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ユは幽霊屋敷のユ  作者: 夏乃緒玻璃


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2/2

山よりきたりて 後編

 翌朝、昨夜のことを話すと、父は少し驚いたように目を細めたが、すぐに苦笑した。


「そうか。お前も見たんだな」


 湯呑を置いた父の目は、遠い過去を見つめるように曇っていた。

「俺も子供の頃、あの山で迷ったことがある。真っ暗で泣きそうになっていたら、白い着物の女が現れて歌っていたんだ。『赤い靴』をな」


 父は続けた。

「それが生きている人間ではない事はすぐわかった。女は言った――いや、頭の中に話しかけられたのかもしれない。『自分はサナトリウムに閉じ込められて、空襲から逃げられず死んだ患者だ』って」


 僕は父の幽霊譚に圧倒されながら聞いた。

「サナトリウムって?」


 父は噛み砕くように説明した。

「昔は結核が流行っていて、人にうつるから町に置いておけず、山奥に隔離する病院を造った。それがサナトリウムだ。建物は人里離れた場所にあって、周囲の道はわざと迷路みたいに入り組ませてあった。患者が外へ出られないように、そして近づく者を遠ざけるためにな。俺が迷ったのも、そのせいだ」


 父は苦い顔をした。

「女は、この山から無事に出してやるかわりに、麓の小屋にある像を壊してほしいと頼んできた。理由を聞くと、やはり頭の中に声が響いた。――『あれは結界‥わたしをしばりつけて‥ここから出られない‥』母から聞いた話では、その小屋は昔、自警団の休憩所だったらしい。山道を行き来する人に声をかけ、迷わないよう注意する『お見張りさん』がいたという。戦争中はそんな余裕もなく、やがて人の代わりに仏像が置かれた。

 しかもそれは馬頭観音のように不気味な姿で、子供たちはバチが当たるから触るな、と言われていたそうだ。」


 父はしばらく黙り込み、やがて低く言った。

「女は迷路を抜けて山を出る道順を教えてくれた。それで助かった俺はすぐに小屋に入った。でも、結局壊せなかった。山の中に置いてきた幽霊より、目の前の不気味な像を恐れて、頼まれたのに果たせなかったんだ」


 その声には恐怖と罪悪感が混じっていた。だが次の言葉は、奇妙な安堵を含んでいた。


「ただな、去年一時ここに大掃除の為に来た時、小屋に入り込んだ浮浪者か何かが像を壊したと聞いた」


「不思議なもんだよ。あの時果たせなかった約束が、結果的に成就されたわけだ。だからかもしれないな。新居の抽選に当たったり、仕事が順調だったり、幸運続きなんだ。やっぱり、あの像は仏像なんかじゃなく、霊を縛りつけて成仏を妨げる悪いものだったんじゃないかと思うんだ」 


 亡霊の話をしているはずなのに、父はまるで懐かしい思いでのように明るく語る。そして、最後にポツリと付け足した。

「もっと早く壊していればよかったんだろうな。」


 ――え、壊した?まさかそれじゃ‥。


 父の話には何か大きな落とし穴があるような気がした。


 何か言おうとした時、父は時計に目をやり、肩を伸ばした。

「前から言ってあった通り、午後には出張に出なきゃならん。三日間、関西だ。母さんも明後日まで旅行だし、夜は圭一人になる。大丈夫、だよな?」


 僕は思わず顔をしかめた。

「ぼく、一人。嫌だよ、そんな!」


 昨夜の幽霊の影がまだ頭から離れない。あの白い着物の女の声、窓の外に漂う気配――。父の出張は前からの予定通りのことなのに、胸の奥で冷たいものが広がった。

「父さん、おかしいよ!幽霊なんだよ?そんなものがすぐそこにいるのに、幸運だの何だの。すぐ家の前まできて、ガタガタと扉を揺すったんだよ!」


「扉の音は昨日、風が強かったからだろう」

 僕は捲し立てたが、父さんは冷静に言った。


「それに、入って来なかったんだろう?あれは可哀想な患者の霊だ。無害な存在なんだよ。とはいえ、そうだな」


 父は僕の不安を察したように、少し柔らかい声で言った。

「まだ少し時間はある。せっかくだから、あの小屋を見に行こうか。きちんと供養はした方がいいだろう」


 僕は不安を抱えたままだったが、父は日本酒の瓶と塩を持ち出し、僕を伴って山の麓の掘立小屋へ向かった。


 小屋は古びていて、板壁はところどころ剥がれ、風が吹くたびに軋んだ音を立てた。中に入ると、埃にまみれた台座がぽつんと残されていた。そこにはかつて仏像が据えられていたと思われる痕跡があり、今は空っぽだった。


 父は台座の前に日本酒と塩を供え、手を合わせた。 「……約束は遅れたが、ようやく果たせた。これからも見守ってくれ」

 その声は妙に晴れやかで、僕には逆に不気味に響いた。


 僕は父の背後で、台座の脇に貼られた古びた札に目を留めた。紙は黄ばんで端が剥がれかけ、風に揺れていた。――結界の名残だろうか。


 父が目を閉じている隙に、僕はそっとその札を剥がし、懐に忍ばせた。


 父は小屋から出る直前、我が家の方を確認して、ここからだとあんな風に見えるのか、とぽつりと漏らした。

 ふと家の玄関の方を見やり、神妙な顔で言う。


「あの扉も古いな。ガタがきている」


 僕はぎゅっと袖を握った。

「亡霊がまた来たら開いちゃうんじゃないの?」


 父は振り返り、穏やかに笑った。

「心配するな。もう成仏したはずだ。昨夜来たというなら、礼を言いに来ただけだろう」


 さっき父は、これからも守ってくれと言った。成仏したのに?それに、父の話が事実なら亡霊が礼を言う相手は、どこかの浮浪者ではないのか。


 どこか遠くで誰かがクスリと笑ったような気配がした。

 風の音かもしれない。だが僕の背筋はぞくりと冷えた。


 父親が出かけてしまったその夜。

 僕は決して窓を見ないと心に決めていた。昨夜のことを思い出すだけで、背筋が冷たくなる。

 小屋で拾ったお札は、部屋の入り口にセロハンテープで貼り付けた。気休めくらいにはなるだろう。

 部屋のあかりは消さなかった。蛍光灯の白い光が畳の上に広がり、影を作る。布団を頭からすっぽり被り、蒸し暑さに耐えながらじっと息を潜めた。


 耳を澄ますと、外から虫の声が聞こえる。その合間に、かすかに「カサッ」と枯れ葉を踏むような音が混じった気がした。昨夜のように玄関を揺らすこともなく、ただ庭のあたりをうろついているようだった。

 しかし、もしかしたらそれは父が言う様に風の仕業、山から吹いてくる不規則な風の悪戯なのかもしれない。

 そんな風にも思えてきた。

 やがて音は遠ざかり、虫の声だけが残った。僕はようやく目を閉じた。眠れたわけではない。ただ、あかりの下で夜をやり過ごすしかなかった。


 翌日、僕は前日無事だった油断と、ちっぽけなプライドのせいで、またこの部屋で夜を迎える事になってしまった。誰でもいいから友達の家に泊めて貰いたかったが、どこもあまりにも遠かったし、何よりお化けが怖いから泊めてくれだなどとは言えなかったせいだ。


 二日目の深夜。


 布団の中で眠れずにいた僕は、カタン、と言う音が響くのを聞いた。それはガタついている扉が開いた音だと気付いた。


 家の中に何かが入って来た気配がした。――みし、みし。階段が軋む。ゆっくりと、一段ずつ確かめるように、何かが上ってくる。


 僕は布団を頭まで被り、息を止めた。心臓の鼓動が耳の奥で爆音のように響く。――みし、みし。

 足音は二階に達し、廊下をギシ、ギシと軋ませ進んでくる。布か絹か何かが擦れるような音がした。

 足音は部屋の前で止まった。扉の向こうに「それ」が立っている。探している。

 しかし、なぜか部屋の中には入ってこない。

 見えていないのか。あの古い札のおかげなのか。


 静寂。


 その後、辿々《たどたど》しい声が漏れた。


「‥いない‥いない‥いない‥」


 声は女のものに似ていたが、辿々しくイントネーションが崩れていた。まるで何かが人間の言葉を真似しているだけのようだった。

 布団の中で目を閉じても、声は耳の奥に響いてくる。

 ――いない。いない。いない。


 やがて、足音が再び動き出した。廊下を戻り、階段を下りていく。

 ――みし、みし。

 抑揚のおかしい歌がまた聞こえてきた。

「あかいくつ‥はぁいてた‥」


 歌声は遠ざかり、やがて消えた。

 僕は汗にまみれながら、ただ震えていた。

 助かった。怪異は去った。


 長い沈黙が続いた。時計の針の音だけが響く。

 守られたのかもしれない。

 布団の中で涙が滲み、ようやく眠れるかもしれないと思った。


 ◇◇◇


 同じ頃、父と母は静かにメールを交わしていた。


 妻「‥本当にいいの? あの子を差し出すなんて。私たちの子よ」

 父「俺だって嫌だ。けど、もう逃げられないんだ」

 妻「仏像を壊したんでしょう? あれで終わりじゃなかったの?」

 父「違う。あれは始まりだった。この土地に戻って以来ずっとだ。毎晩、夢に女が出てきて『いない、いない』と俺を探していた。そしてついに捕まった。俺は仏像を壊すことで約束を果たした。だがそれで解放されたのは封印だけだ。次に別の代償を求められた」

 妻「別の代償‥」

 父「一番大事なものを差し出せと。俺にはもう選べない。抗えば俺たちごと呑まれる。死ぬだけじゃすまない」

 妻「そんな‥」

 父「子供はまた作れる。けど、あれに抗えば全部終わる。どうしようもないんだ。あれは、サナトリウムの気の毒な患者なんかじゃない。あれはきっともっと古くから、迷路や見張りで隔離されていたものだ。サナトリウムは、その地形を利用して後から作られただけだ。俺たちはずっと、もっと古いものに囚われているんだ」

 妻「‥‥」


 ◇◇◇


 ようやく眠れるかもしれない‥その安堵の直後、玄関の戸を叩く音がした。


「圭ちゃーん! 鍵を忘れちゃった! 開けてー!」


 母の声だった。明るく、いつもの調子で呼んでいる。

 僕は飛び起きた。ひとりきりの夜が終わるのだと思った。駆け下りる。

 しかし、鍵を開ける前にガラリ、と戸が開いた。


 笑顔の母が立っていた。

 その口から、絞り出すような低い声が呟く。

「結界‥から‥出た。いた‥いた‥いた」


 母だったものの顔が歪み、何か別のモノに変わっていく。それは、狂喜に満ちた声で歌い出した。


「――あかいくつ、はいてた‥あかいくつ、はぁいてた‥」

 音程は外れ、言葉は崩れ、まるで動画がバグって同じ場面を延々ループしているようだった。

 その歌は意味を持たず、ただ狂気だけを響かせていた。

 もはや母とは似ても似つかない「それ」は焦点の合わない目でこちらを見ていた。


 そして僕は、異人さんに連れられて行くのは、女の子ではなく僕自身なのだと理解した。


 サナトリウムの患者の亡霊か、それとももっと古くから山にいたものか。


「それ」が結局なんだったのかいまだにわからない。ただ、僕がこの窓から見ていたのは、決して見てはいけないものだったのは間違いないだろう。


 僕の意識はそこで途絶えた。


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