拍手の多い部屋 〜嘘をつくと部屋じゅうが拍手するので、俺は毎晩ひとりで喋っている〜
川島修一が生まれて初めて拍手喝采を浴びたのは、母親に嘘をついたときだった。
「土曜? ああ、ちょっと友達と食事だから」
電話の向こうで母親が「あら珍しい」と言った直後、部屋いっぱいに拍手が起きた。
最初は、テレビだと思った。
テレビはついていなかった。
パソコンも閉じてある。スマートフォンから聞こえる音ではない。台所、浴室、押し入れ、天井裏。どこか一箇所からではなく、四方から同時に、大勢の人間が両手を打ち合わせている。
拍手は七秒ほど続き、急にやんだ。
「いまの何?」
母親にも聞こえていた。
「店にいる」
また拍手が起きた。
先ほどより大きかった。
「ずいぶん盛り上がってる店ね」
「人気店だから」
歓声まで混じった。
修一は電話を切った。
土曜日に予定はなかった。友達との食事も、店も、人気店もなかった。
ただし、嘘なら何でも拍手されるわけではなかった。
「冷蔵庫の中に馬がいる」
何も起きない。
「俺は五歳だ」
静かだった。
「昨日、三回歯を磨いた」
ぱらぱらと、十人ほどが義理で手を叩いた。
実際には一回だった。
「今年は本を百冊読んだ」
拍手が増えた。指笛が一つ聞こえた。
実際には二冊で、一冊は途中だった。
「会社は俺がいないと回らない」
地鳴りのような拍手が起きた。何人かが立ち上がった気配までした。
隣室の壁が三度叩かれた。
修一は大学ノートを出し、表紙に「拍手」と書いた。試した発言と反応を記録した。
嘘であること。
事実より自分が少し立派に見えること。
聞き手がいるつもりで話すこと。
この三つが揃うと、部屋は拍手をするらしい。
「自分は昔から孤独を愛する人間だ」
その日最大の拍手が起きた。
修一はノートに二重丸をつけた。
翌朝のオンライン会議で、部長が週末の予定を尋ねた。修一はいつもなら「特にありません」と答えるところを、「知り合いの出版記念会へ行きます」と言った。
拍手が起きた。
画面の中で、同僚たちが一斉に顔を上げた。
「川島さん、いま人います?」
「いや、テレビです」
拍手。
「生放送?」
「録画です」
拍手。
「ずいぶん川島さんの発言に合ってますね」
修一はマイクを切った。
昼休み、もう一度試した。
議題は、社内アンケートの集計方法だった。修一が作った表を部長へ見せると、複雑すぎて使いにくいと言われた。
「海外の先進企業では、すでにこの形式が標準です」
盛大な拍手が起きた。
部長は黙った。
実際には、修一が昨夜考えた形式だった。
「そこまで評価されている方式なら、試してみようか」
修一の案が通った。
その週、修一は二つの会議で提案を通し、三人の同僚に週末の予定を聞かれ、母親には交際相手がいると思わせた。
夜になると、一人でも拍手を出した。
「今日は忙しくて昼食を取る暇もなかった」
実際は二時間昼寝していた。
「最近、相談されることが多い」
誰からも連絡はなかった。
「一人の時間が必要なんだ」
これには毎回、天井が震えるほどの拍手が起きた。
一日目は、拍手のあいだ息を止めていた。三日目には、止めなくなった。
拍手が終わると、修一は次の嘘を考えた。
木曜日の夜、玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、隣室の小森杏奈が立っていた。二十九歳。宅配便が互いの部屋へ誤配されたときと、エレベーターで一緒になったときに話したことがある。それ以外について修一が知っているのは、帰宅が遅いことと、夏でも大きなヘッドホンを首にかけていることくらいだった。
「夜の拍手なんですけど」
「はい」
「十時までにしてもらえますか。私も部屋で音声を録っていて、たまに入るんです」
「配信をしてるんですか」
「週に一回だけ。聞いてる人、ほとんどいませんけど」
「そうなんですね」
杏奈は修一の肩越しに部屋を見た。
「あの拍手、川島さんの配信ですよね」
「仕事なんです」
拍手が起きた。
「やっぱり」
「配信をしています」
拍手が一段大きくなった。
「どんな配信ですか」
「雑談です」
拍手。
「チャンネル名、教えてください」
「招待制なので」
拍手。
「雑談配信が招待制?」
「限られた人だけで、深い話をする番組です」
拍手。
杏奈は少し考えた。
「会員、何人くらいですか」
修一も少し考えた。
「十二万人ほど」
大歓声が起きた。
杏奈の眉が上がった。
「十二万人」
「国内だけで、ですけど」
指笛が加わった。
「私、登録者八十六人です」
「始めたばかりなら、そんなものですよ」
「三年目です」
「固定の八十六人は強いです」
今度は何も起きなかった。
修一は、余計なことを言ったと思った。
「一度、見学させてもらえませんか。話し方とか、勉強したいです」
「一般の方は入れません」
拍手。
「隣人でも?」
「観覧は抽選です」
「応募します」
「倍率が高いので」
「どのくらい?」
「千倍です」
歓声と足踏みが起きた。
杏奈はそれが収まるまで待った。
「当たる気がしません」
「今回は特別に、ご招待します」
部屋が割れそうなほどの拍手が起きた。
見学は、翌日の午後八時に決まった。
金曜日、修一は午後半休を取った。
量販店でリングライトとスマートフォン用の三脚を買い、背後の洗濯物が映らないよう、壁に紺色のシーツを貼った。棚には読んでいない本を並べた。表紙が見えるよう、五冊だけ横向きに置いた。
番組名は「ひとりを楽しむ夜」にした。
自分で考えておきながら、口に出すと拍手が起きた。
杏奈は七時四十分に来た。コンビニの紙袋を提げていた。
「配信者には糖分が必要かと思って」
中にはプリンが二つ入っていた。
「観覧だけです」
「十二万人の前で食べても?」
「映らない席があります」
拍手。
杏奈は三脚のスマートフォンを見た。
「画面、消えてますよ」
「音声配信です」
拍手。
「リングライトは?」
「気持ちを切り替えるためです」
拍手。
「便利ですね、その説明」
修一は杏奈をライトの外へ座らせた。
「配信中は、話しかけないでください」
「コメントはどこで見るんですか」
「モデレーターから要約が来ます」
拍手。
「今日は来てないみたいですけど」
「心で受け取ります」
その日最大の拍手が起きた。
午後八時、修一は電源の入っていないスマートフォンへ向かって話し始めた。
「こんばんは。『ひとりを楽しむ夜』、本日も始めていきます」
拍手。
「今夜も全国から、たくさんの方にご参加いただいています」
拍手。
「登録者は昨日から二万人増えて、十四万人になりました」
大歓声。
杏奈が手を上げた。
「昨日、十二万人でしたよね」
「配信中です」
「一晩で二万人?」
「大きな反響がありました」
拍手。
「何に?」
「昨日の配信に」
「テーマは?」
「他人の数字と自分を比べない方法です」
床が震えるほどの拍手が起きた。
杏奈は手を下ろした。
「続けてください」
修一は配信者らしく、人差し指を立てた。
「今夜のテーマは、他人の評価に振り回されず、自分らしく生きる方法です」
拍手。
「大切なのは、自分を実際より大きく見せようとしないことです」
喝采。
「ありのままの自分を受け入れれば、人は孤独を恐れなくなります」
歓声と口笛。どこかで「そうだ」と叫ぶ声までした。
杏奈がプリンの蓋を開けた。
「川島さん」
「配信中です」
「川島さんが嘘をつくと、拍手されるんですか」
修一は笑った。
「まさか」
拍手。
「違います」
拍手。
「番組の演出です」
拍手。
「音響スタッフが操作しています」
大歓声。
「スタッフはどこに?」
「遠隔です」
拍手。
「十二万人も遠隔?」
「視聴者は別です」
「十四万人になったんじゃ?」
修一はリングライトを消した。
急に部屋が暗くなり、紺色のシーツはただの紺色のシーツへ戻った。読んでいない本の背表紙だけが、照明を反していた。
「配信はしていません」
拍手は起きなかった。
「登録者もいません」
静かだった。
「会社では、顧客管理システムの問い合わせに答えています。出版や映像の知り合いはいません。音楽関係は、大学の同級生がカラオケ店で働いていましたが、十年前に連絡が切れました」
「各方面にいるんじゃなかったんですか」
「各方面の全員と連絡が切れています」
「それは一方面です」
「はい」
杏奈はプリンを一口食べた。
「友達との食事は?」
「母に言っただけです」
「なぜ」
「予定がないと言うと、母が少し黙るので」
「その沈黙が嫌なんですか」
「次の声が、やさしくなるんです」
「ああ」
「やさしくされるほどではないと思っているので」
「十四万人に拍手されるほどではあるのに」
「それは、まあ」
修一はリングライトのコードを巻き始めた。途中にねじれがあり、きれいな輪にならなかった。
「最初は怖かったんです。でも二日目からは、一人でも嘘を言って拍手を出していました」
「練習?」
「誰かが反応している感じがしたので」
「私も母には、登録者が八百人いると言ってます」
何も起きなかった。
杏奈は天井を見た。
「これは川島さん専用なんですね」
「そうみたいです」
「八十六人のうち、毎回聞いてくれるのは七人です」
「七人もいるなら、いいじゃないですか」
「今のは慰めですか」
「本当にそう思います」
部屋は静かだった。
「オンライン会議も、全員が退出するまで最後に残ります」
「どうして?」
「先に切ると、残った人たちが自分の話をするような気がするからです」
「しますよ」
「そうですか」
「川島さん以外の話を」
「それなら構いません」
何も起きなかった。
修一はコードを巻くのをやめた。
「今年、この部屋に入ったのは小森さんが初めてです」
「もう十一月ですよ」
「はい」
「それで、私に人気者だと思われたかった」
「はい」
「若い女性だから?」
修一は紺色のシーツを見た。下の角だけ、粘着テープが剥がれていた。
「それもあります」
何も起きなかった。
「正直ですね」
「いまは、嘘だと分かったあとも帰らないでほしいと思っています」
部屋は静かだった。
杏奈はプリンを置いた。
両手を膝から持ち上げ、一度だけ打ち合わせた。
ぱん、と乾いた音がした。
「今のは」
「分かっています」
「念のためです。私は音響スタッフではありませんから」
杏奈は二つ目のプリンを修一へ差し出した。
翌週の金曜日、杏奈は夕食を持ってきた。
近所の店のカレーだった。二人分にしてはナンが多く、十四万人分にしてはまったく足りなかった。
食べ始めたところで、修一の母親から電話が来た。
「今、電話して大丈夫?」
「うん」
「何してたの?」
修一は向かいに座る杏奈を見た。
「隣の小森さんと夕飯を食べてる」
母親は少し黙った。
拍手は起きなかった。
「小森さんって、どんな方?」
「音声配信をしてる人」
「有名なの?」
杏奈がこちらを見た。
「登録者は八十六人。でも、毎回聞いてる人が七人いる」
「あら、すごいじゃない」
「うん。すごいと思う」
電話を切ると、杏奈が一度だけ手を叩いた。
「本当のときは、手動なんですね」
「毎回しなくて大丈夫です」
部屋中から、割れんばかりの拍手が起きた。
杏奈はカレーへ戻しかけたスプーンを止めた。
「そこは嘘なんですね」
「音が大きいので」
拍手。
「では来週から、一回だけにします」
杏奈はそう言って、ナンをもう一枚取った。




