雲が低く降りる朝に
第5話
新しい土地、神栖。
朝靄にけむって、まるでこの世の境目のようだった。
千寿は、霞ヶ浦を離れ、仲間と共にその地へ移っていた。
いよいよ桜花の実機訓練が始まる――そう告げられた時、心のどこかが静かに沈んだ。
ここは霞ヶ浦よりも、さらに音が少ない気がした。
空も、土も、水も、ただ張りつめた沈黙をまとって、兵たちを見つめ返している。
窓の外には、神栖の広がりと、松の並木。
その奥に、帰る場所のない空が、果てしなく横たわっていた。
訓練は、厳しいというより無慈悲だった。
桜花は、操縦の自由さえ奪い取って、ただ「帰らない」という目的のために組まれた機体だった。
千寿はそれを、受け止めようとしていた。
心の奥で、何かが少しずつ削れていくのを、感じながら。
それでも夜になると、思い出してしまう。
霞ヶ浦のあぜ道、稲の匂い、風の声。
茜の指先が、微かに震えていたこと。
神社の短冊に書いた言葉――
「きみに、春がきますように」
それを読んだときの彼女のひとことが、胸の奥にずっと残っていた。
「ばかみたい……それ、願いじゃなくて、祈りだよ」
それからしばらくして。
千寿は、ふと手紙を書いた。
簡単な言葉で、居場所だけを記して。
「……もし来られるなら、会いたい」
それは、ひどく勝手な呼びかけだった。
けれど、あの風の中で、たったひとつ願ったことが、心の底に残っていて。
もう一度、彼女の声が聞きたくなったのだ。
そして、ある日。
午前の訓練が終わった後のことだった。
神栖のほとりを歩いていると、駅の方向から、こちらに駆けてくる影が見えた。
額に汗をにじませながら、必死にあたりを見渡して――その瞳が、千寿を見つけた瞬間、まっすぐに駆け寄ってきた。
「……ほんとにいた」
千寿は言葉を失った。
胸が、どこかぎこちなく波打った。
喜びとも不安ともつかない感情が、いっせいに押し寄せた。
「来るなって言ったら、来なかったか?」
「言われなくても来たよ。だって……呼ばれた気がしたから」
二人は、町を歩いた。
湖岸の道、遠くに見える訓練場、風に軒を鳴らす古い茶屋。
話は少しずつしか進まなかったけれど、沈黙はどこか、穏やかだった。
夕暮れが近づき、木々の影が長くのびていく頃。
茜は立ち止まって、ふと空を見上げた。
そして小さく、でも確かに言った。
「わたし、あなたのこと、きっと忘れないよ。……たとえ、どこに行っても」
千寿は、何も言えなかった。
言葉が、喉の奥でほどけなかった。
「まだ俺がどこに行くかなんて、誰にもわからないさ」
「そう……だね」
けれど、それが嘘だということは、二人とも、もう気づいていた。
春が来る前に、この時間が終わることを。
だからこそ、茜は来たのだ。
たとえ叶わぬとしても、最後にもう一度、名前を呼んでくれた人の元へ。
そっと手が伸びて、ふたつの温度が重なった。
消えてしまいそうな温もりを、たしかめるように。
風が、ひとつ吹いた。
水面を渡ってきたその風は、どこか遠くへ旅立とうとする誰かの背を押すようだった。
茜は、目を閉じた。
願いじゃなく、祈りを胸に――
彼らは、静かに並んで、もうすぐ終わる夏のなかを歩いていった。