悪役令嬢のエンディングノート
私は、自分の最期を知っている。
静かな部屋で、鈍い金の盃が燭台の火を映していた。
断罪を終えた悪役令嬢は、毒杯を前に、ひとり静かに微笑む。
――何がいけなかったのかしら?
それが、原作小説の最後の一文だった。
……いや、待って。
それ、私が読んだやつじゃない?
恐る恐る顔を上げると、鏡の中に、金髪縦ロールの気の強そうな美少女がいた。
イザベラ・フォン・ローゼンベルク。公爵令嬢。傲慢でわがまま、ヒロインをいじめ抜いたあげく、最後は毒杯をあおる悪役令嬢。
私だった。
「…………え?」
じゃあ、前世の私は?
思い出そうとして、ぞわっとした。仕事帰りの途中から、記憶がぷつんと切れている。
「え? 死んだの? 私、死んだの?」
その瞬間、前世の部屋が頭の中に一気に押し寄せた。
床に積みっぱなしの段ボール。押し入れの奥の推しグッズ。消していないハードディスク。中学時代の黒歴史ノート。三年前から「そのうち連絡しよう」と思い続けていた友人。
「ちょっと待って。誰が片づけるの? あれ、誰かに見られるの!?」
ベッドの上で枕を抱えて転げ回った。侍女が飛んでこなかったのは、たまたま席を外していたからだ。
しかも思い出してしまった。私は終活ノートを買っていたのだ。一ページ目に名前、生年月日、血液型を書いただけで、引き出しの奥に突っ込んだままだ。
エンディングノートなんて、見つけた人は中身を読むに決まっている。
……最悪だ。
原作どおりなら、今世の私もいずれ処刑される。けれど、原作の細かい展開なんて、ほとんど覚えていない。
しっかりと、ヒロインをいじめた記憶はある。
だけど大事なのは、そこじゃない。
今世は、突然死じゃない。準備する時間がある。
「今度こそ、後悔を残さないわ!」
私は文具商を呼びつけ、いちばん立派な革の帳面を注文した。表紙には金文字で「エンディングノート」。
届いたその日、私はさっそく一ページ目を開いた。
まずは、名前。生年月日。血液型……は知らないわね。
前世では、ここで満足してしまった。
今度は違うわ!
持ち物の整理。借りたもの、奪ったもの。お世話になった人への手紙。
項目を書き出すだけで、胸がすっとした。
最後のページには、ひとつだけ書いた。
「これからやりたいこと」
その下に、ペンを走らせる。
――外国に旅行する。
死ぬ前に一度くらい、外の国を見てみたい。まあ、このくらいの軽い希望で十分だ。
さあ、片っ端から片づけるわよ。
* * *
それから私は、毎晩ノートに向かった。
終わった項目に線を引くのが、たまらなく気持ちいい。前世では一本も引けなかった線が、日に日に増えていく。
「完璧だわ。この調子なら、いつ死んでも安心ね!」
ガチャン、と音がした。
振り向くと、侍女のミーナが、紅茶のカップを持ったまま固まっていた。
「お、お嬢様。今、なんと」
「身辺整理よ。そうだ、宝石箱はあなたにあげるわ。ほら、ここに書いてあるでしょう」
ノートを開いて見せた。親切のつもりだった。
ミーナの顔から、すうっと血の気が引いた。
「……失礼いたします」
ふらふらと出ていく背中を見送って、私は首をかしげた。宝石箱が嬉しすぎたのだろうか。
翌日から、ミーナはおかしくなった。
紅茶を私に出す前に、必ず一口飲む。夜は部屋の前の椅子から動かない。私が窓を開けようとすると、どこからともなく走ってくる。
「ミーナ。あなた、最近変よ」
「いえ、お嬢様。どうか、ご無理だけはなさらないでください」
「はあ?」
ミーナは、私が気まぐれに拾った孤児だ。私の性格の悪さは、誰より知っているはずなのに。宝石箱って、そんなに効くの?
……まあいいわ。紅茶が毎回ちょうどいい温度になったのは、悪くない。
変化は、ミーナだけでは終わらなかった。
私が廊下でこほんと咳をしただけで、通りがかったメイドが悲鳴を上げて医者を呼びに走った。階段を下りようとすれば、段の下に使用人が三人、両手を広げて並んでいる。
「なに、その陣形」
「お気になさらず!」
食堂では、夕食を二口残しただけで、料理長が厨房から飛び出してきた。真っ青な顔で。
「お嬢様、お口に合いませんでしたか!? 作り直します! 今すぐ!」
「いえ、お腹がいっぱいなだけよ」
「それは大変だ!」
何が大変なのか。
でも、私は感心していた。
「皆、最近ずいぶん気が利くようになったわね」
後ろでミーナが、ものすごい顔をしていた。
そして、いちばん変だったのは、お父様とお母様だ。
その晩の夕食で、お父様が咳払いをした。
「イザベラ。最近……その、困っていることはないか」
「眠れていますか? 食欲は?」
お母様まで身を乗り出してくる。
私は身構えた。今まで、家族そろって食事をしても、会話なんてなかったのに。
「困っていることなんてありませんわ。毎日、とても順調です」
「順調……? 何が、ですか」
「終活です」
「しゅうかつ」
「身辺整理のことですわ。もう、三ページ目まで進みましたのよ」
お母様のフォークが、皿の上に落ちた。
お父様が椅子を鳴らして立ち上がった。ミーナが壁際で、青い顔のまま小さく頷いている。
……なに、この空気。
その後も、お父様は廊下で会うたびに「無理はするな」とだけ言うようになった。それ以上話題が続かず、二人で黙って立ち尽くすのが気まずい。
お母様は、私の髪色に合わせた刺繍入りのハンカチをくれた。
正直、悪い気はしない。理由はさっぱり分からないけれど。
* * *
ある日、ノートの一項目で、私の手が止まった。
「やり残したこと」の欄に、「王太子妃として」と書きかけていたのだ。
……王太子妃として、何を?
考えてみる。王妃教育は退屈だった。社交界は面倒くさい。殿下とは、いつも天気の話しかしていない。
「あら? 私、別に王太子妃になりたいわけじゃないわ」
ペンを持ったまま、ぽかんとした。
十年近くも、当たり前みたいに思い込んでいたのに。
それから、ふと気づく。リディアのことも、どうでもよくなっていた。
原作のヒロインで、殿下の本命。私が憎むはずの相手。けれど最近は、顔を思い浮かべても、特に何も湧いてこない。そんなことを考えている暇があったら、手紙を一通書いたほうがずっと有意義だ。
つまり、婚約者争いをする理由が、どこにもない。
これは、ノートに書いておかないと。
翌朝、私は朝食の席で言った。
「お父様、お母様。婚約を解消したいのです」
お父様が、パンを喉に詰まらせた。
「ま、待て。どうして急に」
「殿下とは、天気の話しかしたことがありませんもの。それに、私もう、そんなことをしている時間が惜しくて」
お母様が、そっと私の手を握った。
「イザベラ……あなたが、そこまで」
お父様が立ち上がった。さっきまで詰まらせていたのに、目がぎらぎらしている。
「よし、解消しよう! 任せなさい! 賠償でも何でも、父さんが全部なんとかする!」
「あなた、陛下には私が先にお手紙を」
「いや、明日、直接乗り込む!」
……早い。
うちの両親、こんなに行動力があったのね。
話は驚くほどスムーズに進んだ。王家も同意してくれたらしい。お父様が賠償を引き受け、円満に解消する運びになった。ただし、正式な発表はパーティーまで秘密。揉め事を避けるためだそうだ。
あとは、殿下へのご挨拶だけ。
王宮の応接室で、私は背筋を伸ばして言った。
「長い間、お世話になりました。婚約解消の件、お受けくださって感謝しますわ」
殿下は、ほうっと息を吐いた。心の底から、ほっとした顔だった。
「……そうか。いや、君も大変だったね」
あ。
この人も、別に私と結婚したかったわけじゃなかったのだ。
お互いさまだった。そう思ったら、なんだか拍子抜けして、帰りの馬車で、私は少しだけ声を出して笑ってしまった。
* * *
「借りたもの、奪ったもの」の返却は、順調だった。
子爵令嬢クララの家には、使いを出す代わりに、自分で出向いた。三年前に「それ、私の方が似合うわ」と言って取り上げた髪飾りを返すためだ。
「お返しするわ。長いこと借りていて悪かったわね」
箱を差し出すと、クララは受け取らず、じっと私を見た。
「……借りていた、んですか」
「ええ。借りていたの」
取り上げた、とは言えなかった。さすがに。
クララは、何も言わず箱を受け取った。
これで一件落着。ノートに線を引こうとして、ペンが少しだけ止まった。クララの顔が、頭から離れなかったからだ。
……まあいい。返したんだから。
取り巻きの三人、ベアトリス、カミラ、ドロシーの整理も済ませた。
「今月でお茶会は終わりにするわ。皆さん、お元気で」
三人は、笑顔のまま固まった。
「イザベラ様? 何か、お気に障ることを」
「いいえ。ただ、時間がないの」
三人は、顔を見合わせていた。何か言いたそうだったけれど、私はもう次の項目のことを考えていた。手紙だ。
お世話になった人への手紙は、全部で七通書いた。解雇同然で辞めさせた家庭教師のハイネ先生、陰口で泣かせた同級生、ずっと放置していた叔母。それから、髪飾りを取り上げたクララ。
丁寧に封をして、箱に入れ、ミーナに言った。
「私に何かあったら、これを出してちょうだい」
ミーナは箱を両手で抱え、唇を噛んでうなずいた。
翌朝、私の部屋の前で、目の下にくっきりくまを作ったミーナが立っていた。
「……お嬢様。ご無礼をお許しください」
それだけ言って、ミーナは箱を抱えて走り去った。
その日のうちに、手紙は全部出された。
私が知ったのは、三日後だった。
「イザベラ様宛にお手紙が届いています。ハイネ先生という方から」
封を切ると、几帳面な字が並んでいた。
『あのような手紙をいただくとは思いませんでした。私の教え方にも至らぬ点があったのでしょう。今度、お茶でもいかがですか』
私は椅子から転げ落ちそうになった。
「ミーナ! どうして出したの!」
「お嬢様に何かあってからでは、遅いんです!」
ミーナが、涙目で叫び返してきた。
「お嬢様は、確かに性格は悪いです! ですが、私を側に置いてくださったのもお嬢様です! 死んでから読まれても、遅いんです!」
……なるほど。
言い返せなかった。
返事は他にも届いた。叔母は「あなた、どこか悪いの?」と本気で心配してきた。同級生は返事をくれず、クララの家からは、封を切らないままの手紙が突き返されてきた。
私はしばらく、その手紙を眺めていた。
それから、ノートに線を引いた。
* * *
パーティー当日。
我が家はどの家よりも早く会場入りをし、控え室で待っていた。今日は婚約解消と、殿下とリディアの新しい婚約を発表する大事な夜だ。
お父様は何度も襟元を直し、お母様は扇を握りしめている。
「落ち着いてください、お二人とも。私は、ちっとも緊張していませんわ」
「イザベラが一番落ち着いているのが、一番心配なんだ」
なぜ。
やがて招待客が集まり、大広間の方が賑やかになってきた。
殿下は、先ほどから何度も入口に目を向けていた。
「申し上げます!」
息を切らせた衛兵が、控え室に駆け込んできた。
「リディア様の馬車が、王宮へ向かう途中で事故に遭われました!」
ざわっと、空気が揺れた。
「怪我は!?」
殿下が叫んだ。
「軽傷とのことです。今、手当てを受けておられます。ただ……」
衛兵は、言いよどんだ。
「車輪が走行中に外れて、馬車が横転したのですが、車軸に不自然な切り込みがありました。誰かが細工をした疑いがあります」
みんなが静まり返った。
そして、視線が、ゆっくりと、一斉に、私へ向いた。
「…………私、やってないわよ???」
口から、素直な声が出た。
だって、やってない。やる理由がない。リディアのことなんて、もう特に何とも思っていないのに。
……そこで、ふと頭の隅が動いた。
馬車。細工。そういえば、原作で、あったような。
「……あら。やっぱり事件は起こるのね」
ということは、私、死ぬのかしら?
数秒、考えた。
「エンディングノートを書いておいてよかったー!」
心から言った。
まわりの空気が、さらに凍った。
「お、お嬢様……!」
壁際のミーナが、信じられないものを見る目で私を見ている。お父様は頭を抱え、お母様は扇を取り落とした。
「イザベラ。頼むから、今は黙っていなさい」
……なぜ。
騎士団長が進み出てきた。
「ローゼンベルク嬢。少し、お話を伺えますか」
「ええ、どうぞ。私はやっていません。やる理由がありませんもの」
「その理由を、詳しく――」
「待ってください!」
お父様が、横から慌てて割って入った。
「娘は無関係です。それは私が保証します。ただ、その理由は、その、発表の……」
婚約解消は、発表までは秘密なのだ。お父様が殿下に視線を送りながら、口をぱくぱくさせている間に、衛兵の一人が騎士団長に耳打ちした。
「厩舎で、不審な人物を拘束しました」
犯人は、すぐに見つかった。
私が関係を整理したばかりの、ベアトリスの使用人だった。
* * *
控えの間に連れて来られたベアトリスは、私たちの前で、あっさりと白状した。
「イザベラ様のためでした! イザベラ様はずっと、リディアが邪魔だったのでしょう!?」
「私たちを遠ざけたのも、きっと、イザベラ様ご自身で決着をつけるおつもりで――」
「つけないわよ」
私は、ため息をついた。
「頼んでないわ。そもそも、リディアのことなんて、もうどうでもいいの。婚約も、解消したのよ」
「……え?」
ベアトリスの顔が、凍りついた。
「あ」
お父様が、片手で顔を覆った。
「……言ってしまったか」
「どうせ、もうすぐ正式に発表される」
殿下が、肩をすくめた。
彼女は本当に何も知らなかったのだ。
そして、私は気づいてしまった。
……私、あの子たちのこと、何も知らないわ。
友人だと思ったことは、一度もなかった。私の言うことに頷いて、笑って、ついてくるだけの人たち。
好きな食べ物も、家族のことも、何ひとつ知らない。私は、あの子たちをずっと、そういう存在として扱ってきた。
「あなたのしたことは、許せない。二度と、私の前に顔を出さないで」
言ってから、胸が妙に重くなった。
ベアトリスは私から目を離さず、静かに涙を流し続けている。
……これは、ノートに線を引いて終わるものじゃないわね。
* * *
パーティーの大広間は、いつもより少し静かだった。
壇上には王太子殿下と、右腕に包帯を巻いたリディアが並んで立っていた。
「本日は、報告がある」
殿下の声が、広間に響いた。
「ローゼンベルク公爵令嬢イザベラとの婚約は、円満に解消された。そして私は、リディア嬢と婚約する」
一瞬の静寂のあと、ざわめきが波のように広がった。
視線が、一斉に私へ向く。
哀れみ。好奇心。それから、冷たいもの。馬車の件は無関係だったと知れても、過去の私がやってきたことまで、きれいに消えるわけじゃない。
……まあ、そうよね。
私は背筋を伸ばして、壇上のリディアと目を合わせた。彼女は少し驚いた顔をして、それから、小さく頭を下げてくれた。
私も、頭を下げ返した。
これからゆっくり、返していくしかない。ちゃんと、生きて。
……生きて?
あら。今、私、何を考えたのかしら。
* * *
その夜、部屋に戻った私は、ノートを開いた。
いちばん後ろのページ。「これからやりたいこと」。
そこには、最初に書いた一行だけが、ぽつんと残っている。
――外国に旅行する。
死ぬ前に、一度くらい。あの頃は、それだけで十分だと思っていた。
私はペンを持って、その下に書き足した。
ハイネ先生と、お茶をする。
書いてから、自分でも少し驚いた。手紙の返事に、まだ返事を出していない。
お母様に、刺繍を習う。
お父様と、ゆっくり話す。きっと、天気の話ではなく。
ミーナに、新しいドレスを買う。
クララにも、いつか、会いにいきたい。受け取ってもらえなくても、また行けばいい。
ペンが、止まらなくなった。
ページがどんどん埋まっていく。海の向こうのお菓子を食べる。星のきれいな国で夜更かしする。
「……あら?」
私は、手を止めた。
「私、まだまだやりたいことがあるわ」
死ぬ準備のはずだったのに。
ノートは、いつのまにか、これからの計画書になっていた。
「お嬢様、お茶です」
ミーナが、今夜は毒味もせずに紅茶を置いた。ノートをのぞき込んで、目を丸くする。
「……外国、ですか」
「行くわよ。あなたも来なさい。荷造りは任せるわ」
「えっ、私も? お嬢様、また勝手に――」
「宝石箱をあげるって言ったでしょう」
「それ、もうとっくに頂きましたけど!?」
ミーナが笑った。私も笑った。
私は新しいページに、旅の行き先をひとつ、大きく書いた。
まずは、海の見える国から。




