バイナリープリンセス
この作品での、「0と1の世界」は厳密な意味での「2進法」と完全なイコールで無いことをご承知ください。
それは、僕の耳に入ってきた中でも、えらくびっくりするような断り文句だった。
「・・・0と1しかない。私も1、あなたも1。いるなら1で、いないなら0。2はない、だからあなたとは付き合えない」
そして、それは僕がかつて聞いた台詞とほとんど変わらないものだった。
大学二年という新しい学期を迎え、バタバタとした慌ただしい時間からようやく解放されて通常の日々をおくれるようになったころ。大学の講義が終わり、特に予定もないしと昼食がてらに入った駅前のファーストフードで僕はひとり、ハンバーガーを食べながらスマートフォンを片手にネットサーフィンを楽しんでいた。
友達がいないわけでは決してなくて、単純に予定が合わなかっただけなのだ。現実から目を背けてるわけではないと、とりあえず言っておきたい。
その言葉は、そんな暇を持て余したダメ学生の僕の耳に懐かしい響きと共に入り込んできたのだった。
ちょうど、真後ろの二人掛けの簡易テーブルの方から聞こえてきたため、僕は怪しまれないようにゆっくりと振り返った。
そこには、毛先のはねた髪の毛を背中まで垂らした女の子の後ろ姿と、何を言ってるのかさっぱりわからないというようなマヌケな表情をした男が座っていた。
男は鳩が豆鉄砲を喉に詰まらせたような顔というのが一番ぴったりくるような顔をしていた。男は、うろたえてオロオロと視線を彷徨わせている。
女の子の方も何をそんなに困っているのかわからないというように首をかしげていた。
僕は前に向き直って、残っていたハンバーガーのかけらを飲み込むと、かつて僕に同じようなセリフで断ってきた少女のことを思い返した。
世の中にはそんな特殊な考え方の人が何人もいて、それは偶然にも出会ってしまったりするものなのだろうか。
そんなわけないよな。
普通に考えればかつての少女が今、僕の後ろに誰か知らない男と一緒に座っていると考えたほうがよっぽどしっくりくる。
僕はそう考えて、再び後ろを向いた。
さっきまで鯉のように口をパクパクとさせていた男が、やっと解釈が追いついたのか絶望に打ちひしがれた表情をして立ち上がるところだった。女の子はまだハンバーガーが残っているのか、もふもふと口元を動かしている。
僕も昔、同じ経験をしたから、男の絶望には共感が持てた。よくわからない言葉で断られると、理由もわからないのではっきり言ってかなりきつい。
それはそうと、ファーストフードで告白するってのも僕にはきつい気がするのだが、そこら辺はどうなのだろうか。
男がテーブルを離れるのを目で追って少し横を向いた女の子の顔は、以前より美人になってはいたものの、僕の記憶にある彼女の横顔によく似ていた。
僕は席を立つと、ハンバーガーの包み紙だけを捨て、まだ氷といくらかお茶の残ったドリンクだけを持って彼女の席に近づいた。
正直、ちょうどフリーになった美少女がいたから、思わず声をかけに行くナンパ少年みたいな感じだった。というかもはや気分はナンパだった。それぐらいに彼女は綺麗になっていた。
「……あの、姫川さん、だよね」
僕が隣に立って声をかけると、彼女がゆっくりとこちらに顔を上げた。そのままじっと僕の顔を見つめてきた。
そして、いい加減周囲からの奇異の視線が恥ずかしくなってきたころ、
「一条くん……?」
そう言って、首をかしげた。
姫川さんは昔よりもほんの少しだけ背が高くなっていたけれど、あいかわらず小柄で、ぽやぽやした雰囲気を持ったおとなしい女の子だった。
数字の0と1が好きなのも変わらないらしい。
疎遠になったのにもいろいろと理由があって、ちょっと後味の悪い別れになってしまったからか、最初、姫川さんは眠たげに開いたまなこをぼんやりと僕にむけるだけで、僕の質問にも首をふるか、うなづくかぐらいでしか反応してくれなかった。
仕方なく、質問を工夫して聞き出したところによると、姫川さんはいま僕の大学から1駅離れたところにある理系の大学に進学したとのこと。それも、女の子には珍しく技術系の学部に行っているらしく、将来はプログラムを書くような仕事につくのが夢だということらしかった。僕がそれに、
「やっぱり0と1のためなの?」
と聞けば、コクリと返事が返ってきた。
僕もあの時とは違ってそれなりに勉強もしたし、いろいろな知識が身についたから0と1が何を意味するのか、ぼんやりとわかったような気がしていた。
「2進法だよね、姫川さんが言ってるのって」
そう聞くと、眠たげだった目を少し大きめに見開いて、姫川さんはコクリとうなずいた。
「2進法があれば、世界は0と1だけで表現できるの」
僕との会話の中で、全然口を開いてくれなかった姫川さんが、初めて口を開いた。やっぱり、人間誰でも好きなことを問われると饒舌になるのだろうか。
「コンピューターの処理の仕方が2進法なんだって、聞いたことがあるよ。僕にはそこから先がさっぱりわかんなかったけど」
「0の次が1、1に次が2ってなって、9までいったら10になる。読み方は変わるけど、1と0でできてる。これが10進法。わかる?」
と姫川さん。とぎれとぎれだが、説明してくれるらしい。
僕が一所懸命に説明しようとしてくれる姫川さんに、うん、と返すと、姫川さんはコクリとして話を続けた。
「0の次が1、1の次が10、10の次が11、11の次は100って増えてくのが、2進法。これで1,2,3,4が表せる」
「世界は0と1で表せるっていうのはどういう事なの?」
「世界は、0と1だけで構成することができる。例えば文字は、2進数の8桁を1バイトとして1バイトで半角一文字を表せる。日本語とか全角の文字は16桁、2バイト文字と呼ばれてる。8桁じゃ足りなかった」
そこまで言って、わかる? というように首を傾げる。
正直なところ文系の僕にはさっぱりだったけど、とりあえず同意する。
それにしても首を傾げた姫川さんもかなり可愛い。
「景色も写真に取ることで0と1で表せる。画像データにすると圧縮されるけど、2進数。音楽も。立体モデリングすれば、地形も作れる。つまり、この世界は0と1だけの世界に再構成することができる。だから、0と1が一番いい」
「だからさっきの断り文句も、やっぱり0と1以外の2を認めないやつなんだね」
「聞いてた?」
「うん、さっきそこに座ってたから」
「そう」
そう言って、姫川さんは手元のドリンクをちゅーっと飲んだ。どうやら聞いてたことは不問らしい。
僕は、かつて姫川さんに言われた言葉、つまりさっきの鳩豆男がくらっていたのによく似たやつを思い返した。
『0と1が一番美しい。1がいるで0がいない。私も1であなたも1。他にはいらない……』
そうしてさっき聞いた言葉と比べてみる。
『0と1しかない。私も1、あなたも1。いるなら1で、いないなら0。2はない、だからあなたとは付き合えない』
確かに似ている言葉だったが、僕に言ったセリフにはまだ一言だけ、続きがあった。
『0と1以外を教えてくれるなら、考えてもいい』
そう、そんなことを言っていた。
「0と1以外の世界か……」
思わずつぶやいてしまった僕の言葉に、姫川さんがびっくりしたように目を見開いた。
「覚えてる?」
そしてそれっきり黙ってしまう姫川さん。
僕にはその言葉がどうしても気になってならなかった。もしかしたら、これは姫川さんなりの条件だったのに、あの日の僕はフラれたショックで気がついていなかったのかもしれなかった。
僕はまだよくわからないことを調べたくなって、一度家に帰ることに決めた。
姫川さんの携帯番号とかが変わってないことを確認して、席を立った僕の背中に彼女の言葉が小さくとどいた。
「待ってるから」
その日から、僕の進数探索は始まった。
ぼくが姫川さんのことを好きになったのは、高校2年生の春、クラス替えで同じクラスになってからのことだった。
クラスの中でもおとなしくて目立たない女子、っていうのが僕から見た彼女の第一印象。特定の女子のグループにも入ってなかったし、そんなに人と話す人でもなかったから、正直なところ、クラスの中でも少し浮いた存在だった。
おまけに0と1が何よりも好きという変わり者。
僕の女好きの友達も「あいつはちよっとよくわかんねーし、パス」って言っていた。
よく言えば、ちょっと変わったタイプの女の子、平たく言えば変人だった。
ただ顔立ちは童顔ぎみで、ぽやっとした少したれ気味の眼がかわいい、小柄な人だったから完全な嫌われ者の立ち位置にはなっていなかった。
僕は、そんな彼女にひかれて、少しずつ会話を交わすようになった。
そして高三になり、思い切って告白した。
『0と1が一番美しい。1がいるで0がいない。私も1であなたも1。他にはいらない。0と1以外を教えてくれるなら、考えてもいい』
まぁ、結果はざっくりと断られた。
でも、明確な拒絶じゃなかったから、また元のように会話を交わすだけの関係に一応戻ったはずだった。
だけど、僕はそのまま姫川さんと関係を続けていくことがつらくなり、だんだんと離れていき、とうとう疎遠になってしまっていた。
それでも、いまだに姫川さんへの思いは忘れてなかったし、もしできることなら付き合いたいとも思っていた。
だからまだチャンスは残されていたというこの発見は僕の中では、かなりの喜びだった。
再開以来、僕は時間を見つけては、「0と1以外の世界」というものについて思いついたことを姫川さんにメールしていた。
まず、考えるのは言葉の正確な定義だった。
何回か姫川さんとメールを交換するうちにわかったことは、彼女が求めてるのは、0と1だけでは表せないもの。つまり彼女の言葉を借りて言うなら、「0と1だけでは再構成できない何か」を見つけてほしいということだった。
ちなみに、僕がその結論たどり着くまでには、かなりの時間が必要だった。
普通、2進法以外と言われて最初に思いつくのは違う進法だろう。つまり16進法や10進法、変わり種で行くなら8進法とかも考えられる。だから、僕も最初はその路線で考え、2〜9までの数字の魅力について熱心にアピールしてみたりもした。
「2っていいよ。この計算され尽くしたかのようなきれいな弧を描くカーブ。地面にどっしりと身を落ち着けられそうな直線。ほんと神技だとおもう」
「8のすごいところを紹介しよう! それは思うに、この対称性にあると思うんだ。縦に切っても、横に切っても左右対称。これは他の数字じゃ味わえない美しさだと思う」
実際、そんなこと全然思ってないし、適当なことを並べ立てているだけだっだが、それも姫川さんは
「2は2進法で10。そっちの方がよっぽどいい」
「1も0も左右対称に切れる。こっちの方が美しい」
と、斬り捨てる。
おまけに、そんなやりとりばかりしているうちに、姫川さんの目は哀れなものを見守るような、優しい表情を浮かべるようになっていった。だけど、僕にはこの路線が完全に諦めきれず、結局16進法で使われるA〜Fまでも積極アピールし、見事に粉砕されてからやっとこの考え方をあきらめた。
姫川さんが言うには、10進法だの16進法なんかは、計算式さえわかっていれば2進法に変換することも難しくはないものだから、そんな安直考え方じゃダメということだそうだ。
そこで僕が導き出した結論が、0と1だけでは表現できないものを見つけるということ。ちょっと反則かとも思ったけど、姫川さんにそれとなく確認してみたらコクンとうなずいてくれたから、道筋として間違ってはいないんだと思う。
でも、それがわかったからと言ってすぐに答えが見つかるかと言えば、全然そんなことはなかった。
もちろん、全く見つからなかったわけではない。
例えば、感情は簡単には0と1に出来ない。そう考えた僕は、姫川さんを誘って映画に出かけた。まだ付き合ってるわけではなかったけど、二人で見に行った映画はカップル御用達の泣けるやつだったし、はたから見ればデートに見えていたに違いなかった。
でも、映画が終わった後、姫川さんは
「映画自体が0と1で記録されたもの。見れば感動するのだから、意味ない」
という素っ気ない感想。ただ、最後、別れ際に
「でも、楽しかった。ありがと」
そう言ってくれただけで、僕はまた力が湧いてくるようだった。
だけど、そこから先の道もかなり険しいものだった。すでに僕にはほとんどなんのアイデアも浮かんでこなかった。
自分でもだんだんと、何が0と1で構成できて、何ができないものなのかが分かってきていたから、ある意味、僕も彼女の0と1の世界に取り込まれちゃったと言えるかもしれない。
大学の理系に人にも2進法で表現できないものについて、聞いてみたりもしたが、それらしい答えはもらえなかった。そもそも、そんなこと考えたこともなかったっていう人が大半で、答えの多くが「すぐには答えられないからちょっと待ってくれ」というものになるのも無理はなかった。それに待ってもそんなに良い答えがもらえるというのも期待してはいない。
ただ、安堵すべきは、姫川さんに明確にすぐの誰かと付き合いたいというような様子がないことだ。じっくりと、時間をかけて僕が答えを探していられるのもそのおかげだった。
僕の心には、あの再開した日の姫川さんの「待っているから」という言葉だけが、原動力の中心になって挫けそうになる気持ちをどうにか支えていた。
その日、僕と姫川さんは大学が終わったあとに駅前で待ち合わせをし、二人でちょっとだけ遠出をしていた。
いわゆるデートっていうやつだ。
もう何回もこうやって二人だけでどこかに行くということを重ねていたから、まだ付き合うという返事はもらえてなかったけど、一緒に出かけてくれるし、嫌そうでもないからこれをデートって呼んでも誰にも文句は言われないよね、という慣れからくるどこか諦めにも似た気持ちを僕は持てるようになっていた。
事実、僕はすでに0と1以外の世界について考えることを半ば諦めつつもあった。姫川さんには悪いが、僕はこうやって二人だけでどこかに行くだけで十分幸せを経験していたから、彼女が本当に僕以外の誰かと付き合う、という日が来るその日までこのままの関係を続けていくだけでもいいかな、とすら考えていた。もちろん、「待ってる」と言ってくれた彼女の言葉に応えたいという気持ちもかなり大きいのだけど。
「見つかった?」
僕らが電車に乗って揺られていると、不意に隣に座っていた姫川さんがたずねてきた。
最近では、最初のころとはくらべものにならないぐらいに、僕らの会話はつながっていた。一年以上ブランクがあった上に、いろいろと思うところがあって(主に僕の事情だけど)疎遠になっていた僕らの関係は、以前の状態にほぼ戻ったと言っても過言ではなかった。
「ううん。考えてはいるんだけど、最近はなかなか見つからないね」
「そう。私は待ってるから」
ちょっと口を尖らせて残念そうに言って、姫川さんは前を向いてしまった。
今日の姫川さんは、涼しげな白のワンピースに、小さなハンドバッグを持っていた。いかにもという夏にぴったりの格好だった。そんなにおしゃれはしない彼女がそんな格好をしていたから、大学もその格好で行ったのかとも思ったが、一回家に帰って着替えたそうだ。
実は、僕はまだ彼女に今日の行き先を教えていなかった。ただ、一緒に来て見てもらいたいものがある、とだけ言って来てもらっていた。僕は、今日見てもらうものを、僕が彼女に見せる最後の答えにしようと考えていた。ネット上で見つけたとある景色のきれいな場所。それが僕の答えだった。
0と1は景色さえも写真として再構成することは可能だと、最初に会ったときに彼女から教えられた。ただ、映画とも写真とも違って生で見る景色というのには人の心を動かす力がある。だから、その景色を見た彼女は少しぐらい0と1のことを忘れてくれるんじゃないか、というか大した根拠もない結論であった。
「さ、着いた。ここからはバスで少し行くだけだよ」
そのバスを、ちょっとだけ町をはずれたところにある寂れたバス停で降り、僕は自然に姫川さんの手を取って歩き出す。目的地はこの道の先を右手に曲がったところにあった。
「ここだ!」
僕は道を曲がった瞬間に姫川さんにもわかるように、目の前に広がる黄金の太陽の海を腕で示した。
それは広大な敷地を利用した、満開のひまわり畑だった。そろって太陽の方向に顔を向けるひまわり達が、ちょうど太陽を背にした僕らの方を向いて咲き誇っている。
「すごい……きれい」
いつもあまり感情を見せてくれない姫川さんもこの時ばかりは、言葉の端々から感動が漏れ出していた。
僕の手を握っていた姫川さんの手が、するりと離れ、彼女は自分と同じくらいの背丈をした大きなひまわりの海に向かってゆっくりと近づいていった。
「目の前に広がる、雄大な景色の圧倒的な情報量。それから、それらが生み出す感動。これが僕の最終的なの答えじゃダメかな?」
僕はひまわりを眺める姫川さんの背中にそう告げた。
例え、写真に収めたとしてもこの景色の素晴らしさをすべて収めきることは難しいだろう。ひまわりの間を吹き抜ける風が、ひまわりをそっと揺らす、その光景の美しさと感動は映像にも映しきれない。
だから、0と1だけでは完全に再現できないほどのすばらしい景色。これが今の僕に出せる最高の答えだと確信していた。
姫川さんは僕の言葉を聞いた後もなにも言わずにひまわり畑に見入っていた。そんなに離れてるわけじゃないから聞こえなかったはずはない。
僕は不自然な沈黙を彼女が纏っているように感じた。
「そう。この景色が一条くんの出した結論なんだね」
やがて、ひまわりの方を向いたままそう言った姫川さんの声は暗く、沈んでいた。彼女のオーラを感じたひまわり達が風になびきながら、そっぽを向いたような気がした。
「一条くんは……なにもわかってくれてなかったんだね。0と1の世界についても。私についても」
首だけ僕のほうに振り返って俯いた姫川さんは、僕を一瞥するとひまわり畑の方に一歩踏み出した。その先はひまわりが乱立する天然の迷路しか存在しない。
「一条くんだけだった。0と1の世界にこんなに興味を持ってくれたの。期待してた。あなたなら、私をこの0と1だけの檻から出してくれんじゃないかって」
姫川さんはゆっくりとひまわりに飲み込まれていく。彼女の小柄な姿が大きなひまわりの影からちらちらとのぞく。
「私、そういう病気なんだって。精神病の一種。私の頭の中でね、どうしても0と1がこの世界を再構成しようとするの。…………こんなこと、一条くんに言ってもどうしようもないよね。ごめんね」
僕には、ひまわり畑に入っていく姫川さんの姿が、まるで黄金に輝く海に一人沈んでいくように見えた。
「待って!」
どうしようもなくて、情けない僕の声がかける制止にどれだけの効果があるのだろうか。
0と1の世界について少しはわかった気になっていた。でもホントは、わかった気になっていただけで、全然わかってなかった。どんな時でも0と1について考えてしまうということがどんなことなのかなんて、残念ながら僕には理解できなかった。
「いままで私のことを考えててくれてありがとう」
通り抜ける風がすっかりひまわり畑に飲み込まれてしまった姫川さんの声をささやきとして僕に届ける。
「ま、待ってよ、姫川さん。僕もっとがんばるから。君のこときっと理解するから。0と1についてもっと考えるから」
僕には彼女を理解しきるのは不可能だったけど。0と1の世界なんてさっぱりわかってなかったけど。たった一つわかるのは僕の前から消えていこうとする彼女を見るのがこんなにもつらいということ。
このまま姫川さんに好きな人ができて、その人と付き合うようになるまでずっと一緒にいられるだけでいいなんて、そんなのは大嘘だった。僕が逃げてただけだった。姫川さんはこんな僕に期待してくれてたのに、弱気になった僕は彼女の期待を裏切ってしまったのだ。
0だった僕の心には、いつの間にか姫川さんという1がしっかりと存在していたから、今更0に戻るなんて無理だった。
「お願いだ!」
僕の叫びは吹き抜ける風に押され、姫川さんには届かない。
彼女を追って飛び込んだ海は、彼女の姿を隠すように広がっていて、ひまわりたちは僕をあざ笑うようにザワザワ揺れた。
僕は彼女の消えた方向へひまわりをかき分け突き進む。先の見えない海を、おぼれそうになりながらも懸命に泳ぐように。
「一条くんには無理だよ」
ひまわりが途切れた、少しひらけた場所で、やっと見つけた姫川さんは僕の方を向いて言った。
彼女の寂しそうな笑顔が、僕の心を深くえぐる。
「そんなこと、ない。だから、きっと……」
いざ姫川さんを目の前にして、僕はもうなにを言ったらいいのかもわからなくなって、それでも無性に彼女が愛しくて、そのまま駆け寄ると力一杯に抱きしめた。絶対に彼女を離したくなかった。
最初、驚いたように僕の体を両手で押して離れようともがいていた姫川さんだったが、やがて力が抜けたように、ぽすん、と僕の胸の中に収まった。小柄な彼女の体をすっぽり覆うように僕は彼女を抱きしめる。
でもそれはさながら、大海原で溺れないように僕が彼女にしがみついているように思えた。
「……いじわる」
突然、彼女が僕の胸の中からくぐもった声でそんなことを言った。
「え?」
と、驚いて思わず力を抜いた僕の腕からするりと抜け出した姫川さんが逆に抱きついてくる。
「……ずるいよ。こんなの。こんな解決方法。私、今なにも考えられない。もうよくわかんない。0と1もない。ただ……あったかくて気持ちいい」
そして、今度は姫川さんの方から力一杯抱き締めてきた。彼女の力じゃ全然きつくはなかったけど、僕もそれに応えて力一杯抱きしめる。
そうするだけで、なにも考えなくても、とっても幸せなだった。
やがて、
「いたいよ、一条くん」
そう言って姫川さんは僕の中からするりと抜け出し、一歩後ろに下がった。
赤くなった顔を俯かせたまま、姫川さんが何かを言った。えっ? と、聞き返す僕に、姫川さんは顔を上げた。
「私も、一条くんのこと、ずっと好きだった。……いいよ」
なにがいいのか、それを聞く必要はなかった。そのまま身を乗り出すように爪先立ちになった彼女の潤んだ瞳が、僕に近づいてきたから。
いつのまにか空を真っ赤に染めていた太陽が、一つになった僕らの影を長く長く伸ばしていた。
あんなにひまわり畑を揺らしていた風もやんでいて、身動きをしないひまわりたちが僕らをそっと祝福してくれていた。
最近は0と1の世界を見ることが少なくなった。
僕らがつきあい始めてから数ヶ月がたって、姫川さんが僕に教えてくれた。事情はいろいろあるみたいだったけど、その病気がよい方向に向かったのは確実に僕のおかげだった。
なにせ、
「大学終わった。充電が足りないから迎えにきて」
と、大学が終了すると同時に電話をかけてくるのだ。充電というのはその名の通り、ものを動かすパワーのこと。
もちろん携帯のではない。姫川さんは実はロボットで、コンセント充電というわけでもない。
僕にはよくわかんなかったけど、0と1の世界を感じずにいるためのパワーのことだそうだ。というか、姫川さんが必要だって言うんだから、それができる僕が行くのにそれ以上の理由は必要じゃない。
充電時間は1分以上10分未満ってとこで、方法は力一杯抱きしめること。小柄な姫川さんがつぶれちゃうんじゃないかってぐらいにぎゅーっとするのだ。
姫川さんはわりと人目を気にしない性格のようで、人が見ていても平気で僕に抱きついてくるから、彼女の大学ではベタベタのカップルとして有名になってるとかなってないとか。
とにかく、僕を見つけて嬉しそうな笑顔で腕を広げて近づいてくる姫川さんは、容姿もあってちょっと幼く見え、それが凶悪なまでに可愛いのだ。もう僕らを止められるものはなにもないようだった。
一度、そのことを大学の友人に話したら、
「隙だらけの彼女じゃん、襲おうと思ったらいつでもヤれんな」
と、言われた。でも、姫川さんは普段はまだ0と1の世界のお姫様だったから、この隙は僕だけに見せるものだった。
お互い大好きなだけに、っていうのはちょっと寒いか。
それにしても、僕は相変わらず彼女のことを“姫川さん”と呼んでしまっている。付き合ってすぐに彼女は、僕のことを“一条くん”から“怜くん”にバージョンアップしてくれたのだが、僕はどうしても姫川さんと呼ぶのに慣れすぎてしまっていて容易に呼び方を変えられそうになかった。
“姫川さん”と呼んだときのペナルティーが充電なのもやっぱり問題があるのだと思う。一日の終わりに、
「今日は何回呼んだ」
と、わりと真剣な顔をして申告してくる姫川さんにも、絶対に非があると思う。その表情は怒ってるのに目が期待でキラキラしてる彼女を見たいが為に、やめられないというのもあながち間違ってない。
そんな充電ばっかりしてる僕らだったけど、0と1の世界が嫌いになったわけじゃない。忘れたいわけでもない。むしろ、常に感じることがなくなった分だけ、その世界に愛着がもてるようにもなった。
「世界の全てを1と0で再構成するのが私の夢」
それは、現実と何一つ変わらない、完全なバーチャルリアリティの世界のことだろうか。
やっぱり僕には専門的なことはわからなかったけど、そんな僕でも姫川さんとやっと同じ土俵に立ったと言えることがある。
それは、僕も姫川さんと同じくらい0と1の世界が好きになったこと。そして、僕らがたどり着いたこの境地すらも0と1で再構成することのできる日が来るのを楽しみにしてる人だっていうことだ。
僕がいて、彼女がいる。
それは0か1で言ったら、1と1だけど、こうして僕らは2人で1だから、どっちが欠けても0になる。
それ自体は単純な0と1だけど、それだけですべてが表現できるようになるんだから、この世界は素晴らしい。
プロットなし、見切り発車で書いた久しぶりの短編でした。前回の「君の記憶」から約10ヶ月が経過して、完全に過去のしがらみから解放されたのか、自分の中では全く新しい立ち位置の作品ができました。
改行の規則もよくあるライトノベルにあわせて変えてみたり、かつて捕らわれていた考え方の根本が変化したように感じました。読者にもそれが伝わっていたらうれしいですけど、たぶんそれは無理でしょうね。




