風が変わる日
第三話
それは、午後の陽ざしが少し傾き始めた頃だった。
空の色が、どこか頼りなく褪せ始めたような気がした。
「移動が決まったんだ。……霞ヶ浦から、神栖へ」
彼はそう言って、足元の土を見つめたまま、短く息を吐いた。
訓練は新たな段階へ進み、仲間の数も徐々に減ってきた。
名前を呼ばれても、もう応えない声がある。
そのことに誰も触れようとはせず、空気だけが重く沈んでいた。
すべてが、静かに終わりへ向かっている。
彼には、そんな風にしか感じられなかった。
彼女は、何も言わずに隣に立っていた。
表情は静かで変わらなかったけれど、
手にした包みの端が、わずかに揺れていた。
その小さな震えに、彼は気づいていた。
「……少し、歩かないか?」
ふたりは並んで、田んぼのあぜ道を歩いた。
風が稲を撫で、遠くでヒバリが鳴いている。
いつもと変わらない景色のはずなのに、どこか色が薄くなったような気がした。
彼は帽子を片手に持ち、時折、空を見上げた。
「ここから南に少し行くと、桜の咲く丘があるんだ」
「春になるとね、花びらが風に乗って、空が霞むくらいなんだって」
「……春。来年の?」
彼女の問いに、彼は答えなかった。
ただ、静かに歩き続けるだけだった。
彼女も、それ以上は尋ねなかった。
やがて小さな神社が見えてきた。
町外れの、ひと気のない場所。
風がそっと木々を揺らし、葉の影が砂利の参道に揺れていた。
「願いごとって……したことある?」
彼女がぽつりと尋ねると、彼は少し笑った。
「ないよ、今まで。ずっと、そんなもん意味ないって思ってた」
「でも、きっと願いじゃなくて、祈りなんだよな……」
そう言って、ふところから小さな短冊を取り出した。
墨のにじむ文字が、淡く揺れていた。
『――きみに、春がきますように。』
彼女はそっと息をのんだ。
それは、何ひとつ自分のことを願っていない祈りだった。
「……ばかみたい」
彼女がつぶやく。
「それ、願いじゃなくて、祈りだよ。……もう、戻ってこない人の言葉みたい」
彼は笑った。ほんの少し、子どものようにあどけない笑顔だった。
でもその笑顔の奥には、言葉にできないやるせなさがあった。
生きたい――ただ、それだけの気持ちすら、どこへ置けばいいのかわからない。
命が、役割に変わっていく訓練の毎日のなかで、
彼はまだ、心のどこかで「帰れる場所」があることを信じたかった。
そして風が変わった。
夏の終わりを知らせる、少し冷たい風だった。
空が、遠ざかってゆく音がした。
その風が、ふたりの間をすり抜け、どこかへ去っていった。
あとに残ったのは、沈黙と、まだ乾ききらない祈りの文字。
そして、言葉にはできなかった想いが、空の色に溶けていった。