旅 ~止まった時間~
久々に執筆するので、肩慣らしに。
さっと読み飛ばしてもらえれば幸いです。
男が一人、薄暗い部屋のソファに座っている。閉じられたカーテンから、日の光が差し込む。
彼は上下スエットの寝巻き姿だった。手には、中身が半分ほど入ったコーヒーカップ。彼のいる家には、人がいないが、もし今の彼を見た者がいたなら、その顔に衝撃を受けただろう。髪と髭は、もう何週間も手入れがされていないことが簡単にわかるほど伸び放題で、顔色もひどい。目の下には濃い隈があり、半開きの瞼の向こう側には、暗い目があった。
彼は、絶望していた。いや、絶望という表現は、不適切かもしれない。
彼はなにも感じていない。絶望や怒り、喪失感すらも彼は感じてはいない。そういった感情を覚えるには、彼は多くを失いすぎた。
彼には、2歳年上の妻がいた。美人ではない。不美人でもない。だが、いつも自分を信じて、支えてくれる良妻だった。
息子と娘も一人づついた。息子は17歳、娘は15歳。
息子は優秀で、将来はカウンセラーになりたいと言っていた、とてもやさしい子だった。娘は、とりたてて勉学や運動に優れていたわけではないが、その場にいるだけで、雰囲気が和やかになる、とても人間的な魅力にあふれていた子だった。
そんな家族と、彼はこの小さくも、大きくもない一軒家に暮らしていた。収入も安定し、役職も高い。絵に描いたような、幸せな家庭だった。
だが、彼はそれを失った。
彼はその日、休日出勤で、妻と学校が休みの子どもたちの見送りを受け、車で出勤した。
デスクで、部下の報告書をチェックしながら、なんとなく時計を確認した。14時過ぎだった。
そのとき、携帯電話が鳴った。
家族が死んだ。その知らせを受けたとき、彼は理解することが出来なかった。
病院に駆けつけ、霊安室で家族と対面した。悲しすぎる再開だった。
一週間分の食料品の買出しに三人そろって出かけた。交通事故に遭い、三人とも、病院に到着したときには、心臓が動いていなかった。
家族と対面したその瞬間から、彼の時間は止まった。
葬儀を済ませ、埋葬も済んだ。彼はなにもかもを失ってしまった。
会社からは、長期休暇を取れ、と命じられた。手続きは免除するから、とにかくゆっくり休め。旧知の間柄の社長は電話越しにそういった。
自分の両親、そして妻の両親からは何度も連絡が来た。
励ましの言葉はありがたかったが、心の慰めにはならなかった。
下戸で、真面目に生きてきた彼は酒やギャンブルに逃げなかった。
心に空いた穴の痛みも感じることが出来ず、ただただ、毎日を、何の目標もなく、押し流されるように暮らしていた。
家族を失い、2ヶ月が経過したが、彼の時間は止まったままだった。
彼の両親は、カウンセラーへの相談を進めてきた。
彼も、自分の精神が正常ではないことは自覚していた。
だが、プロに相談しても、自分が正常に戻るとは、彼には思えなかった。それに、長男の将来の夢のことを思い出し、カウンセラーという単語を聞くことも苦痛だった。
彼は、残ったコーヒーカップの中身を飲み干し、ダイニングテーブルの上の写真を見た。
家族の集合写真だ。
自殺も考えた。だが、実行はしなかった。
死への恐怖に打ち勝てるほど、彼は強くなかった。
それに、家族が悲しむだろう。という思いが彼の胸中にはあった。
どうすればいいのか。どうすれば、自分は家族の死を乗り越え、止まった時間を動かせるのか?
彼は、答えを渇望していた。
そして、彼はふと思った。
家族との約束を果たそう、と。
それが答えだと、彼自身思ってはいなかった。
だが、家族と約束しておいて、果たせなかったことをほったらかしにしておくことに抵抗を感じただけだった。
彼は考えた。
彼は、家族を蔑ろにすることはぜったいにしなかった。よき夫で、よき父であろうと、常に思ってきた。
だが、それでも家族より仕事を優先させる場面が多々あった。
妻の言葉を思い出した。
旅をしたい。そう彼女は言っていた。
子どもが生まれる前、恋人時代や、新婚のころは、よく旅行にいっていた。双方が旅好きだったからだ。
息子が生まれてからも、頻度は少ないが2,3回は旅行をした。
だが、娘が生まれてからは一度もしていない。
自分が出世し、旅行にいくような暇がなくなってしまったからだ。
家族4人で旅をしたい。家族全員で集まる夕食の席で、妻が度々口にした言葉が、彼の頭に響いた。
いつか、暇ができたら、必ずいこう。自分の言葉もまた、頭をめぐった。
彼は準備をした。
もう一ヶ月着たままのスエットを脱ぎ、普段着を着て、銀行にいった。
口座から、まとまった額の現金を引き落とした。
自分と妻の両親、社長、親しい友人に連絡を入れた。
少し、気持ちの整理をするために旅をする。しばらくの間、家を空ける、と。
新聞屋や、各ライフライン管理業者にも連絡し、ストップを要請した。
翌日、朝食を食べ、長期間不在の張り紙を、インターフォンと玄関に貼り付けた。雨風に耐えられるよう厳重に貼り付けた。
そして、身支度を整えた。
数日分の着替えを鞄に入れた。結婚してから最初の誕生日に妻がくれたものだ。
腕時計をした。これは息子からの贈り物だ。初めてのバイトの給料をはたいたそうだ。
最後に、シャツの上に厚手のジャンバーを羽織った。娘の、最初で最後の贈り物だ。
出発しようとして、持ち物を追加することを考え付いた。
ネックレス、ブレスレット、足首用ミサンガ。
すべて、家族が最後に身につけていた品々だ。これらを身につけ、写真立てに入っている家族写真を鞄に入れた。
ガレージに止めてある車に乗り込み、ドアを閉めた。
イグニッションキーをまわし、ギアを操作し、アクセルを踏む。
車がガレージを出た。エンジン音が、短くはない旅路の始まりを合図した。
この旅が、男の止まってしまった時間を動かすのか。それはわからない。
だが、男の心ににわずかな感情が息を吹き返したのは確かだ。
いかがでしたか?
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