神栖にて、風が止むとき
第8話
鹿島神宮の駅に降り立ったとき、茜の胸は、ひと息ごとに軋むように痛んだ。
初めての町、見慣れない景色。けれど、空だけは覚えていた。
あの日、彼と見上げた、あの高く澄んだ空に、よく似ていたから。
宿を取ることはできなかった。
女学生がひとりで軍の街を訪れるには、あまりにも不自然すぎた。
だから彼女は、町はずれの小さな食堂で皿洗いを手伝いながら、
朝も夕も、神栖の空を見上げて過ごした。
皿の泡をすすぎながら、
ふいに吹き抜ける風の匂いに、彼の影を探していた。
それがどれほど願いに近いものだったか、彼女自身、気づいていた。
そして数日後。
それは、何の前触れもなく、ふとした夕暮れに訪れた。
食堂の裏手、小道の先――
逆光の向こうから、ひとりの青年が歩いてくるのが見えた。
あまりにも自然に、風景に溶け込むようにそこにいた。
――千寿さん。
胸の奥から何かが音を立てて弾け、
気がつけば、彼女は駆け出していた。
土を踏む音も、胸の痛みも、すべて霞んでいた。
彼は立ち止まり、まっすぐにこちらを見つめていた。
夕日がその輪郭を金に縁取り、影だけが静かに揺れていた。
「……茜?」
その声は、夢ではなかった。
かすかに掠れ、けれど確かに、彼の声だった。
彼女の胸に、一瞬で過去の記憶が蘇る。
「どうして、ここに……?」
「逢いたかったの。……どうしても、一目だけでも」
声が震えていたのは、風のせいだけではなかった。
言葉よりも、目に宿る願いが、彼の胸を強く打った。
千寿は、目を伏せた。
まるでその視線の重さから逃れるように。
「……無茶をするな。ここは、君が来る場所じゃない」
「そうかもしれない。でも、もうすぐ夏が終わってしまう。
だから、どうしても言いたかったの」
言葉は小さく、しかし凛としていた。
「わたし……ずっと、あの日から、あなたのことばかり考えていたの。
朝に風が吹くたび、陽だまりに触れるたび、
あの畦道で、あなたと並んだ時間を思い出していた。
どうか――どこへ行っても、わたしのこと、忘れないで」
千寿の肩が、ほんの少し揺れた。
目を伏せたまま、一歩だけ近づいてきた。
「……俺は、君に何も残せない。
きっと、何も言わずに――姿を消すかもしれないんだ」
その声は、空に溶けてしまいそうなほど静かだった。
「いいの。わたしは、信じてる。
あなたが、あの日笑ってくれたことも、
風の中に生きているって思わせてくれたことも、
全部、わたしの生きていく力になるから」
あと一歩。
ふたりの距離が、風も触れられないほど近づいた。
沈黙が、まるで世界のすべてを包み込んでいた。
蝉の声さえ止まり、光だけがふたりを照らしていた。
千寿は、そっと茜の手を取った。
細くて、あたたかくて、ほんのすこし震えていた。
そのぬくもりは、あの日の朝と、何ひとつ変わっていなかった。
「……ありがとう。来てくれて、ほんとうに、ありがとう」
彼女はただ、かすかに頷いた。
言葉では足りなかった。けれど、それで十分だった。
夕暮れの空がゆっくりと沈んでいく中、
ふたりの影が静かに重なって、溶けていった。
その夜、茜は千寿から一通の手紙を受け取った。
封は開けなかった。まだ読まない、と決めた。
それは、未来のどこかで、彼と再び出会うための――
想いの続きだった。