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拍手の多い部屋 〜嘘をつくと部屋じゅうが拍手するので、俺は毎晩ひとりで喋っている〜

作者: たいよう
掲載日:2026/08/16

川島修一が生まれて初めて拍手喝采を浴びたのは、母親に嘘をついたときだった。


「土曜? ああ、ちょっと友達と食事だから」


電話の向こうで母親が「あら珍しい」と言った直後、部屋いっぱいに拍手が起きた。


最初は、テレビだと思った。


テレビはついていなかった。


パソコンも閉じてある。スマートフォンから聞こえる音ではない。台所、浴室、押し入れ、天井裏。どこか一箇所からではなく、四方から同時に、大勢の人間が両手を打ち合わせている。


拍手は七秒ほど続き、急にやんだ。


「いまの何?」


母親にも聞こえていた。


「店にいる」


また拍手が起きた。


先ほどより大きかった。


「ずいぶん盛り上がってる店ね」


「人気店だから」


歓声まで混じった。


修一は電話を切った。


土曜日に予定はなかった。友達との食事も、店も、人気店もなかった。


ただし、嘘なら何でも拍手されるわけではなかった。


「冷蔵庫の中に馬がいる」


何も起きない。


「俺は五歳だ」


静かだった。


「昨日、三回歯を磨いた」


ぱらぱらと、十人ほどが義理で手を叩いた。


実際には一回だった。


「今年は本を百冊読んだ」


拍手が増えた。指笛が一つ聞こえた。


実際には二冊で、一冊は途中だった。


「会社は俺がいないと回らない」


地鳴りのような拍手が起きた。何人かが立ち上がった気配までした。


隣室の壁が三度叩かれた。


修一は大学ノートを出し、表紙に「拍手」と書いた。試した発言と反応を記録した。


嘘であること。


事実より自分が少し立派に見えること。


聞き手がいるつもりで話すこと。


この三つが揃うと、部屋は拍手をするらしい。


「自分は昔から孤独を愛する人間だ」


その日最大の拍手が起きた。


修一はノートに二重丸をつけた。


翌朝のオンライン会議で、部長が週末の予定を尋ねた。修一はいつもなら「特にありません」と答えるところを、「知り合いの出版記念会へ行きます」と言った。


拍手が起きた。


画面の中で、同僚たちが一斉に顔を上げた。


「川島さん、いま人います?」


「いや、テレビです」


拍手。


「生放送?」


「録画です」


拍手。


「ずいぶん川島さんの発言に合ってますね」


修一はマイクを切った。


昼休み、もう一度試した。


議題は、社内アンケートの集計方法だった。修一が作った表を部長へ見せると、複雑すぎて使いにくいと言われた。


「海外の先進企業では、すでにこの形式が標準です」


盛大な拍手が起きた。


部長は黙った。


実際には、修一が昨夜考えた形式だった。


「そこまで評価されている方式なら、試してみようか」


修一の案が通った。


その週、修一は二つの会議で提案を通し、三人の同僚に週末の予定を聞かれ、母親には交際相手がいると思わせた。


夜になると、一人でも拍手を出した。


「今日は忙しくて昼食を取る暇もなかった」


実際は二時間昼寝していた。


「最近、相談されることが多い」


誰からも連絡はなかった。


「一人の時間が必要なんだ」


これには毎回、天井が震えるほどの拍手が起きた。


一日目は、拍手のあいだ息を止めていた。三日目には、止めなくなった。


拍手が終わると、修一は次の嘘を考えた。


木曜日の夜、玄関のチャイムが鳴った。


ドアを開けると、隣室の小森杏奈が立っていた。二十九歳。宅配便が互いの部屋へ誤配されたときと、エレベーターで一緒になったときに話したことがある。それ以外について修一が知っているのは、帰宅が遅いことと、夏でも大きなヘッドホンを首にかけていることくらいだった。


「夜の拍手なんですけど」


「はい」


「十時までにしてもらえますか。私も部屋で音声を録っていて、たまに入るんです」


「配信をしてるんですか」


「週に一回だけ。聞いてる人、ほとんどいませんけど」


「そうなんですね」


杏奈は修一の肩越しに部屋を見た。


「あの拍手、川島さんの配信ですよね」


「仕事なんです」


拍手が起きた。


「やっぱり」


「配信をしています」


拍手が一段大きくなった。


「どんな配信ですか」


「雑談です」


拍手。


「チャンネル名、教えてください」


「招待制なので」


拍手。


「雑談配信が招待制?」


「限られた人だけで、深い話をする番組です」


拍手。


杏奈は少し考えた。


「会員、何人くらいですか」


修一も少し考えた。


「十二万人ほど」


大歓声が起きた。


杏奈の眉が上がった。


「十二万人」


「国内だけで、ですけど」


指笛が加わった。


「私、登録者八十六人です」


「始めたばかりなら、そんなものですよ」


「三年目です」


「固定の八十六人は強いです」


今度は何も起きなかった。


修一は、余計なことを言ったと思った。


「一度、見学させてもらえませんか。話し方とか、勉強したいです」


「一般の方は入れません」


拍手。


「隣人でも?」


「観覧は抽選です」


「応募します」


「倍率が高いので」


「どのくらい?」


「千倍です」


歓声と足踏みが起きた。


杏奈はそれが収まるまで待った。


「当たる気がしません」


「今回は特別に、ご招待します」


部屋が割れそうなほどの拍手が起きた。


見学は、翌日の午後八時に決まった。


金曜日、修一は午後半休を取った。


量販店でリングライトとスマートフォン用の三脚を買い、背後の洗濯物が映らないよう、壁に紺色のシーツを貼った。棚には読んでいない本を並べた。表紙が見えるよう、五冊だけ横向きに置いた。


番組名は「ひとりを楽しむ夜」にした。


自分で考えておきながら、口に出すと拍手が起きた。


杏奈は七時四十分に来た。コンビニの紙袋を提げていた。


「配信者には糖分が必要かと思って」


中にはプリンが二つ入っていた。


「観覧だけです」


「十二万人の前で食べても?」


「映らない席があります」


拍手。


杏奈は三脚のスマートフォンを見た。


「画面、消えてますよ」


「音声配信です」


拍手。


「リングライトは?」


「気持ちを切り替えるためです」


拍手。


「便利ですね、その説明」


修一は杏奈をライトの外へ座らせた。


「配信中は、話しかけないでください」


「コメントはどこで見るんですか」


「モデレーターから要約が来ます」


拍手。


「今日は来てないみたいですけど」


「心で受け取ります」


その日最大の拍手が起きた。


午後八時、修一は電源の入っていないスマートフォンへ向かって話し始めた。


「こんばんは。『ひとりを楽しむ夜』、本日も始めていきます」


拍手。


「今夜も全国から、たくさんの方にご参加いただいています」


拍手。


「登録者は昨日から二万人増えて、十四万人になりました」


大歓声。


杏奈が手を上げた。


「昨日、十二万人でしたよね」


「配信中です」


「一晩で二万人?」


「大きな反響がありました」


拍手。


「何に?」


「昨日の配信に」


「テーマは?」


「他人の数字と自分を比べない方法です」


床が震えるほどの拍手が起きた。


杏奈は手を下ろした。


「続けてください」


修一は配信者らしく、人差し指を立てた。


「今夜のテーマは、他人の評価に振り回されず、自分らしく生きる方法です」


拍手。


「大切なのは、自分を実際より大きく見せようとしないことです」


喝采。


「ありのままの自分を受け入れれば、人は孤独を恐れなくなります」


歓声と口笛。どこかで「そうだ」と叫ぶ声までした。


杏奈がプリンの蓋を開けた。


「川島さん」


「配信中です」


「川島さんが嘘をつくと、拍手されるんですか」


修一は笑った。


「まさか」


拍手。


「違います」


拍手。


「番組の演出です」


拍手。


「音響スタッフが操作しています」


大歓声。


「スタッフはどこに?」


「遠隔です」


拍手。


「十二万人も遠隔?」


「視聴者は別です」


「十四万人になったんじゃ?」


修一はリングライトを消した。


急に部屋が暗くなり、紺色のシーツはただの紺色のシーツへ戻った。読んでいない本の背表紙だけが、照明を反していた。


「配信はしていません」


拍手は起きなかった。


「登録者もいません」


静かだった。


「会社では、顧客管理システムの問い合わせに答えています。出版や映像の知り合いはいません。音楽関係は、大学の同級生がカラオケ店で働いていましたが、十年前に連絡が切れました」


「各方面にいるんじゃなかったんですか」


「各方面の全員と連絡が切れています」


「それは一方面です」


「はい」


杏奈はプリンを一口食べた。


「友達との食事は?」


「母に言っただけです」


「なぜ」


「予定がないと言うと、母が少し黙るので」


「その沈黙が嫌なんですか」


「次の声が、やさしくなるんです」


「ああ」


「やさしくされるほどではないと思っているので」


「十四万人に拍手されるほどではあるのに」


「それは、まあ」


修一はリングライトのコードを巻き始めた。途中にねじれがあり、きれいな輪にならなかった。


「最初は怖かったんです。でも二日目からは、一人でも嘘を言って拍手を出していました」


「練習?」


「誰かが反応している感じがしたので」


「私も母には、登録者が八百人いると言ってます」


何も起きなかった。


杏奈は天井を見た。


「これは川島さん専用なんですね」


「そうみたいです」


「八十六人のうち、毎回聞いてくれるのは七人です」


「七人もいるなら、いいじゃないですか」


「今のは慰めですか」


「本当にそう思います」


部屋は静かだった。


「オンライン会議も、全員が退出するまで最後に残ります」


「どうして?」


「先に切ると、残った人たちが自分の話をするような気がするからです」


「しますよ」


「そうですか」


「川島さん以外の話を」


「それなら構いません」


何も起きなかった。


修一はコードを巻くのをやめた。


「今年、この部屋に入ったのは小森さんが初めてです」


「もう十一月ですよ」


「はい」


「それで、私に人気者だと思われたかった」


「はい」


「若い女性だから?」


修一は紺色のシーツを見た。下の角だけ、粘着テープが剥がれていた。


「それもあります」


何も起きなかった。


「正直ですね」


「いまは、嘘だと分かったあとも帰らないでほしいと思っています」


部屋は静かだった。


杏奈はプリンを置いた。


両手を膝から持ち上げ、一度だけ打ち合わせた。


ぱん、と乾いた音がした。


「今のは」


「分かっています」


「念のためです。私は音響スタッフではありませんから」


杏奈は二つ目のプリンを修一へ差し出した。


翌週の金曜日、杏奈は夕食を持ってきた。


近所の店のカレーだった。二人分にしてはナンが多く、十四万人分にしてはまったく足りなかった。


食べ始めたところで、修一の母親から電話が来た。


「今、電話して大丈夫?」


「うん」


「何してたの?」


修一は向かいに座る杏奈を見た。


「隣の小森さんと夕飯を食べてる」


母親は少し黙った。


拍手は起きなかった。


「小森さんって、どんな方?」


「音声配信をしてる人」


「有名なの?」


杏奈がこちらを見た。


「登録者は八十六人。でも、毎回聞いてる人が七人いる」


「あら、すごいじゃない」


「うん。すごいと思う」


電話を切ると、杏奈が一度だけ手を叩いた。


「本当のときは、手動なんですね」


「毎回しなくて大丈夫です」


部屋中から、割れんばかりの拍手が起きた。


杏奈はカレーへ戻しかけたスプーンを止めた。


「そこは嘘なんですね」


「音が大きいので」


拍手。


「では来週から、一回だけにします」


杏奈はそう言って、ナンをもう一枚取った。


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