛は。やっぱり星のようにキラキラした笑みを浮かべて僕の方を向く。
「次が、終点だよな」
「そう、だね……」
星の瞬きが、やや曇る。
しかし、すぐに二等星ぐらいの明るさに戻る。
「それがどうかしたの?」
「……いや、忘れたのかよ?」
「え?……あ、宿題」
凛は灰色で空っぽのエナメルに視線を注ぐ。
「宿題を忘れるようでは、優等生とはいえないな」
意地悪く僕が笑うと、
「えー、そんなことないもん。ちゃんと答えは考えてるもん」
彼女は頬を膨らませて抗議する。わりと真剣に声を張り上げているので、多分答え自体は出ているのだろう。
「言ってみろよ」
「あんちゃんが、空っぽのものを空じゃないようにしようと思った物は……」
「……ないよ、そんなの」
凛は、小学生らしからぬ複雑な表情で、言った。
「え?」
僕は目を丸くする。
「だから、答えはないの。あるのなら、そのエナメルぐらい」
はっきりと断言する凛。
……こう表現するのはセンスがないかもしれないけれど、彼女はたまに、名前の通り凛とした口調で物を言うことがある。そういう時に、凛が大人っぽくて、聡い子だと感じることがあるのだけれど、
「……こまっしゃくれた答えだな。でも、間違い」
今回は別だった。
どんなに頭のいい子だって、時には誤る。
「えー、じゃあ何が正解なの?」
そして間違えても素直に正しいものを追求する。
「うん、そうだな……凛って、今の世界は好きか?」
「世界?」
「世界っていうか、世の中っていうのかな」
「よくわかんない」
「凛はまだ小学生だし、仕方ないかな。でも僕は……この世界が嫌いなんだ」
「……どうして?」
「世の中って、僕らが思っている以上に不公平なんだよ。不公平で、無関心で、冷めていて。理不尽ともいうのかな」
「理不尽?」
「そう。高校ならわりと顕著なんだけれど、人間って『空気が読めないから』とかそんな些細なことで、シカトを決め込んだり、無茶な役回りを押し付けたり、昨日まで仲の良かった奴が急に手のひらを返したりするんだよ」
「……」
「高校でなくても、電車の中で泣いている小さな子を見れば露骨に迷惑そうな顔をする奴はいるし、道端で誰かが転んでも手を貸さずに無視する奴もいるし。そんな風に、世界の色々な理不尽なところを見ているとさ、思うんだよ。子供の時になにも疑うことなく信じていられたこと、て一体なんだったんだろう、て」
「信じていられたこと……?」
「うん。みんな助け合おう、て。困ってる人を見たら手を差し伸べよう、て。そう信じて。純粋に、素直に、生きてきたのに。誰もそんなことはしていない。むしろそうしている奴はバカにされたりもする。そんな殺伐とした世界が、僕は嫌いなんだ。……そして世界が嫌いになると、色々な物が色褪せて見えるようになるんだよ。なにもかもに無関心になって、これから生きていくのが味気なく思うようになって」
小学生に聞かせるような話ではないよな、と苦笑いしながら。僕は言葉を紡ぎ続ける。
「それに加えて、できの悪い僕は、このまま進んでも代替の利く中小企業の会社員ぐらいにしかなれない。その企業で色々な理不尽に我慢して、神経を磨り減らして。そんな未来の、そんな世界の、一体なにがいいっていうんだよ。そんな風に思った僕はあらゆることに対して投げやりになってしまったんだよ」
僕は言葉を切って、空の見えない天を仰ぎ、息をつく。
凛になら。ここから先を言ってもかまわないよな、と少しだけためらって。
でも、やっぱり投げやりに思考を放棄して。
再び口を開く。
「……それで、今日。親とケンカしたんだ。多分僕がやけくそになってるのが、開き直ってるのが、鼻についたんだと思う」
凛が静かに僕の話を聞いているのが、なんとなくわかる。でも、車両と外の世界を分かつ天井を眺める僕には、彼女がどんな顔をしているのかはわからない。
「出ていけ、て。そう言われたよ。いつか、言われなくてもそうするような気はしていたから、特に驚くこともなく自分の部屋に行って荷造りを始めた。本当に必要な物だけ持ち出して、誰も知り合いがいないような、とても遠いところに行こうと思った。色々なモノを詰め込んだエナメルと一緒に。けれど……」
視線を下ろした先には、灰色で、空っぽで、情けなくなるほどにくたくたのエナメルが横たわっている。
「入れる物なんて、何もなかった。本当に必要な物なんて、タオルと着替えぐらいだった。率直に言って唖然としたよ。……いや、もちろんわかってはいたんだ。本当に必要な物なんて、突き詰めればそんなもんだ、て。けれど、僕はショックだった。どうしてこれだけなんだろう、て。だから気づいたら必死に探していたよ。必要な物を」
「……見つかったの?」
星に雲がかかってしまったように、普段の明るさがまるで感じられない表情で、凛は聞く。
けれど、僕は首を横に振る。
「どこにもなかった。机の中も、本棚も、押し入れの中も、隅々まで探したけれど。見つからなかった。それで、一通り目を通してからもう一度エナメルの方を見たんだけどさ。やっぱりエナメルはペチャンコで」
大きく息をついて、足でエナメルを軽くこづく。黒でも白でもない中途半端な灰色のそれは、更に凹む。空気に蹴りをいれているかのように感触がなかった。
僕は自嘲で歪んだ暗い笑みをこぼす。
「まるで僕の人生みたいだな、て思った。思い知らされた。僕も空っぽだった。灰色だった。考えてみれば、僕もそうだったんだ。特定の誰かがシカトされていれば、僕だって知らない振りをしていた。道端で転んでいる人を見かけても、みんなが無関心なら、僕もそこを避けて通った。人が冷めていることに、一度だって反抗しなかった。色々な正論を振りかざしてはいても、結局は僕だって『世界』の人間だったんだ。……いや、本当はそれを知っていて知らない振りをしていただけだったんだ。そして……僕は壊れたように笑った。この『世界』に一度も抵抗しなかった、何もしなかった自分を笑った。空っぽで、灰色の人生を笑った」
言い切って、僕は窓の外を眺める。空はほんのわずかに赤らみ、ここから遠くの路上でゴミを漁るカラスの群れを照らしている。
虚ろな視線でそんな景色を見つめてから、僕は口を開く。
「長くなったけれど、取り繕えようと思った物の答えは、『人生』、ていうのかな。ちょっと漠然としているけれど、そんな感じ」
「……家出して、あんちゃんはこれからどうするの?」
静かな口調で、凛は言った。
その表情は先ほどと変わらず、明るさが欠けている。
「そんなことぐらいで絶望して、これから、どうするの……?」
絶望。
今の僕にはちょうどいい言葉だ。
どうしようもないぐらいに、的を射た言葉だ。
そして、凛は『そんなことぐらいで』、とも言った。
そう指摘されるぐらい些細なことで、僕はこんなにも落ち込んでいる。本当に中途半端で、空っぽだ。その自覚が、さらに絶望を加速させる。
僕は左隣に座る凛の顔を見たくなくて、反対側に視線をやる。
ちらっと、波風のたたない穏やかな大海が見える。海は例の通り、凛の笑顔とは異なる星の瞬きで僕を誘う。
「これから、か。とにかく遠くに行こう、てなんとなく考えているけれど、それからはどうするんだろう……。気が遠くなるまで歩いて、そのまま野垂れ死ぬのかな。そうだよな、そうすれば楽になれる。こんな世界から解放されて……」
「……何言ってるの? あんちゃん」
静かで、しかし感情を押し殺したような声に遮られて。
僕はその威圧感に圧倒されながら、左隣に顔を向ける。
「それ、本気で言ってるの? 冗談だよね?」
仲良くなって仕事をサボり始めた織姫と彦星にキレて、彼らの仲を引き裂いた天帝もかくや、といった面持ちで、凛は僕を睨み付けていた。
「簡単に死ぬなんて、二度と言わないで」
少女は俯いて、辛そうに顔を歪める。
おおよそ小学生が浮かべるような質のものではない。あまりに痛ましくて、目を背けたくなる。
しかも、そんな風に思わせてしまったのは僕のせいで……。
「……ごめん」
たまらず、頭を下げていた。
「悪かったよ。自棄になりすぎていた。凛がそこまで気にするとは、思ってなくて……」
「気にするよ!」
上目遣いに、真剣に。僕を真っ直ぐに見つめて凛は叫ぶ。
「知っている人が死のうとしているなんて、ほっとけるわけないもん! 凛はあんちゃんが言ってるみたいな難しいことはよくわかんないけど、簡単に死んじゃいけない、てことぐらいはわかる! 理屈とか、そんなの抜きで死んじゃいけないことぐらい!」
凛の瞳がわずかに滲んでいるように見える。
彼女は落ち着きを取り戻そうとしてか、大きく深呼吸する。
「……さっき、あんちゃんは自分が冷めてるみたいなこと言ったよね? 誰かが倒れていたら、そこを避けて通る、て。でも、あんちゃんは凛のこと、ちゃんと助けてくれたよ。手を差しのべて、心配してくれて、バンソーコーまで渡してくれたよ」
凛は裾を捲って指差す。
しわ一つなく貼り付けられたバンソーコーが、その存在を主張している。
「それは……目の前だったし、そうするしかなさそうな空気だったから……」
「凛は、嬉しかったよ。今までドジしてひっくり返っても、誰も助けてくれなかったから。みんな凛のことなんか知らない振りするから。だから、一人で立ち上がるしかなかった」
彼女は未だに雫が落ちそうな顔をくしゃ、と歪ませる。多分無理やり微笑もうとしたのだろう。けれど、その試みは誰がどう見ても失敗している。
「凛は……強いな。僕とは大違いだ」
「ううん。凛は、そういうことに慣れてるだけだから」
「小学生が、そんなことに『慣れる』なんて……」
「確かにひどいよね。でも……凛は信じているから」
少女は長椅子に座っていても地につかない足を揺らしながら、窓の外の世界に真っ直ぐな視線を注ぐ。
ついに魔王を倒す足掛かりを見つけた、勇者のような視線を。
「……何を?」
小学生とは思えないほど達観した彼女の横顔に問いかけると、凛は今度こそ、星のようにキラキラとした笑顔を浮かべて、答えた。
「あんちゃんが言う『世界』には、たくさんのいいことがあるのを――凛は、信じているから」
星の笑顔に、涙の筋が入り、赤く染まりきっていない夕日がその軌跡を照らす。
なんだか、とても幻想的な光景だった。
「これからも、嫌なことやひどいことがたくさんあるかもしれない。だけど、それ以上にいいことがあるんだ、て信じている限り、まだ頑張れるから――」
……凛は僕が失ったモノを、ずっと持ち続けているのだろう。ピーターパンの『世界』でそれを見いだし、ランドセルに詰め込んで、七夕の短冊に書き綴って形にして。
そうやって、真っ直ぐ前に進み続けるのだろう。
「――だから、あんちゃん。もう少しだけ、頑張ってみようよ。嫌なことも辛いことも、全部受け止めて、乗り越えて。……信じながら、生きていこうよ」
目の前で力強く星が瞬く。
その星の笑顔から漏れ出たのだろうか。僕の中で、小さな活力が生まれるのを感じた。
あまりにも懐かしすぎて、すっかり忘れていたモノが、まるでタイムカプセルのように掘り出されるのを感じた。
……あーあ。どうやら僕は、こんなに小さい子に諭されて、さらに感化されてしまったらしい。
率直に言って情けない。
僕は凛に柔らかく微笑みかけて、言った。
「今から信じても、間に合うかな……?」
「遅いなんてことは、ないと思うよ、あんちゃん」
少女はシンプルな笑みと言葉で返した。
「そっか……」
呟くように漏らし、窓の外の世界を眺める。
どこか白々しく感じていた街並みが、柔らかい陽光に照らされて少し赤く映え、とても美しく思える。今までの虚ろな視線では、絶対に見つけられなかったであろう発見だ。
反対側の海の方を向かないように意識しながら、そっと息をついて、背もたれに体を預ける。なんだか体が軽くなったような気がする。心の底に沈んでいた鉛が、急に消え去ったような。そんな心地がする。
そして、足元のエナメルに目を向ける。僕の『人生』を象徴しているかのような、空っぽで、灰色のエナメルに。
「……」
けれど、エナメルは灰色ではなかった。車内に差し込んできた陽光を反射して、月のように光輝いている。相変わらず空っぽだけれど。少なくとも灰色ではない。小さな奇跡が起こったような光景だ。
……今の僕なら、もしかすると嘘にならないのかもしれない。今なら、その資格があるのかもしれない。
「――なあ、凛。短冊、持ってるか?」
「え?」
「短冊。余分に持ってないか?」
「……うん。持ってるよ」
凛は羽衣の胸元の辺りに手を入れて、赤い紙切れを取り出す。
「今のあんちゃんなら、きっとなんでも叶うよ」
「そうかな?……そうだといいな……って」
受け取ってから、僕は筆記具を持っていないことに気づく。
けれど、そんなことはお見通しだったのか、
「はい、鉛筆」
「サンキュ」
ちゃんと用意してくれていた。よくできた小学生だ。
エナメルを下敷きに、短冊に想いを書き入れたところで、アナウンスが入る。
『まもなく、終点『琴末駅』です。お降りのお客様は、忘れ物のないようご注意ください』
結局最後まで僕ら二人きりだった先頭車両に、その音声はよく響いた。
〈続〉