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玉座の間を出た瞬間、空気が一変した。重々しい威圧感が消え、歩はようやく肩の力を抜くことができた。だが、その解放感は一瞬のもので、次の不安がすぐに押し寄せてきた。
「訓練所、ですか」と歩はため息混じりに呟いた。
「そうだ。まずは基礎体力をつけることだな。この世界で生き延びるには、戦う術を知らなければ話にならん」
団長は歩調を緩めずに言った。
「でも、僕……戦いなんてしたことがありません。運動も苦手だし」
「それをこれから学ぶんだ。戦えないからと言って諦めるわけにはいかんだろう」
団長は振り返り、歩を鋭い目つきで見据えた。
「命を守る術を覚える。それがまず君にとっての最優先事項だ」
歩は言葉を失い、ただ頷くしかなかった。
そのとき、エメラルドが軽く尻尾を揺らしながら口を開いた。
「歩、ここで覚悟を決めるんだ。この世界では君がどれだけの価値を持つかは、自分の手で証明するしかない」
「……分かってるよ」と歩は小さな声で応えた。
廊下を抜け、目の前に広がったのは訓練所への入り口だった。
石造りの門をくぐると、砂地が敷き詰められた地面の上で、騎士たちが剣を振るう姿で埋め尽くされていた。
掛け声や金属のぶつかる音が辺りに響き、その一つ一つが異世界の現実を強調している。
歩はその光景に圧倒されつつ、エメラルドをそっと抱きしめた。
「ここが訓練所だ」と団長が手を広げて示す。
「これからしばらくは、ここで基礎を身につけてもらう。まずは体力、次に剣術、それから防御の基本を教える」
歩はその広い空間を見渡しながら、不安と緊張が混ざった感情に押しつぶされそうになった。
訓練中の騎士たちは一瞬動きを止め、新しい顔——歩に注目している。
彼らの視線は好奇心と警戒心が入り混じったものだった。中には何かを言いたげな者もいたが、団長の存在がその場の空気を引き締めていた。
「おい、新人が来たぞ」
団長が訓練中の騎士たちに声をかけると、一人の若い騎士が剣を振るうのを止め、こちらに近づいてきた。
「団長、彼が例の異世界から来た……?」
若い騎士は歩をじっと見つめ、少し驚いたような表情を浮かべた。
「ああ。こいつがアマカワだ。異世界から来たが、まだ何も知らん新人だ」
若い騎士はニッと笑い、手を差し出した。
「俺はレイ、ここの訓練所の教官代理だ。よろしくな、アマカワ君」
「よ、よろしくお願いします……」
歩は戸惑いながらその手を握り返した。レイの手は分厚く硬かったが、その握手にはどこか温かさも感じられた。
「さて、まずは準備運動からだな」とレイは歩の肩を軽く叩きながら言う。
「基礎体力をつけることが最初の課題だ。筋肉痛は覚悟しておけよ。異世界の者だからといって特別扱いはしない。ここではみんな平等だ」
「それは……覚悟してます」
歩は不安げに答えたが、その言葉にはわずかに決意がこもっていた。
「いい返事だ」とレイが笑い、手を腰に当てながら指示を出した。
「——では、まず砂地を10周走れ。体を温めることから始めよう」
「10周……?」
アマカワは呆然とその指示を聞いた。
「砂の上だと、足が取られて普段より体力を消耗する。だが、それがこの場所での基本だ。さあ、やってみろ」
アマカワはエメラルドを傍に置き、ゆっくりと砂地に足を踏み出した。柔らかい砂が靴の下で沈む感覚が新鮮で、すぐにバランスを取るのが難しいと気付いた。
「最初から無理をするな。自分のペースを守れ」
団長が少し離れた位置から声をかけた。
「はい……!」
歩は呼吸を整え、ゆっくりと走り始めた。
初めの数歩は順調だったが、すぐに足が重くなり、体中が砂の抵抗を感じ始めた。息が上がり、喉が渇いていく。
数周もしないうちに、全身が汗でびっしょりになり、足が鉛のように重くなっていった。
「歩みを止めるな、アマカワ」
エメラルドの冷静な声が響く。
「ここで諦めれば、次はもっと辛くなるぞ」
「分かってる……!」と歩は苦しげに答える。
周囲の騎士たちが訓練を再開する中、歩は必死に走り続けた。その姿を見て、レイが少し微笑みながら団長に近づいた。
「団長、あの新人、根性はありそうですね」
「ああ、そうだな。ただ、ここでどれだけ自分を鍛えられるかが鍵だ。異世界から来たというだけでは、この国で生き残ることはできん」
団長は冷静に言いながら、アマカワの走る姿を見つめ続けた。
走り終わった頃には、歩は完全に息を切らし、砂地に膝をついた。エメラルドがその横に寄り添い、軽く尻尾で背中を叩いた。
「よくやった、アマカワ。ただ、これはまだ始まりに過ぎない」
団長が静かに言った。その言葉に歩は深く息を吐きながらも、小さく頷いた。
異世界での新たな日常が始まった――それは厳しく、逃げ場のない現実だった。
————
訓練所での最初の日が終わるころ、歩の体は疲労で限界に達していた。
砂地での走り込み、木剣を使った基本動作の反復練習、そして防御の構え方の指導――すべてが慣れない異世界での初体験であり、そのどれもが体力と精神を容赦なく削っていった。
訓練の最後、歩はようやく木剣を置き、汗まみれの体を砂地に倒れ込ませた。
視界の中で、空がゆっくりとオレンジ色に染まっていく。日が沈みかけ、訓練所の影が長く伸びていた。
「ふう、今日はここまでだ」と教官代理のレイが声をかけると、周囲の騎士たちが次々と武器を収め、各自の道具を片付け始めた。
「アマカワ、お疲れさん。よく持ちこたえたな」
レイが歩に近づき、軽く笑みを浮かべる。
「……ありがとうございます。でも、正直もう動けそうにありません」
歩は砂の上に寝転んだまま弱々しく答えた。
「当然だ。初日なんてそんなもんだよ」
レイはその言葉と共に手を差し出した。
「立てるか?」
歩はその手を掴み、何とか体を起こした。足が震え、全身が鉛のように重い。それでも、周囲の騎士たちが片付けを進めている姿を見ると、負けたくない気持ちがわずかに湧いてきた。
「次も同じような訓練が続くんですよね……」
歩が苦笑いを浮かべながら尋ねると、レイは肩をすくめた。
「基本ができるようになるまではな。だが、少しずつ負荷を増やしていくつもりだ。まあ、心配するな。お前がここで倒れない限りは、俺たちが支えてやる」
その言葉に、歩は少しだけ心が軽くなった。
その時、遠くから別の騎士が近づいてきた。彼は歩より少し年上に見えるが、屈託のない笑顔を浮かべていた。
「よぉ、異世界人。俺はラガンっつうんだ。思ったよりしっかりしてるじゃないか」
「そうですかね……」
歩はラガンの明るさに少し戸惑いながらも、手を差し出して挨拶を交わした。
「この訓練所じゃ、俺たちみんなが仲間だ。困ったことがあったら何でも言えよ。新入りだからって気を張る必要はないからな」
ラガンは歩の肩を軽く叩き、笑顔でそう言った。
その後、訓練所の隅に集まった何人かの騎士たちが、疲労困憊の歩を囲むようにして話し始めた。話題は、歩の異世界での生活についてだった。
「お前のいた世界では、剣なんか使わないって本当か?」と一人の騎士が興味津々に尋ねる。
「そうですね。僕たちの世界には、剣や盾じゃなくて、もっと違う……技術があります。けど、戦うなんてことはほとんどないんです」と歩は少し考えながら答えた。
「それじゃあ、初めて剣を握ったのはここに来てからか」
「それにしては悪くなかったぞ。動きはぎこちなかったけどな」
その言葉に、周囲が笑い声を上げた。歩もつられて笑う。緊張していた心が、ほんの少しほぐれた気がした。
その後も騎士たちとの会話は続いた。彼らはそれぞれの経験や訓練の苦労話を共有し、時折冗談を飛ばし合った。歩は彼らの言葉に耳を傾けながら、自分がこの世界で少しずつ受け入れられている感覚を覚えた。
エメラルドが静かに歩の隣に座り、小声で言った。
「少しはこの場に馴染めてきたようだな。だが、これからが本当の試練のようだぞ」
「分かってるよ。でも、今日みたいな日が続けば、少しずつでもやれる気がする」
歩は力の入らない声で応えた。
————
その夜、宿の小さな部屋で歩はベッドに倒れ込んだ。
全身が疲労に包まれ、少しでも動けば筋肉が軋むような痛みが襲う。だが、それでも心の中には妙な達成感があった。初めての訓練を乗り越え、騎士たちと少しずつ打ち解けられたことが、ほんの少しだけ自信につながっていた。
隣の窓から差し込む月明かりが、部屋を淡い青に染めている。二つの月が空に浮かび、それぞれが異なる輝きを放っていた。この世界に来てから、まだほんの数日しか経っていないのに、すでに歩の中では、現実と非現実の境目が曖昧になっているように感じられた。
「今日はよくやったな」
エメラルドがベッドの足元に丸くなりながら呟いた。
「初日にしては悪くないらしくってよかったじゃないか。でも、歩はヘロヘロで心配だったぞ」
「分かってるよ」
歩は天井を見上げながら答えた。
「疲れているのは分かるが、少しは明日のことも考えておけ。訓練はこれからもっと厳しくなるはずだ」
エメラルドの声には、いつもの冷静さの中にわずかな優しさが混じっていた。
歩は目を閉じ、今日の出来事を思い返す。
訓練所での騎士たちとの会話、砂地を走り続けた感覚、そして、自分がこの世界で何とかやっていけるかもしれないという小さな希望。それらが一つの流れとなって彼の意識の中を駆け巡った。
「眠る前に一つ聞いておく——この世界で生きる覚悟はできたか?」
歩は少し考えた後、静かに答えた。
「正直、まだ怖い。でも、逃げるわけにはいかないってことだけは分かってる。そもそも帰れるかどうかわからないし、ね」
その答えに、エメラルドは小さく頷いた。
「それでいい。覚悟は、少しずつ積み重ねていくものだ」
「エメラルドって本当はおじいちゃんだったりする…?」
「たわけ。あの本のせいだ。元々そんなこと考えもしなかったぞ」
「——なんなんだろうね、あの本」
「知らん。しかし、何か意図的なモノがあるのかもしれないな」
その言葉を最後に、部屋の中は静寂に包まれた。歩はそのまま意識を手放し、深い眠りに落ちていった。
—————
翌朝、歩は窓から差し込む朝日で目を覚ました。体はまだ重く、筋肉の痛みが引いていない。だが、それでも昨夜よりも少しだけ軽く感じられた。
準備を整えて訓練所へ向かうと、すでに何人かの騎士が集まっていた。彼らは木剣を振るいながら互いに掛け声をかけ合っている。その中には、昨日声をかけてくれたレイやラガンの姿もあった。
「お、アマカワ!早いな」
ラガンが歩に気づき、手を振った。
「昨日の疲れは取れたか?」
「まだ少し残ってますけど、大丈夫です」
歩は笑顔を返しながら答えた。
「今日は剣の構え方と基本的な動きを重点的にやるぞ。お前の腕がどれだけ動くか見せてもらう」
レイが木剣を手に歩へ向かってきた。その目は真剣そのものだった。
歩は木剣を手に取り、昨日よりも少しだけ自信を持って構えた。
「よし、まずは基本の動きだ。俺の真似をしてみろ」
レイが見本を見せると、歩もその動きを忠実に再現しようとした。腕の筋肉が痛むが、それでも昨日よりはスムーズに動かせるようになっている気がした。
「いい感じだ。だが、まだ力が入ってない部分がある。手首をもっと柔らかく、剣先を意識しろ」
歩はレイの指摘を受けながら、何度も動きを繰り返した。そのたびに周囲の騎士たちが軽口を叩きながらも、アドバイスをくれる。
「アマカワ、その調子でいけ。少しずつ慣れていけばいいさ」
その声に励まされながら、歩は異世界での新たな一日をスタートさせた。