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悪役令嬢のエンディングノート

作者: くみの
掲載日:2026/10/14

 私は、自分の最期を知っている。


 静かな部屋で、鈍い金の盃が燭台の火を映していた。


 断罪を終えた悪役令嬢は、毒杯を前に、ひとり静かに微笑む。


 ――何がいけなかったのかしら?


 それが、原作小説の最後の一文だった。


 ……いや、待って。


 それ、私が読んだやつじゃない?


 恐る恐る顔を上げると、鏡の中に、金髪縦ロールの気の強そうな美少女がいた。


 イザベラ・フォン・ローゼンベルク。公爵令嬢。傲慢でわがまま、ヒロインをいじめ抜いたあげく、最後は毒杯をあおる悪役令嬢。


 私だった。


「…………え?」


 じゃあ、前世の私は?


 思い出そうとして、ぞわっとした。仕事帰りの途中から、記憶がぷつんと切れている。


「え? 死んだの? 私、死んだの?」


 その瞬間、前世の部屋が頭の中に一気に押し寄せた。


 床に積みっぱなしの段ボール。押し入れの奥の推しグッズ。消していないハードディスク。中学時代の黒歴史ノート。三年前から「そのうち連絡しよう」と思い続けていた友人。


「ちょっと待って。誰が片づけるの? あれ、誰かに見られるの!?」


 ベッドの上で枕を抱えて転げ回った。侍女が飛んでこなかったのは、たまたま席を外していたからだ。


 しかも思い出してしまった。私は終活ノートを買っていたのだ。一ページ目に名前、生年月日、血液型を書いただけで、引き出しの奥に突っ込んだままだ。


 エンディングノートなんて、見つけた人は中身を読むに決まっている。


 ……最悪だ。


 原作どおりなら、今世の私もいずれ処刑される。けれど、原作の細かい展開なんて、ほとんど覚えていない。


 しっかりと、ヒロインをいじめた記憶はある。


 だけど大事なのは、そこじゃない。


 今世は、突然死じゃない。準備する時間がある。


「今度こそ、後悔を残さないわ!」


 私は文具商を呼びつけ、いちばん立派な革の帳面を注文した。表紙には金文字で「エンディングノート」。


 届いたその日、私はさっそく一ページ目を開いた。


 まずは、名前。生年月日。血液型……は知らないわね。


 前世では、ここで満足してしまった。


 今度は違うわ!


 持ち物の整理。借りたもの、奪ったもの。お世話になった人への手紙。


 項目を書き出すだけで、胸がすっとした。


 最後のページには、ひとつだけ書いた。


 「これからやりたいこと」


 その下に、ペンを走らせる。


 ――外国に旅行する。


 死ぬ前に一度くらい、外の国を見てみたい。まあ、このくらいの軽い希望で十分だ。


 さあ、片っ端から片づけるわよ。


* * *


 それから私は、毎晩ノートに向かった。


 終わった項目に線を引くのが、たまらなく気持ちいい。前世では一本も引けなかった線が、日に日に増えていく。


「完璧だわ。この調子なら、いつ死んでも安心ね!」


 ガチャン、と音がした。


 振り向くと、侍女のミーナが、紅茶のカップを持ったまま固まっていた。


「お、お嬢様。今、なんと」


「身辺整理よ。そうだ、宝石箱はあなたにあげるわ。ほら、ここに書いてあるでしょう」


 ノートを開いて見せた。親切のつもりだった。


 ミーナの顔から、すうっと血の気が引いた。


「……失礼いたします」


 ふらふらと出ていく背中を見送って、私は首をかしげた。宝石箱が嬉しすぎたのだろうか。


 翌日から、ミーナはおかしくなった。


 紅茶を私に出す前に、必ず一口飲む。夜は部屋の前の椅子から動かない。私が窓を開けようとすると、どこからともなく走ってくる。


「ミーナ。あなた、最近変よ」


「いえ、お嬢様。どうか、ご無理だけはなさらないでください」


「はあ?」


 ミーナは、私が気まぐれに拾った孤児だ。私の性格の悪さは、誰より知っているはずなのに。宝石箱って、そんなに効くの?


 ……まあいいわ。紅茶が毎回ちょうどいい温度になったのは、悪くない。


 変化は、ミーナだけでは終わらなかった。


 私が廊下でこほんと咳をしただけで、通りがかったメイドが悲鳴を上げて医者を呼びに走った。階段を下りようとすれば、段の下に使用人が三人、両手を広げて並んでいる。


「なに、その陣形」


「お気になさらず!」


 食堂では、夕食を二口残しただけで、料理長が厨房から飛び出してきた。真っ青な顔で。


「お嬢様、お口に合いませんでしたか!? 作り直します! 今すぐ!」


「いえ、お腹がいっぱいなだけよ」


「それは大変だ!」


 何が大変なのか。


 でも、私は感心していた。


「皆、最近ずいぶん気が利くようになったわね」


 後ろでミーナが、ものすごい顔をしていた。


 そして、いちばん変だったのは、お父様とお母様だ。


 その晩の夕食で、お父様が咳払いをした。


「イザベラ。最近……その、困っていることはないか」


「眠れていますか? 食欲は?」


 お母様まで身を乗り出してくる。


 私は身構えた。今まで、家族そろって食事をしても、会話なんてなかったのに。


「困っていることなんてありませんわ。毎日、とても順調です」


「順調……? 何が、ですか」


「終活です」


「しゅうかつ」


「身辺整理のことですわ。もう、三ページ目まで進みましたのよ」


 お母様のフォークが、皿の上に落ちた。


 お父様が椅子を鳴らして立ち上がった。ミーナが壁際で、青い顔のまま小さく頷いている。


 ……なに、この空気。


 その後も、お父様は廊下で会うたびに「無理はするな」とだけ言うようになった。それ以上話題が続かず、二人で黙って立ち尽くすのが気まずい。


 お母様は、私の髪色に合わせた刺繍入りのハンカチをくれた。


 正直、悪い気はしない。理由はさっぱり分からないけれど。


* * *


 ある日、ノートの一項目で、私の手が止まった。


 「やり残したこと」の欄に、「王太子妃として」と書きかけていたのだ。


 ……王太子妃として、何を?


 考えてみる。王妃教育は退屈だった。社交界は面倒くさい。殿下とは、いつも天気の話しかしていない。


「あら? 私、別に王太子妃になりたいわけじゃないわ」


 ペンを持ったまま、ぽかんとした。


 十年近くも、当たり前みたいに思い込んでいたのに。


 それから、ふと気づく。リディアのことも、どうでもよくなっていた。


 原作のヒロインで、殿下の本命。私が憎むはずの相手。けれど最近は、顔を思い浮かべても、特に何も湧いてこない。そんなことを考えている暇があったら、手紙を一通書いたほうがずっと有意義だ。


 つまり、婚約者争いをする理由が、どこにもない。


 これは、ノートに書いておかないと。


 翌朝、私は朝食の席で言った。


「お父様、お母様。婚約を解消したいのです」


 お父様が、パンを喉に詰まらせた。


「ま、待て。どうして急に」


「殿下とは、天気の話しかしたことがありませんもの。それに、私もう、そんなことをしている時間が惜しくて」


 お母様が、そっと私の手を握った。


「イザベラ……あなたが、そこまで」


 お父様が立ち上がった。さっきまで詰まらせていたのに、目がぎらぎらしている。


「よし、解消しよう! 任せなさい! 賠償でも何でも、父さんが全部なんとかする!」


「あなた、陛下には私が先にお手紙を」


「いや、明日、直接乗り込む!」


 ……早い。


 うちの両親、こんなに行動力があったのね。


 話は驚くほどスムーズに進んだ。王家も同意してくれたらしい。お父様が賠償を引き受け、円満に解消する運びになった。ただし、正式な発表はパーティーまで秘密。揉め事を避けるためだそうだ。


 あとは、殿下へのご挨拶だけ。


 王宮の応接室で、私は背筋を伸ばして言った。


「長い間、お世話になりました。婚約解消の件、お受けくださって感謝しますわ」


 殿下は、ほうっと息を吐いた。心の底から、ほっとした顔だった。


「……そうか。いや、君も大変だったね」


 あ。


 この人も、別に私と結婚したかったわけじゃなかったのだ。


 お互いさまだった。そう思ったら、なんだか拍子抜けして、帰りの馬車で、私は少しだけ声を出して笑ってしまった。


* * *


 「借りたもの、奪ったもの」の返却は、順調だった。


 子爵令嬢クララの家には、使いを出す代わりに、自分で出向いた。三年前に「それ、私の方が似合うわ」と言って取り上げた髪飾りを返すためだ。


「お返しするわ。長いこと借りていて悪かったわね」


 箱を差し出すと、クララは受け取らず、じっと私を見た。


「……借りていた、んですか」


「ええ。借りていたの」


 取り上げた、とは言えなかった。さすがに。


 クララは、何も言わず箱を受け取った。


 これで一件落着。ノートに線を引こうとして、ペンが少しだけ止まった。クララの顔が、頭から離れなかったからだ。


 ……まあいい。返したんだから。


 取り巻きの三人、ベアトリス、カミラ、ドロシーの整理も済ませた。


「今月でお茶会は終わりにするわ。皆さん、お元気で」


 三人は、笑顔のまま固まった。


「イザベラ様? 何か、お気に障ることを」


「いいえ。ただ、時間がないの」


 三人は、顔を見合わせていた。何か言いたそうだったけれど、私はもう次の項目のことを考えていた。手紙だ。


 お世話になった人への手紙は、全部で七通書いた。解雇同然で辞めさせた家庭教師のハイネ先生、陰口で泣かせた同級生、ずっと放置していた叔母。それから、髪飾りを取り上げたクララ。


 丁寧に封をして、箱に入れ、ミーナに言った。


「私に何かあったら、これを出してちょうだい」


 ミーナは箱を両手で抱え、唇を噛んでうなずいた。


 翌朝、私の部屋の前で、目の下にくっきりくまを作ったミーナが立っていた。


「……お嬢様。ご無礼をお許しください」


 それだけ言って、ミーナは箱を抱えて走り去った。


 その日のうちに、手紙は全部出された。


 私が知ったのは、三日後だった。


「イザベラ様宛にお手紙が届いています。ハイネ先生という方から」


 封を切ると、几帳面な字が並んでいた。


『あのような手紙をいただくとは思いませんでした。私の教え方にも至らぬ点があったのでしょう。今度、お茶でもいかがですか』


 私は椅子から転げ落ちそうになった。


「ミーナ! どうして出したの!」


「お嬢様に何かあってからでは、遅いんです!」


 ミーナが、涙目で叫び返してきた。


「お嬢様は、確かに性格は悪いです! ですが、私を側に置いてくださったのもお嬢様です! 死んでから読まれても、遅いんです!」


 ……なるほど。


 言い返せなかった。


 返事は他にも届いた。叔母は「あなた、どこか悪いの?」と本気で心配してきた。同級生は返事をくれず、クララの家からは、封を切らないままの手紙が突き返されてきた。


 私はしばらく、その手紙を眺めていた。


 それから、ノートに線を引いた。


* * *


 パーティー当日。


 我が家はどの家よりも早く会場入りをし、控え室で待っていた。今日は婚約解消と、殿下とリディアの新しい婚約を発表する大事な夜だ。


 お父様は何度も襟元を直し、お母様は扇を握りしめている。


「落ち着いてください、お二人とも。私は、ちっとも緊張していませんわ」


「イザベラが一番落ち着いているのが、一番心配なんだ」


 なぜ。


 やがて招待客が集まり、大広間の方が賑やかになってきた。


 殿下は、先ほどから何度も入口に目を向けていた。


「申し上げます!」


 息を切らせた衛兵が、控え室に駆け込んできた。


「リディア様の馬車が、王宮へ向かう途中で事故に遭われました!」


 ざわっと、空気が揺れた。


「怪我は!?」


 殿下が叫んだ。


「軽傷とのことです。今、手当てを受けておられます。ただ……」


 衛兵は、言いよどんだ。


「車輪が走行中に外れて、馬車が横転したのですが、車軸に不自然な切り込みがありました。誰かが細工をした疑いがあります」


 みんなが静まり返った。


 そして、視線が、ゆっくりと、一斉に、私へ向いた。


「…………私、やってないわよ???」


 口から、素直な声が出た。


 だって、やってない。やる理由がない。リディアのことなんて、もう特に何とも思っていないのに。


 ……そこで、ふと頭の隅が動いた。


 馬車。細工。そういえば、原作で、あったような。


「……あら。やっぱり事件は起こるのね」


 ということは、私、死ぬのかしら?


 数秒、考えた。


「エンディングノートを書いておいてよかったー!」


 心から言った。


 まわりの空気が、さらに凍った。


「お、お嬢様……!」


 壁際のミーナが、信じられないものを見る目で私を見ている。お父様は頭を抱え、お母様は扇を取り落とした。


「イザベラ。頼むから、今は黙っていなさい」


 ……なぜ。


 騎士団長が進み出てきた。


「ローゼンベルク嬢。少し、お話を伺えますか」


「ええ、どうぞ。私はやっていません。やる理由がありませんもの」


「その理由を、詳しく――」


「待ってください!」


 お父様が、横から慌てて割って入った。


「娘は無関係です。それは私が保証します。ただ、その理由は、その、発表の……」


 婚約解消は、発表までは秘密なのだ。お父様が殿下に視線を送りながら、口をぱくぱくさせている間に、衛兵の一人が騎士団長に耳打ちした。


「厩舎で、不審な人物を拘束しました」


 犯人は、すぐに見つかった。


 私が関係を整理したばかりの、ベアトリスの使用人だった。


* * *


 控えの間に連れて来られたベアトリスは、私たちの前で、あっさりと白状した。


「イザベラ様のためでした! イザベラ様はずっと、リディアが邪魔だったのでしょう!?」


「私たちを遠ざけたのも、きっと、イザベラ様ご自身で決着をつけるおつもりで――」


「つけないわよ」


 私は、ため息をついた。


「頼んでないわ。そもそも、リディアのことなんて、もうどうでもいいの。婚約も、解消したのよ」


「……え?」


 ベアトリスの顔が、凍りついた。


「あ」


 お父様が、片手で顔を覆った。


「……言ってしまったか」


「どうせ、もうすぐ正式に発表される」


 殿下が、肩をすくめた。


 彼女は本当に何も知らなかったのだ。


 そして、私は気づいてしまった。


 ……私、あの子たちのこと、何も知らないわ。


 友人だと思ったことは、一度もなかった。私の言うことに頷いて、笑って、ついてくるだけの人たち。


 好きな食べ物も、家族のことも、何ひとつ知らない。私は、あの子たちをずっと、そういう存在として扱ってきた。


「あなたのしたことは、許せない。二度と、私の前に顔を出さないで」


 言ってから、胸が妙に重くなった。


 ベアトリスは私から目を離さず、静かに涙を流し続けている。


 ……これは、ノートに線を引いて終わるものじゃないわね。


* * *


 パーティーの大広間は、いつもより少し静かだった。


 壇上には王太子殿下と、右腕に包帯を巻いたリディアが並んで立っていた。


「本日は、報告がある」


 殿下の声が、広間に響いた。


「ローゼンベルク公爵令嬢イザベラとの婚約は、円満に解消された。そして私は、リディア嬢と婚約する」


 一瞬の静寂のあと、ざわめきが波のように広がった。


 視線が、一斉に私へ向く。


 哀れみ。好奇心。それから、冷たいもの。馬車の件は無関係だったと知れても、過去の私がやってきたことまで、きれいに消えるわけじゃない。


 ……まあ、そうよね。


 私は背筋を伸ばして、壇上のリディアと目を合わせた。彼女は少し驚いた顔をして、それから、小さく頭を下げてくれた。


 私も、頭を下げ返した。


 これからゆっくり、返していくしかない。ちゃんと、生きて。


 ……生きて?


 あら。今、私、何を考えたのかしら。


* * *


 その夜、部屋に戻った私は、ノートを開いた。


 いちばん後ろのページ。「これからやりたいこと」。


 そこには、最初に書いた一行だけが、ぽつんと残っている。


 ――外国に旅行する。


 死ぬ前に、一度くらい。あの頃は、それだけで十分だと思っていた。


 私はペンを持って、その下に書き足した。


 ハイネ先生と、お茶をする。


 書いてから、自分でも少し驚いた。手紙の返事に、まだ返事を出していない。


 お母様に、刺繍を習う。


 お父様と、ゆっくり話す。きっと、天気の話ではなく。


 ミーナに、新しいドレスを買う。


 クララにも、いつか、会いにいきたい。受け取ってもらえなくても、また行けばいい。


 ペンが、止まらなくなった。


 ページがどんどん埋まっていく。海の向こうのお菓子を食べる。星のきれいな国で夜更かしする。


「……あら?」


 私は、手を止めた。


「私、まだまだやりたいことがあるわ」


 死ぬ準備のはずだったのに。


 ノートは、いつのまにか、これからの計画書になっていた。


「お嬢様、お茶です」


 ミーナが、今夜は毒味もせずに紅茶を置いた。ノートをのぞき込んで、目を丸くする。


「……外国、ですか」


「行くわよ。あなたも来なさい。荷造りは任せるわ」


「えっ、私も? お嬢様、また勝手に――」


「宝石箱をあげるって言ったでしょう」


「それ、もうとっくに頂きましたけど!?」


 ミーナが笑った。私も笑った。


 私は新しいページに、旅の行き先をひとつ、大きく書いた。


 まずは、海の見える国から。

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