7
森を抜けたとき、冷たい夜風が一行の疲れた体を包み込んだ。
空はすでに群青色に染まり、夜の帳が完全に下りていた。歩はほっと息をつきながらも、胸の中で渦巻く疑念が消えることはなかった。石碑が崩れ、魔物が消え去ったにもかかわらず、あの声が告げた「大いなる試練」が頭から離れない。
「よく持ちこたえたな、アマカワ」
ラガンが歩の肩を軽く叩きながら言った。彼の表情には疲労が色濃く残っているが、どこか達成感も垣間見える。
「うん、でも……」
歩は言葉を濁しながら前を見つめた。王城の影が遠くに見え始めている。帰還の安堵感よりも、胸の中で膨れ上がる不安が彼の表情を硬くしていた。
エメラルドが静かに歩の隣に歩み寄り、小声で問いかけた。
「何を考えている?」
歩は少し戸惑いながらも、「ただ……あの声のことが頭から離れなくて」と正直に打ち明けた。だが、その詳細までは言わなかった。
「そうか」
エメラルドは一瞬考え込むような表情を見せたが、それ以上は何も言わなかった。ただ、彼の目には歩を気遣う色が宿っている。
団長が一行を振り返り、声を張り上げた。
「間もなく王城だ。ここからは、全員で任務の報告に臨む。気を抜くな」
その言葉に、騎士たちは一斉に姿勢を正した。
王城が遠くにその威容を現し始めたとき、一行の歩みは自然と緊張を孕んだものになった。
アーノケーオの森での激闘を終え、石碑の破壊に成功したものの、それがもたらす意味の重さをまだ完全に理解することはできていない。それぞれの胸中には、成果への誇りと、不安が交錯していた。
歩は黙々と前を見つめながら進んでいた。王城の荘厳なシルエットが、月明かりの下で一層その威厳を増している。
彼の隣を歩くエメラルドが静かに耳を動かし、低く囁いた。
「王の前で緊張するのは無理もないが、落ち着け、歩」
「うん、大丈夫……多分」
歩は短く答えたが、内心ではその言葉を自分自身に言い聞かせていた。
やがて王城の大門が視界に入った。鉄と石で構築されたその巨大な門は、威厳と歴史を象徴するかのように重々しい。門の前で待ち構えていた衛兵が、一行を見て軽く顎をしゃくる。
「これより、謁見する。準備せよ」
低く響く声が緊張感をさらに高めた。
団長が一歩前に進み、独特の動作で胸に手を当て、右足を軽く引く敬礼を行った。
「ロルハイハニア国騎士団、任務より帰還いたしました。陛下に謁見を賜りたく、ここに参上しました」
ロルハイハニア国の騎士としての誇りを示すものだった。歩もその動作を正確に真似ながら、これから向かう謁見の間に対する畏怖を改めて感じ取っていた。
衛兵はその動作を見届けてから、無言で頷き、王城の大門を開いた。ゆっくりと開く扉の向こうからは、荘厳な中庭が広がっていた。噴水の水音が夜の静寂に溶け込み、冷たい石畳が月光を反射している。
「進め」
団長の低い声が響き、一行は中庭を通り抜けて謁見の間へと向かった。その歩みは一糸乱れぬ整列を保ちつつ、次第に重くなる空気に耐えるようなものだった。
謁見の間は、夜の静けさと相まって一層の威厳を放っていた。高くそびえる天井には豪華なシャンデリアが吊り下げられ、柔らかな光が床の赤い絨毯を照らしている。その絨毯の先には、玉座に座るレオン・ウィクニス・ロルハイハニア王がいる。
レオン王の銀髪は月光を受けて輝き、深緑のマントが彼の威厳をさらに際立たせていた。その鋭い瞳は一行をじっと見据え、すべてを見通すような洞察力を宿している。
「よくぞ戻った」
王の低く落ち着いた声が謁見の間に響く。その声は静かな威圧感を伴い、一行の緊張を自然と高めた。
団長が先頭に立ち、一行は玉座へと向かって歩を進める。彼らが所定の位置に着くと、全員が胸に手を当て、右足を引いて深々と頭を下げた。この動作は、王への忠誠と敬意を最大限に示すものだ。
「王属デルフィン騎士団、任務より帰還いたしました。陛下に謁見を賜りたく、ここに参上しました」
団長が厳かに言葉を紡ぐ。
「面を上げよ」
レオン王の声は低く、それでいて温かみを感じさせる。
「森の異常が収束したと聞く。そなたらの働き、心から感謝する。して、団長よ。詳細を報告せよ」
王が静かに命じると、団長は膝をついて語り始めた。
「陛下、アーノケーオの森における異常の原因とされる石碑を発見し、それを守護する魔物を討伐いたしました。以下、詳細をご報告申し上げます」
団長は冷静な口調で、石碑の発見から戦闘、そして石碑の破壊に至るまでを正確に説明していった。
報告の最中、歩は自分の胸の鼓動が徐々に早まるのを感じていた。王の存在が放つ威圧感は、ただその場にいるだけで全身に重くのしかかる。彼の視線が一瞬でも自分に向けられると、その圧力に耐えられるだろうか――そんな不安がよぎる。
団長の報告が終わると、レオン王はしばらく沈黙した。彼の目が再び一行を見渡し、最後に歩で止まった。
「――アユムよ」
王が彼の名を呼ぶ。その一言に、謁見の間全体が一瞬にして凍りつくような静寂に包まれた。
歩は緊張しながらも一歩前に出て膝をつき、深々と頭を下げた。
「はい、陛下」
「そなたの働き、団長より詳しく聞いている」
王の声は静かだが、その中には確かな信頼が込められていた。
「初めての大任であったにもかかわらず、見事にその役割を果たした。その勇気と覚悟を称えたい」
歩は顔を上げることなく、「陛下のお言葉、誠に感謝いたします」と静かに答えた。
王はさらに言葉を続ける。
「しかし、そなたの役割はこれで終わりではない。この地に潜むさらなる脅威が、そなたを再び試すことになるだろう」
歩はその言葉に身震いしながらも、しっかりと王の声を心に刻みつけた。
「そなたの決断が、この国の未来を大きく左右する。その時が訪れたとき、迷うことなく自らの信じる道を進むがよい」
王の瞳がまっすぐに歩を見据える。
歩は静かに息を吸い込み、再び深く頭を下げた。
「その時が来れば、必ずや陛下のご期待に応えます」
王は一度頷き、改めて騎士たちに視線を戻す。
「そなたらには、ひとまず休息を許す」
王は玉座から動かずに言葉を続けた。
「この国にはまだ未知の脅威が潜んでいる。森の石碑と魔物はその一端に過ぎぬ。いずれ、その全貌が姿を現す時が来るだろう。その時、そなたらの力が再び必要となるであろう。その時まで、英気を養うがよい」
「「「はっ!」」」
その命に、一行は再び胸に手を当てる敬礼を行い、敬礼を終えた彼らは、静かに退室の準備を始めた。
王の前から退席する際、歩はもう一度深く頭を下げた。いまだレオン王の言葉の余韻が胸に響いていた。
――――――――
部屋に戻ると、歩はまず窓辺に向かった。
夜空には無数の星が輝き、冷たい月光が王城の庭を照らしている。歩は剣を手に取り、その冷たい感触を確かめる。
自分の手がまだ震えていることに気付いた。
「本当にこれで良かったのだろうか……」
歩は小さく呟き、剣の刃に映る自分の顔を見つめた。王が語った「さらなる試練」とは何なのか。そして、自分がそれにどう立ち向かうべきなのか。
「歩どうした?」
エメラルドが彼の背後から問いかけた。その声には心配の色があった。
「自分の弱さについてだよ」
歩は振り返らずに答える。
「今の僕じゃ、きっとこれからの試練に立ち向かうには足りない」
「それを自覚しているなら、進むべき道は明らかだ」
エメラルドは窓辺に飛び乗り、冷たい夜風にその白い毛を揺らした。
「今は自分を鍛え、備えるときだ」
歩はしばらく黙った後、小さく微笑んだ。
「そうだね。僕にはまだできることがたくさんある」
「それでいい」
エメラルドも微笑むように目を細めた。
歩は窓の外を見つめ、遠くの星々を眺めた。その光はどこか希望を象徴しているようで、彼の胸に新たな決意を灯した。
歩はゆっくりと剣を収め、深呼吸をした。
「これからも頼むよ、エメラルド」
「もちろんだとも、歩」
夜の静寂の中、二人はそれぞれの決意を胸に秘め、再び訪れるであろう試練に備えて心を整えていった。
歩の中には確かな変化が芽生えていた。それは、自分が単なる異世界の迷い人ではなく、この地を救うための一歩を踏み出す覚悟を持った存在であるということだった。
―――――――
アーノケーオの森での出来事以来、歩は自分の中に何か異質なものを感じ始めていた。その感覚は最初、漠然とした違和感に過ぎなかった。
だが、日が経つにつれ、それは次第に彼の意識に明確な形で浮かび上がるようになった。
――最初にそれを自覚したのは、王城の廊下を歩いているときだった。
何気なく壁に手を触れた瞬間、掌にかすかな熱を感じたのだ。冷たい石の壁にもかかわらず、その感触はまるで炎が内側から灯っているかのようだった。しかし、手を離すとすぐにその熱は消え、何事もなかったかのように静けさが戻る。
「気のせいか……?」
歩は自分自身に問いかけたが、答えは出なかった。
その後、訓練場で剣を握るたびに、同じような感覚が再び彼を襲った。剣の柄がほんのわずかに輝いているように見える瞬間があったのだ。しかし、それも一瞬のことであり、周囲にその変化を気づかれることはなかった。
エメラルドだけは異変に気づいていたのか歩の隣に座り込み、静かに言った。
「青白い光が舞っているな。歩、何かあったのか?」
歩は驚いてエメラルドを見つめた。
「…そうなの?」
「薄ぼやけてだがな」
エメラルドは鋭い視線で彼を見据えた。
「でも、何が起きているのか自分でもよく分からないんだ」
歩は剣を握る手を見つめ、言葉を続けた。
「森での出来事以来、時々こんな感じになる。体の内側から何かが溢れ出してくるような……でも、それが何なのか、どうすればいいのか分からない」
エメラルドはその言葉に頷き、しばらく沈黙してから口を開いた。
「森での石碑、そしてあの声が関係しているのは間違いないのではないか」
歩は静かに手に視線を落とす。
こぶしを握っては開き、握っては開きを繰り返すが、この異変がプラスとして働くのかはいまだに謎だった。
その時、ラガンが声をかけてくる。
「どうしたアマカワ。体調でも悪いのか…?」
「いや、そんなことはないんだけど…」
歩は言葉を濁しながらも、胸の中に広がる違和感を無視できないでいた。それは森での異変以来、断片的に現れるようになった感覚だった。
「そうか?なら一戦打ち合わねぇか?」
ラガンは軽い調子で言いながら、木剣を片手に持ち、歩に差し出してきた。彼の表情には楽しげな笑みが浮かんでいるが、その眼差しには歩の成長を確かめようとする真剣さが垣間見える。
歩は一瞬だけ迷ったが、すぐにその手を受け取った。
「分かりました。お願いします」
歩は木剣を構え、静かに間合いを取る。訓練場の周囲はいつの間にか静まり返り、他の騎士たちも手を止めて二人の様子を見守っていた。
「気を抜くなよ、アマカワ」
ラガンが軽く腰を落としながら挑発するように言う。
歩は頷き、深呼吸をした。そして、自分の中でざわつくような感覚を押さえつけるように剣を握り直す。
次の瞬間、ラガンが前に踏み込み、木剣を振り下ろした。
ラガンの一撃は素早く、正確だった。木剣が唸りを上げながら歩の頭上を狙って振り下ろされる。歩は咄嗟にそれを見極め、剣を水平に構えて受け止めた。
「おっと、反応が速くなったな!」ラガンは驚きながらも嬉しそうに声を上げた。
歩は言葉を返す余裕もなく、次の攻撃に備える。ラガンはすかさず剣を引き戻し、今度は歩の脇腹を狙った水平斬りを繰り出してきた。歩はその動きを見極め、体を回転させて攻撃をかわすと同時に、反撃の一撃を繰り出した。
だが、その瞬間――歩の剣が青白く輝き始めた。
「……!」
歩は目を見開いたが、身体は自然に動いていた。剣の光はラガンの木剣とぶつかり合い、その衝撃で二人の間に強い風圧が生じた。
「おい、今のは何だ?」とラガンが一歩下がりながら驚いた表情を見せる。
歩もまた、自分の剣を見つめた。
その刃は未だ微かに光を放っており、手に伝わる熱がさらに強くなっている。
「わからない……でも、何かが……」
歩は言葉を探しながら、剣を握る手に力を込めた。
「アマカワ、その力……」
団長が鋭い声を飛ばしながら、二人の間に歩み寄ってきた。
「わからないんです……剣を構えた瞬間、突然……」
歩は困惑しながらも剣を下ろそうとした。しかし、剣を手放すことができなかった。まるで剣そのものが彼の手に張り付いているような感覚。
剣から溢れ出す光がますます強くなり、訓練場全体を淡い青白い光で包み込み始めた。
その異常な状況に、周囲の騎士たちは動揺し始めた。
「なんだ、これは……」「剣が光ってるぞ!」などと次々と声が上がる中、団長は静かに歩の動きを見据えていた。
「アマカワ、その剣をこちらに向けてみろ」
団長は冷静な声で命じる。
「はい……」
歩は言われるままに剣を構え直し、その先を団長の盾に向けた。次の瞬間、剣から放たれた光が鋭い一筋の線となり、団長の盾に衝撃を与えた。
「……ッ!」
団長は一瞬だけ後退したものの、盾を固く握りしめて踏みとどまった。その表情には驚きと興味が混じっていた。
「なるほど。これはただの偶然ではないな」
団長が低く呟く。
「アマカワ、その力を今すぐ抑えろ。制御できなければ、お前自身が危険だ」
団長の言葉に、歩は必死に剣を握り直し、深呼吸を繰り返した。
「抑える……どうやって?」
「落ち着いて、深呼吸をするんだ。そうしたら目を閉じて自分の中の感覚に従ってみるといい」
団長はそう言うと、静かに歩の肩に手を置く。
歩は言われた通り目を閉じた。自分の内側で蠢く力の流れを感じながら、それを無理に抑え込もうとせず、ゆっくりと手のひらへと誘導する。
やがて、剣から放たれていた光が徐々に弱まり始めた。そしてついに、完全に消え去り、訓練場に再び静寂が戻った。
「……止まった」
手に握る剣を見つめていた。その刃はすっかり静まり返り、青白い光を放っていた痕跡すら残っていない。ただの木剣に戻ったそれを見ても、先ほどまでの異常な出来事が夢でなかったことを体ははっきりと覚えている。
「よくやった、アマカワ」
団長が歩み寄り、彼の肩に手を置いた。
「その力を抑えることができたのは、お前の精神力によるものだ」
「ありがとうございます……でも、これが何なのか、まだ全然わかりません」
その言葉には、自分の中で膨らむ不安と疑問が色濃く表れていた。歩自身、この得体の知れない力が自分にとって何を意味するのか、そしてそれがどんな影響をもたらすのか、全く理解できていない。
団長は静かに歩の言葉を聞いた後、一言だけ言った。
「それは――魔法だ」
その瞬間、場に居合わせた全員が息を呑んだ。団長の口から語られたその言葉は、この国の騎士にとって重い意味を持つものだった。
「魔法……ですか?」
歩は驚きと困惑が入り混じった表情で団長を見つめた。
団長はゆっくりと頷き、厳かな口調で言葉を続ける。
「そうだ。魔法とは、この世界における最も神秘的で、そして力強い力の一つだ。だが、その使用者は極めて限られている。特に剣士である騎士の中に魔法を扱える者はほとんど存在しない」
団長は続ける。
「この世界で魔法を扱うことができるのは、大抵の場合、魔法の訓練を受けた者か、特別な素質を持つ者だけだ。そして、アマカワ……お前はその後者に該当するのかもしれない」
「でも、僕は何も訓練を受けたわけじゃない……こんな力、どうして急に……」
歩は自分の胸に手を当て、言葉を探した。
「森での出来事が引き金になったのだろう」
団長は冷静に分析を続けた。
「あの石碑の破壊と、未知の声。それがきっかけでお前の中に眠っていた力が目覚めたのだ」
歩はその言葉に思いを巡らせる。森で石碑に触れた瞬間、そして聞こえた謎の声――それが今の自分に何をもたらしたのか、その全貌は未だ霧の中だ。
一呼吸置き、団長は視線を鋭くしながら言った。
「今はその力を制御する方法を学ぶことが最優先だ。このままではお前自身にとっても、周囲にとっても危険だ」
歩にとって、それは新たな試練となることは明白だった。