霞の向こうへ
第4話
朝の光がまだ淡く、地平線を優しくなぞっていた。
霞ヶ浦の空は今日も静かで、雲ひとつない高みに、微かにプロペラ音が響いていた。
それは、遠くを飛ぶ練習機のものだ。
日々を重ねるごとに、耳がそれを区別するようになっていた。
格納庫の裏手で、彼はひとり静かに立っていた。
荷物といえば、小さな風呂敷ひとつ。
そのなかに詰め込まれているのは、着替えと便箋と、母からもらった小さな守り袋だけだった。
風の匂い。油と汗の混ざった生地の感触。
ここで過ごした訓練の日々が、指先の感覚に染みついている。
肩には幾度も担いだ銃の跡。
腕には機体を支えたときの浅い擦り傷が残り、
目の奥には、消えない緊張の光が宿っていた。
それはまだ少年の面影を残しながら、
戦う者としての覚悟が形になろうとしている瞳だった。
「本当に、行っちゃうの?」
振り返ると、そこに彼女がいた。
白いブラウスの裾が風に揺れ、手には紙袋を提げている。
いつもは偶然を装って現れるその姿も、今日はどこか違って見えた。
「うん。今日、神栖に移るんだ」
その言葉は、空に向けたように、やけに静かだった。
「それって……」
彼女の声がかすかに震えた。
言いたいことは、言葉の外側にあった。
「うん」
彼は短く応えて笑ったが、その笑みは、曇ったガラスのように、奥が見えなかった。
沈黙が落ちる。
格納庫の壁にかすれる風の音。
遠くの訓練場では、整列の号令が響いていた。
まるでこの時間だけが、風景から切り取られていた。
ふと、彼女が一歩だけ近づいて、つぶやいた。
「……そういえば、名前も知らないままだったね」
「ああ、そうか。……そうだな」
彼は少し驚いたように、けれど優しく笑って、まっすぐ彼女を見た。
「早川千寿です」
「白石茜です」
互いに名を告げた瞬間、これまで言葉にできなかった距離が、すこしだけ輪郭を持った。
名を知ることが、こんなにも胸に触れるものだったのかと、彼は思った。
茜は足元の砂を見つめながら、紙袋を差し出す。
「これ……つまらないものだけど。母が作ったお饅頭。電車の中で、もしお腹がすいたら」
受け取った千寿の手が、わずかに震えた。
茜はそれに気づいたが、何も言わずにそっと視線を落とした。
「ありがとう。……ほんとに、ありがとう」
そう言って、千寿は茜の手をそっと取った。
その手は、少しひんやりとしていて、けれどしっかりと生きている温度があった。
ほんの一瞬だけ手を包み込んで、すぐに離す。
その短い間に、ふたりの間にあった見えないものが、ふっと近づいたように感じられた。
彼女は、何も聞かなかった。
「どこへ行くの?」とも、「戻ってくるの?」とも。
彼も、何も言わなかった。
ただ目を合わせて、それだけで「わかっている」と伝え合った。
「じゃあ、行くね。……また会えるよ、きっと」
千寿がそう言って背を向けたとき、
茜ははじめて、彼の背中をまっすぐに見つめた。
ほんの少しだけ広くなったその背が、
朝の光に浮かび上がって、やがて霞の向こうに溶けていくようだった。
それから、茜は毎朝、空を見上げるようになった。
風の音。遠くで響くプロペラのうなり。雲のかたち。
それらのすべてが、どこかで彼とつながっているような気がした。
何ひとつ約束は交わさなかった。
けれど、心に宿った名は、
簡単には消えないということを、彼女は知っていた。