遠き空に、君を想う
第6話
神之池海軍航空隊——。
その名が示す通り、ここは水と空に囲まれた場所だった。
霞のように淡く朝霧が漂い、水面には淡く空が映り込んでいる。
まるで現実と夢の境界線が曖昧になっていくようで、
霞ヶ浦のざらついた浜風とはまた違う、静かな孤独がこの地にはあった。
千寿は分隊の中でも最年少で、まだあどけなさを残していた。
だが、澄んだ瞳の奥には、他の誰よりも覚悟があった。
風の匂いを感じる勘と、機体を手のひらでなぞるような繊細な操縦感覚。
それは教官たちの間でも一目置かれていた。
「おい、千寿。風呂、いっしょに行くか」
同室の中村が声をかける。
千寿はわずかに微笑み、けれど返事をせずに、手の中のノートをそっと閉じた。
ページの隙間には、くすんだ薄紅色の紙が挟まれていた。
——あの日、霞ヶ浦を発つ朝に、茜が差し出してくれた饅頭の包み紙。
それが、彼の唯一の栞だった。
(……元気にしてるかな)
手を止め、風の匂いを感じながら、彼は目を閉じる。
思い出すのは、あの畦道の角で出会った朝。
白いブラウスが朝日に透けて、髪が風にふわりと揺れていた。
何も言わずに、それでも何かを悟ったような、静かな瞳。
あの瞬間から、彼の中にある世界は、ほんのわずかに、でも確かに変わったのだ。
別れ際、茜が何も言わずに手を添えてくれた感触。
その温度が、指先に残っている気がした。
声をかけようとして、けれどできなかった。
あの一歩が、あの瞬間が、
もし違うものだったなら——
そんなことを、何度も何度も、夜ごとに繰り返し思った。
神栖での訓練は容赦なかった。
とくに桜花の模擬搭乗訓練では、1秒の判断が生死を分ける。
冷たく硬質な空気、爆音と静寂の繰り返し。
そんな中でも、千寿はどこか柔らかい顔をしていた。
「千寿、なんでそんなに落ち着いてられるんだ?」
ある日、先輩の搭乗員が不思議そうに訊いた。
千寿は黙って空を見上げた。
澄みきった空の奥に、遠く霞んだ水の気配があった。
そして、小さく呟いた。
「……待ってくれてる人が、いるから」
たったそれだけの言葉に、彼のすべてが詰まっていた。
その声は震えていた。
けれど、誰も何も言わなかった。
彼の胸の内に宿る灯火のようなものを、皆どこかで感じ取っていた。
夜、訓練の合間。
誰もいない窓辺にひとり腰かけ、千寿はときおり手紙を書いた。
それは、決して出すことのない宛先への手紙だった。
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《茜へ。
今日も、無事でした。 神栖は静かです。水の音が、耳の奥に染みるようで。 君の声を、時々思い出します。 「また会えるよ、きっと」って——。 あの言葉が、今の僕を支えています。 君が見ていた空と、同じ空を僕も見ています。 たとえ遠く離れていても、心だけは……近くに、いてほしいと思ってしまうんだ。
君が笑っていてくれたら、それだけで十分です。 いつか、また——。》
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手紙を書き終えると、千寿はそれを風にかざし、
何も言わずに、そっと胸ポケットにしまった。
この想いは誰にも見せない。
けれどそれは、確かに彼を支えているものだった。
誰にも見せない涙がある。
誰にも言えない想いがある。
でも、それは決して弱さなんかじゃない。
それらを抱えながら、それでも空へ向かう者たちの、静かな強さなのだ。
その夜、神栖の空には、星がひとつ、ひどく明るく輝いていた。
まるで、誰かの小さな祈りを映すかのように。