風の向こうに、まだ見ぬ明日を
第7話
千寿が霞ヶ浦を離れてから、茜の暮らしは、少しずつ、けれど確かに、色を変えていった。
空襲の足音は日増しに大きくなり、街全体が息をひそめていた。
それでも茜は、毎朝きまって、丘の上を目指した。
あの夏、千寿と出会った場所。
風が草を揺らし、空が大きく広がっていたあの場所には、今も変わらず、静かな光が降りていた。
彼女はそこを、「ふたりの空」と呼んでいた。
——もし、もう一度声をかけてくれたなら。
——もし、あの風の中に、千寿の呼ぶ声があったなら。
叶わないとわかっていても、耳を澄ますたび、胸の奥が小さく震えた。
誰にも聞こえない呼び声が、風に溶けて、茜の心を撫でていくようだった。
「……千寿さん……」
彼女は、声にならない声で、そっと名を呼んだ。
学校は空襲によって閉ざされ、街は防空壕の整備で騒がしくなっていた。
それでも、茜の時間は、静かだった。
母の針の音を聞きながら、暮れなずむ時間になると机に向かい、紙の上にそっと言葉を置いた。
《千寿さんへ
今日の空は、きれいな金色でした。
あなたの見ている空と、つながっているでしょうか。
あの日、あなたの手がほんの少し、わたしの指に触れたとき、
そのあたたかさを、わたしはまだ忘れられません。》
誰に届けるわけでもない。
それでも、茜は自分の心に静かに灯をともすように、言葉を書き続けた。
帰りを待つ人々の姿が、街角に影を落としていた。
ラジオからは、終わりの気配がひそやかに流れはじめていた。
そんなある日。
防空壕のそばを通りかかったとき、すれ違った若い海軍の兵が、ふと口にした。
「……あいつ、桜花に乗るらしいって噂だけどな……千寿ってやつ……」
時間が止まったようだった。
胸の奥が、すうっと冷たくなる。
耳に残るのは、たしかに「千寿」と。彼の名前。
桜花。
その名を、彼女は知っていた。
命の帰らぬ飛行機。
未来を翼ごと手放す兵器。
それでも彼がそんなものに乗るはずがない。
そう思いたかった。
けれど、どんなに目をそらそうとしても、耳に残ったあの声が消えない。
あれはきっと、風のなかに紛れていた彼の呼ぶ声だったのだ。
「茜」と。そう、小さく、呼んだ声。
——いま、行かなければ。
彼が、わたしを呼んだのだ。
その夜、茜は母の前に座り、深く頭を下げた。
「神栖に、行きたいの。
せめて、声だけでも、かけたいの……」
母は、手にした裁ちばさみをそっと置いた。
言葉のかわりに、うなずいた。
「……気をつけて。ほんとうに、大切な人なんでしょう?」
それだけ言うと、母はもうなにも聞かなかった。
だから茜も、それ以上の言葉を持たなかった。
その夕暮れ、夏の風が街の匂いを洗い流していくなか、茜は小さな鞄を手に駅へと歩いた。
汽車の窓に映る景色は、どこまでも淡く、どこまでも揺れていた。
神栖へ。
あの空の下へ。
この想いが、まだ間に合うのなら。
風のむこうにいる人へ、もう一度、手を伸ばすために。
茜の頬を撫でた風は、そのまま真っ直ぐ、神栖の空へと吹いていった。