表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/7

名も無き時間

第2話

陽が落ちかけた空は、琥珀色のにじみを帯びていた。

蝉の声が遠くで細く続き、空気には夏の終わりの匂いが混じっていた。


校舎の裏手にある防風林の小道を抜けると、小さな畑が広がっている。

きちんと手入れされた畝には夏草が揺れ、ところどころに咲いた薄桃色の野花が、夕風にそっと揺れていた。


その真ん中に、彼がいた。

白いシャツの袖を肘までまくり、土に膝をついて、黙々と草を抜いている。

まるで何かに向き合うような静けさで、ひとつひとつ、丁寧に。


気づかれないように足を止めたが、彼はふと顔を上げ、彼女と目が合った。

一瞬、互いの瞳に驚きが宿る。けれど、それはすぐに、ぎこちない笑みに変わった。


「……また、来たんだね」


その声を聞いたとたん、彼女の胸にふわりと熱が広がる。

返事のかわりに、手にした紙袋をぎゅっと握りしめる。


「今日は、桃を持ってきたの。うちの庭で採れたの。あの……よかったら」


彼は立ち上がり、作業で汚れた手をぬぐいながら、少し申し訳なさそうに笑った。


「ありがとう。……こんな、暑い中なのに」


袋を受け取った彼の指先が、わずかに震えていた。

その微かな動きを、彼女は見逃さなかった。


言葉が続かず、沈黙が降りた。

ただ、蝉が鳴き、風が草を撫でている。


けれど、彼女の耳には、自分の心音だけがやけに大きく響いていた。


「ねえ」

そっと声をひそめる。


「あなた……どこか、遠くへ行っちゃうの?」


彼は一瞬、目を伏せた。

そして、何事もなかったように空を見上げる。


「空が、きれいだね。夕方の空は、好きだよ」


問いには答えなかった。けれど、それで十分だった。

彼女は感じていた。

言葉よりも確かな“何か”が、彼の背中に揺れていることを。


彼が再び腰を下ろす。彼女もその隣に静かに座った。

並んだ二つの影が、畑の土の上にゆっくりと延びてゆく。


その日、彼女は母の手伝いを早く切り上げて、いつもの道を急いだ。

裏の畑には彼の姿がなかった。

風だけが畝を渡っている。


代わりに、古い木の根元に一冊の文庫本が置かれていた。

日に焼けた表紙。少し丸まった角。

そっと拾い上げると、ページの間から一枚の紙が落ちた。


「読んでる途中。続きは、また明日」


それだけの短い言葉。けれど、その文字には、見覚えのある、少し癖のあるやさしい筆跡があった。

思わず、小さく笑ってしまう。


ふと背後に気配を感じて振り向くと、彼が木陰から現れた。

帽子のつばを指でつまみ、少し息を弾ませながら、恥ずかしそうに笑う。


「ごめん。ちょっと走ってきたから、間に合わなかった」


「……走るようなことじゃないわ」


そう言って、彼女は文庫本をそっと差し出す。


「この話、知ってる。……戦場から戻った兵士が、名前も言わずに、女の子に手紙を渡すの」


彼は静かに頷く。


「うん。最後にその子は、届かない返事を、書き続けるんだよね」


風がふたりの間を通り抜け、本のページがぱらりとめくれた。

木漏れ日が、その文字を静かに照らしている。


「僕は……忘れたくないんだ」

彼がぽつりとつぶやく。


「名前も、風の匂いも、空の色も。……今あるもの全部、忘れないでいたい」


彼女は何も言わずに、ただ頷いた。

たとえこの時間が、どんなに小さく儚くても、

心の奥にそっとしまっておけるなら——それでいい。


その想いが、言葉よりも確かに、ふたりのあいだに息づいていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ