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 砂地の訓練所での日々が始まってから、二か月が経過した。

 初めて木剣を握った頃のぎこちなさは、今ではほとんど消えている。身長も154センチから162センチにまで伸び、更には歩の動きは洗練され、剣を振るうたびに筋肉がしなやかに動き、汗が流れるのもいつの間にか自然なことになっていた。


 周囲の騎士たちとの関係も大きく変わった。

 初めは異世界から来た「異質な者」として注目を浴びていた歩も、今では訓練所の一員として認められ、冗談を言い合う仲間さえできていた。ラガンやレイとの交流を通じて、歩は次第にこの異世界での自分の居場所を見つけつつあった。


 エメラルドもまた、騎士たちの間で不思議な存在として親しまれている。時折的確なアドバイスを歩に送るだけでなく、その冷静な言葉が騎士たちの士気を引き締めることもあった。


 そんな日々の中で、歩は新たな異変に気づき始めていた。それは訓練所だけではなく、周囲の環境そのものに微かな異変が生じていることだった。






—————




 ある日の夕暮れ、訓練が終わり、歩が水筒の水を飲み干していると、ラガンが険しい表情で近づいてきた。


「なあ、アマカワ。最近、妙なことが起きてると思わないか?」


 ラガンは周囲を見回しながら声を潜めた。


「妙なこと?」


 歩は水筒を下ろし、眉をひそめた。


「そうだ。森の方から、時々奇妙な音が聞こえるんだ。それもここ数週間で急に頻度が増えてきてる」

「森って、アーノケーオの森のことですか?」


 歩はその名に聞き覚えがあった。訓練所から少し離れた場所に広がる深い森で、魔物の巣窟として知られている。


「そうだ。どうやら森の奥から聞こえるらしいぞ。でも、空は晴れてるんだぜ。どう考えても普通じゃない」


 ラガンの声には明らかな不安が混ざっていた。

 ラガンの言葉に、歩は胸騒ぎを覚えた。この異世界での訓練を乗り越えてきた彼でも、未知の危険に対する恐怖は消えることがなかった。


「団長やレイは何か言ってたんですか?」


 歩は慎重に尋ねた。


「いや、まだ具体的な指示はない。ただ、団長は最近ずっと何かを考え込んでるみたいだ。レイも様子を伺ってるけど、何も言わない。でも、俺たちの間ではそろそろ何かが起きるんじゃないかって話が出てるんだ」


 ラガンの言葉に、歩は息を飲んだ。この平穏な日々の裏で、確実に何かが進行している。


 その翌朝、異変はさらに顕著になった。森から吹く風が冷たく、どこか不穏な気配を帯びていた。訓練所に到着すると、すでに騎士たちが集まり、異様な緊張感が漂っていた。


「団長、どうなってるんです?」


 レイが団長に問いかける。

 団長は険しい表情を崩さず、全員に向けて口を開いた。


「森の異常が続いている。昨夜、森の近くにある村で魔物の目撃情報があった。通常、ここまで森から離れることはないはずだが、どうやら何かが奴らを刺激しているようだ」


 その言葉に、騎士たちはざわついた。


「それだけじゃない。森の奥からの音が、村の住民たちに不安を与えている。今のところ被害は出ていないが、放置すればいずれ犠牲者が出るだろう」


 団長は鋭い目つきで歩を見つめた。


「アマカワ、お前も同行する準備をしろ。この二か月間の訓練が無駄でなかったことを証明する時が来た」


 歩は一瞬緊張で体が固まったが、すぐに気持ちを引き締めて「分かりました。僕も行きます」と答えた。







——————





 夕方の空が濃い橙色に染まり、訓練所の砂地にもその光が反射していた。

 歩は自分の部屋で、じっと腰に収められた剣を見つめていた。それは二か月間の訓練の末に与えられた本物の鉄剣だ。木剣とは明らかに異なるその重みが、これからの自分に課せられる使命の重さを物語っている。


「これを本当に使う日が来るんだな……」


 歩は剣を抜き、鞘の中からゆっくりと刃を露わにする。薄暗い部屋の中で剣の刃が僅かな光を反射し、冷たく輝いている。その鋭い刃先を見つめると、胸の中に小さな震えが走った。


「歩、準備はいいのか?」


 窓辺に佇むエメラルドが窓辺から静かに言った。彼は月明かりを背にしながら、冷静な瞳で歩を見つめている。


「この二か月間でお前は成長した。その剣を使う資格は十分にある」


歩は剣を鞘に収め直し「うん、まあ……でも、正直言うと怖いよ」と言う。胸の奥から湧き上がる不安が、言葉に滲み出ていた。

 エメラルドは尻尾をゆっくりと揺らしながら答える。


「危険は避けられない。それでも、お前には仲間がいる。恐れを抱くことは自然なことだ。それでいい。その恐怖を忘れるな。恐怖を感じる者は、生き延びるために全力を尽くせる」

「でも、エメラルド……本当に僕で大丈夫なのかな。僕が役に立てるのか、正直分からない」

「歩、お前はこの二か月間で確実に強くなった。それでも自信がないなら、みんなが支えてくれるだろうさ。——大丈夫、歩は一人じゃない」


 その言葉に励まされ、歩は深く息を吸い込んだ。胸の奥に渦巻いていた不安が、少しずつ薄れていくのを感じた。


 部屋を出て訓練所に向かうと、すでにラガンやレイ、団長を含む騎士たちが集まっていた。彼らの顔にはそれぞれ緊張と決意が浮かんでいる。一同は森へ向かう準備を整え、静かに待機していた。歩もその輪の中に加わり、団長の指示を待つ。


「全員、準備は整ったな」


 団長が低い声で言う。その声には揺るぎない威圧感と共に、深い覚悟が込められている。


「これから我々はアーノケーオの森へ向かう。この森はただの森ではない。魔物が巣食い、未知の力が潜む場所だ。今回の異常はその深部で起きている可能性が高い。覚悟を持って臨め」


 団長の言葉に、騎士たちは一斉に剣を抜き、無言で頷いた。歩もその中で剣の柄を握りしめる。胸の中に緊張と不安が入り混じるが、それを表には出さなかった。


「なんだ、緊張してるのか」


 ラガンが隣で軽く声をかける。彼の声は普段より低く、それでもどこか親しみを感じさせる。


「俺たちがついてる。怖いのは分かるが、焦るなよ。無茶だけはするな。しっかり生き延びるという自分の役割を果たせ」

「ありがとう、ラガン……無理をせずにやるよ」

「それでいい。お前が無事でいることが一番だ。俺たちがついてるんだから、焦るな」


 ラガンは励ますように笑みを浮かべた。

 歩はラガンの言葉に頷き、深く息を吸った。仲間の存在が、彼の中の小さな勇気を支えてくれる。


「全員、出発だ!」


 団長の号令と共に、一行は静かに森へと向かい始める。その歩みは静かだが、確実に緊張が高まっていく。












—————














 アーノケーオの森は、昼間でも薄暗い。鬱蒼と茂る木々が天を覆い隠し、僅かな木漏れ日さえも森の奥深くに届かない。木々の間には濃い霧が漂い、視界を遮っている。その中を進む一行は、足元に注意を払いながらも、周囲の気配を逃さないように細心の注意を払っていた。


 歩は剣の柄を握りしめながら、森の異様な静けさに違和感を覚えていた。普段なら鳥や虫の声が聞こえるはずだが、今は完全な静寂が支配している。その静けさが、彼の胸に不安を植え付けていた。


「森がこんなにも静かだなんて……」


 歩が小声で呟くと、隣を歩くレイが冷静な声で答えた。


「これが異常事態の証拠だ。この森がこうも静かになるのは、何かが自然のバランスを崩しているからだ」


 その言葉に歩は息を飲む。彼がこの森に抱いていた漠然とした不安が、具体的な恐怖へと変わっていく。

 「全員、足元に注意しろ」


 団長の低い声が緊張感をさらに高める。彼の声には普段の冷静さがありつつも、慎重さが混じっている。

 歩は剣を握る手に力を込めた。彼の視線は霧の中で揺らめく影に集中している。森の奥深くから漂ってくる湿った冷気が、彼の体に重くまとわりついていた。胸の奥では不安が膨らんでいるが、それを表に出すわけにはいかない。


「なんだか息苦しいぞ……」


 隣でラガンがぼそりと呟く。彼の声も普段の軽妙さを失い、硬さを帯びていた。

 歩は小さく頷きながら、視界の先を凝視した。


「何かが近づいてる気がする……」


 その言葉にラガンは短くうなずき、周囲に目を配る。木々の間から霧がさらに濃くなり、視界を奪っていく。その中で、一行はゆっくりと進んでいった。誰もが無言のまま、剣を握る手に力を込め、耳を澄ませている。

 突然、遠くから低い轟音が響いた。それはまるで地の底から湧き上がるような音で、地面を通じて足元にまで伝わる。一行はその場で足を止め、音の方向に注視した。


「今のは……」と歩が息を呑み、「この音……」とラガンが眉をひそめる。


「ただの地鳴りじゃないな」

「間違いない。魔物の仕業だろう」


 団長が低い声で言った。


「全員、警戒を怠るな。何が襲ってくるか分からん」


 さらに奥へと慎重に進んでいった。霧が次第に濃くなり、視界はほとんど効かなくなっている。足元の苔や枯葉の感触がやけに生々しく感じられ、歩の心臓の鼓動が次第に速くなっていった。

 しばらくして、開けた場所に出た。

 そこには巨大な石碑が鎮座していた。石碑には古びた模様が刻まれており、それがかすかに淡い光を放っている。その光は脈動するように明滅し、森全体を照らしているように見える。


「これが……異変の原因か?」


 レイが石碑を見つめながら呟く。


団長が石碑に近づき、慎重に観察した。


「これだけで終わりとは思えん。周囲を警戒しろ」


 瞬間、霧の奥から低く唸るような声が響いた。その音は地の底から這い上がるような、不快な振動を伴っていた。一行がその方向に目を凝らすと、霧の中で異様な影がゆっくりと動き出すのが見えた。


 やがて霧を裂くようにして現れたのは、巨大な四足の魔物だった。その姿を一目見ただけで、自然界の生物とは一線を画す禍々しさが感じ取れる。アジュライガル――森に潜む魔物に似た姿だ。しかし、普段以上に異質で、見る者の本能を震え上がらせる気味の悪さを纏っていた。


 その体躯は巨大で、全身を覆う漆黒の毛並みはまるで濡れた泥のように光を吸い込んでいる。通常の狼よりも遥かに長い四肢は、不自然に曲がり、骨ばった関節が明らかに人間の目には異様に映る。その爪はまるで鎌のように鋭く、地面に刺さるたびに土を抉り、奇妙な音を立てていた。

 頭部はさらに異様だった。狼の顔に似ているものの、目の位置が左右非対称にずれており、片方の眼窩からは血のように赤い光が漏れている。もう片方の目は爛れた肉のように膨れ上がり、その中心でゆっくりと蠢く黒い瞳孔が、異様な知性を感じさせた。その目が一行をじっと見据えるたび、全身を冷たい汗が伝うような感覚に襲われる。

 口元は大きく裂け、牙がぎっしりと詰まっている。牙の間からは濃厚な唾液が滴り落ち、地面に落ちるたびに煙を上げている。それが何らかの腐食性を持つ毒であることは一目瞭然だった。

 さらに背中には不気味な突起物が生えており、それが脈動するように動いている。まるで生きた肉の塊が自ら蠢いているかのようだ。その突起物からは、森全体に拡散するような黒い霧が絶え間なく噴き出している。この霧が、一行の視界を遮り、彼らの呼吸を重くさせていた。


「これは……アジュライガルか……?」


ラガンが声を震わせながら呟いた。その声には、いつもの余裕は一切なかった。


「いや、これは突然変異かもしれん」


 団長が鋭い目つきで魔物を睨む。


「この森の力そのものを取り込んでいる……」


 魔物は低く唸り声を上げると、大きな前足を持ち上げ、一行に向けて踏みつけるように地面を叩きつけた。その衝撃は地面を震わせ、足元の土が砕け散った。


「構えろ!」


 団長の号令が響く中、歩は剣を握りしめ、魔物の不気味な姿から目を逸らさないように必死だった。


 魔物の口元が裂け、凶悪な笑みを浮かべたように見えた。その瞬間、再び唸り声を上げ、巨大な体躯が一行に向かって突進してきた。その動きは異様な速さを持ち、四肢が地面を掻きながら音を立てるたび、周囲の空気がねじ曲がるような感覚を覚える。


「来るぞ!」


 レイが叫び、剣を振りかざす。

 魔物の目が一行を次々に捉え、不規則に動きながら攻撃を仕掛けてくる。その牙が近づいた瞬間、歩は本能的に剣を振り上げて応戦した。剣がアジュライガルの鱗に当たると、鋭い火花が散り、耳をつんざくような金属音が森に響いた。


「硬い……!」


 歩は腕に伝わる衝撃に驚きながらも、何とか体勢を整えた。

 魔物はその一撃をものともせず、さらに不規則な動きで一行を翻弄する。背中の突起物から噴き出す黒い霧がさらに濃くなり、視界がますます遮られる。

 魔物は唸り声を上げながら一行に突進してきた。その体は重厚かつ俊敏で、地面を掻きむしるたびに土砂が飛び散る。歩たちの目の前に迫るその姿は、ただの魔物ではない、異質な存在だった。アジュライガルの突然変異種――その凶暴さと不気味さは、広く知られる魔物をさらに禍々しくしたものだった。


「こいつ、速い!」


 ラガンが叫びながら魔物の爪を剣で受け止める。衝撃でラガンの体が後方へ吹き飛ばされ、彼は地面に転がった。


「ラガン!」


 歩が駆け寄ろうとするも、魔物がその行く手を遮るように鋭い牙を剥き出しにして吠えた。その声だけで空気が震え、森全体がその圧力に沈黙したかのようだった。


「構うな、前を見ろ!」


 団長が鋭く命令を飛ばす。

 歩はすぐに体勢を立て直し、剣を構える。魔物の赤い瞳が再び一行をじっと見据え、次の標的を定めたかのように動きを止める。その間も背中の突起物からは黒い霧が噴き出し、一行の視界を遮り続けている。


「この霧、普通じゃない……」


レイが低く呟いた。


「呼吸が重い。長く戦えばこっちが持たない」

「お前の観察力はありがたいが、今は手を動かせ!」


 団長が霧の中から声を張り上げる。彼の剣が鋭く閃き、魔物の側面を狙って一撃を放つ。

 剣は魔物の鱗に当たり、激しい火花を散らした。しかし、その鱗は異常なまでに硬く、斬撃はほとんど通らない。団長の顔にわずかな焦りが浮かぶが、それを悟られないよう、すぐに次の一撃に移った。


「何て硬さだ……」


 歩はその光景を見て、自分が同じように攻撃を仕掛けても効果があるのか不安を感じる。それでも、自分の役割を果たさなければならないという意識が彼を動かした。

 魔物は素早く体を回転させ、尾のようなものを振り回した。その攻撃は一行を薙ぎ払うような動きで迫り、歩はそれをかろうじて避ける。だが、衝撃波で足元が揺らぎ、体勢を崩した。


「くそっ!」


 歩は歯を食いしばり、剣を再び構える。しかし、その瞬間、魔物の鋭い爪が彼の目前に迫った。


「危ない!」


 ラガンが再び前に飛び出し、剣で魔物の爪を受け止めた。その衝撃で彼の剣が大きくしなり、ラガンは再び地面に叩きつけられる。


「ラガン!」


 歩が駆け寄ると、ラガンは苦しげに笑みを浮かべた。


「大丈夫だ……」


 歩は剣を握る手が汗で滑りそうになるのを感じながら、恐怖を押し殺そうとした。


「ほら、行け!」


 ラガンが声を張り上げると同時に、魔物の瞳が歩に向けられた。赤い瞳がじっと彼を捉え、その瞬間、魔物は歩に向かって突進してきた。


「僕も……やるしかない!」


 歩は体の震えを押さえつけ、剣を構えたまま魔物に向かって突き進んだ。

 魔物がその巨大な前脚を振り上げ、歩を潰そうとする。彼はそれを見極め、一瞬の隙を狙って横へ跳んだ。その動きは訓練で体に染み付いたものだった。


「今だ……!」


 歩は全力で剣を振り下ろし、魔物の側面を狙う。その剣が鱗に触れると、激しい火花が散り、耳をつんざくような金属音が響いた。

 しかし、その一撃でも魔物に大きなダメージを与えることはできなかった。魔物はわずかに身を引くと、再び鋭い牙を剥き出しにして唸り声を上げた。その動きは次第に狂暴さを増し、一行をさらに翻弄する。


「このままでは埒が明かない……!」


 団長が息を荒げながら叫ぶ。


「誰かが石碑を破壊しろ。あれが奴の力の源の可能性がある!」


 その言葉に一瞬の沈黙が訪れる。次の瞬間、歩が意を決したように剣を握り直し、石碑に向かおうと動き出した。


「アマカワ、俺たちがこいつを引きつける!お前は石碑を頼む!」


 ラガンが立ち上がり、再び魔物の注意を引くために前に出た。

 歩はその背中に力強さを感じながら、深呼吸を一つしてから石碑へと駆け出した。魔物の唸り声と一行の戦闘音が背後で響く中、彼は必死にその場を駆け抜ける。

 石碑はすぐ目の前だ。その異様な光が脈動するように明滅し、魔物の力の源であることを示している。歩は剣を握る手に再び力を込め、石碑に向かって一気に斬りつけた。


 剣が表面に触れた瞬間、硬質な音と共に衝撃が全身に伝わった。だが、それだけでは終わらなかった。石碑に刻まれた模様が突如として青白い光を放ち始め、その光は森全体を包み込むかのように広がっていった。

 歩は思わず目を閉じたが、剣を握る手は離さなかった。再び剣を振り下ろすと、石碑に亀裂が走る。光はさらに強さを増し、空間を歪ませるような圧力を放つ。


「砕けろ!」


 彼が渾身の力を込めてもう一撃を加えると、石碑はついに大きな音を立てて崩れ落ちた。その瞬間、森を覆っていた黒い霧が急速に晴れていく。


「やったのか?」


 ラガンが息を切らせながら、崩れた石碑の残骸を見つめる。魔物は苦しむように低く唸り、力尽きたかのように地面に崩れ落ちていった。


 一行が安堵の表情を浮かべる中、歩だけは何か得体の知れない不安を感じていた。石碑が崩れた瞬間から、周囲の空気が異様に静まり返り、肌を刺すような冷気が漂い始めた。


 そのとき――


≪少年……≫


 低く、静かで、しかしどこか慈悲深さを感じさせる声が歩の耳に響いた。それは他の誰にも届いていないようだった。一瞬、彼は周囲を見回したが、仲間たちは依然として魔物の動向や石碑の残骸に注意を向けている。


「……誰だ?」


 歩は声を震わせながら、誰にも聞こえないように呟いた。


≪ついに来たか……運命を背負う者よ≫


 声は続けて語りかけてくる。その音色は、まるで森そのものが語りかけているような響きを持っていた。


「運命を背負う者……?」


 歩の胸の奥で何かがざわつく。声の主が発する言葉の意味が全く分からないが、その一つ一つが重く、彼の心に刻まれていく。


≪この世界には、やがて大いなる試練が訪れる。それは、この地を覆う闇を完全に目覚めさせるものだ≫


 声が紡ぐ言葉は、まるで予言のようだった。歩は目の前に広がる霧の薄れた森を見渡しながら、その声を聞き逃さないよう集中する。


「大いなる試練……?それって、どういうこと……?」


≪少年、お前はこの試練の中心に立つ者だ。この地に訪れる運命を変える鍵を握る存在となる≫


 歩の心臓が一際強く跳ねる。この世界に来てから、自分の存在が特別だとは思えなかった。ただ流されるままに過酷な訓練を受け、何とか生き延びようと必死だった。だが、この声はそんな彼に重大な役割を与えると言っている。


「僕に……そんな役割が?」


 彼は声を小さく震わせた。


≪お前の手で選ばれる未来が、この世界を救うか、滅びへと導くか……そのすべては、お前の選択にかかっている≫


 歩は言葉を失った。自分がこの世界を左右するような存在だと?信じがたい話だった。しかし、声の主の言葉には疑いようのない確信があった。


「何をすればいいんですか……?」


 歩は問いかけた。だが、返ってきたのはさらなる謎めいた言葉だった。


≪いずれお前の前に、光と闇の選択が訪れる。その時が来たとき、答えを見失うな。運命はお前を試すだろう……そして、真実を知る者たちがその道を共に歩む≫


 その言葉の意味を完全に理解する前に、声は徐々に遠ざかり、薄れていく。



 ———最後にこう告げて。


≪少年、覚えておけ。この地でのお前の旅路は、ただの始まりに過ぎない。真実が姿を現すその日まで……運命は常にお前の傍にある≫


 声が完全に消えた瞬間、森に再び風が吹き始めた。葉がささやくような音を立て、静けさがゆっくりと戻ってくる。


「歩?どうした?」


 ラガンが彼の肩を軽く叩く。歩はハッと我に返り、仲間たちの方に視線を向けた。


「……いや、何でもない」


 彼は動揺を隠しながら、曖昧に答えた。

 だが、その心の中では、先ほどの声と言葉がぐるぐると渦を巻いていた。自分がこの世界の運命を握る鍵となる――その意味を完全に理解するには、まだ時間が必要だった。


 歩は静かに剣を収めると、深く息を吸い込んだ。

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