病気とドラマについて
マーベリックさんのドラマ批判に触発されて書きました。
一週間ほどかかりました。
……主に私の怠惰のせいですが。
ごきげんよう諸君。
私の名はヴァイゼ。想造主の知識の具現者だ。
私の戯言に一時の間付き合って欲しい。
君たちは、病気にかかったことはあるかな?
風邪や熱中症などの軽症。
白血病や癌などの重症。
まぁ、軽重関わらず誰でも病気になったことはあるだろうね。
健康に気を配ることは大事だ。
自身を病気から守るためにはね。
では、君たちに問おう。
[ある病気を題材にしたドラマ]を製作する場合、君たちはどう作るのかな?
もちろん、その[病気について調べたり]するだろう。
さらに言えば、その患者や医者に[取材]したりするだろうね。
むしろ、それが[肝心]だと言ってもいい。
知識として調べるだけでは、病の辛さは理解しがたいもの。
実際に、その病気の[苦痛]を感じていなければ、心底から理解しえないだろうね。
物理学者である[アルベルト・アインシュタイン]もこう言っているよ。
[何事も自分自身で経験すること以上に良いものはない]とね。
その意味が君たちに分かるかな?
私の主観になるが、[知識だけよりも、実際に自分で体験しなくては益にはならない]になると思うね。
話を戻そうか。
病気を調べて得た[病状の知識]。
取材することで得た[客観的な経験]。
ただ、それらは[物語の軸を造る材料]にはなっても[物語]であるとは言わないね。
それは、[材料だけ揃えて][調理をしていない]ものを[料理した]と言い張るようなものだよ?
そんなものは、[料理ではない]だろうね。
では、[物語に必要なもの]とはなにかな?
それは、その物語の主役である人物なのだよ。
考えてみてほしい。
登場人物が終始出て来ず、ただ景色のみを淡々と描写したものを[物語]と言えるだろうか?
あったとしても、それは書き手の意思が景色のみを紡いだものであり、登場人物が織り成す[話の掛合い]の欠如は否めないね。
ゆえに、[物語]には[登場人物が必要]であると言わざるを得ないのさ。
先の例えを用いるなら、料理の華となるメインディッシュが[欠けている]料理となってしまうのさ。
ステーキ弁当を頼んだのに、出てきたのは白米とお新香だけではどう思うかな?
物足りなさを感じるだろうね。
それと同じだと言うことさ。
さて、軽く情報をまとめよう。
[病気を題材としたドラマ]を作る場合、必要となるのは[病気についての知識]と[取材で得た経験]。
そして、[物語に必要不可欠な登場人物]だったね。
ここからが本題だ。
まず、病気になるのは、闘病を重点にするなら[主人公]が望ましい。
なぜなら、物語というのは[主人公が行動することによって、初めて動くもの]だからね。
例えばだ。
君たちは刑事ドラマを観ている場合、主人公の行動に注目するだろう。
しかし、病院のシーンでドラマに絡まない[脇役の闘病]に注目をすることはしないかな?
いくら難病を抱えていたとしても、[歩いている刑事にぶつかる]以外、ドラマに絡まることはないだろう。
それと同じさ。
あと、病気を題材にするのだから[その病気の患者が]ドラマを視聴して[不快めいた違和感を与えてしまう]なら、それは間違っていると言わざるを得ないのだよ。
自身が[ドラマで主人公と同じ病気を患っている]のに、ドラマでの病状と自身の病状が違っていたらどう思うかな?
はっきり言おう。
そのドラマに[良い印象は与えられず]逆に[不快的で悪い印象を与えてしまう]ことになってしまう。
いくら演出上の理由や報道規則だとしても、不快を受けるドラマを[視聴したい]とは思わないからね。
私が思うに[病気を題材]にするのなら、その病気について[視聴する患者が納得する形]で作るべきだと思うね。
[報道規則]という枠内の中で[病気の真実]を劣悪させる演出で偽ることなく、視聴する者たちに共感してもらうよう心血を注ぐべきだ。
さらに言うならば、リアリティを出すには嘘も必要になるが、使い方を誤ってはいけないよ。
なんであれ、[正しく使えば良い結果]をもたらし、[悪く使えば悪い結果]をもたらすのは、道理なのだからね。
また、くれぐれも[金儲けのため]に[その病気を扱ってはいけない]よ。
不快を受けた視聴たちのクレームが押し寄せ、[信用を失いかねない]からね。
何事も信用が大事だと言うことさ。
それが、[悪く使った結果]となるのだよ。
理解していただけるかな?
今日の戯言はここまでにしようか。
では、また会えるまで――。
end
おかしなとこがあったら、すいません。