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歩はグラッカンに支えられながら宿へと戻った。
広場の戦いの跡が、彼の脳裏に焼き付いて離れない。ゴルムの咆哮、血の匂い、倒れた騎士の無惨な姿――すべてが現実のものだということを理解するたびに、彼の足は震えた。
宿の扉を押し開けると、内部はまだ戦闘の余波から逃れられていないかのように静まり返っていた。
ホールには数人の宿泊客が顔を青ざめさせたまま座り込んでいる。誰もが外で起きた出来事の重大さを感じ取っているようだった。
「上に行こうアユム」
グラッカンが低く声をかける。その声にも疲労が滲んでいるが、彼の目はまだしっかりと歩を見つめていた。
二人はゆっくりと階段を上がり、自分たちの部屋へと戻った。扉が閉まると、外の騒音が一気に遮断され、部屋は静寂に包まれる。
歩はベッドに腰掛けると、全身の力が抜けるように倒れ込んだ。
「大丈夫か?」
グラッカンが向かいの椅子に座りながら尋ねる。
歩は天井を見つめながら、かすれた声で答えた。
「正直、分からないです……さっきの戦いがまだ頭から離れなくて……」
エメラルドがベッドの足元に飛び乗り、その毛並みを整えながら冷静に言葉を放った。
「今夜の出来事は誰にとっても過酷だった。だが、ここで生きていく以上、現実から目を背けるわけにはいかない」
歩はエメラルドの言葉に小さく頷いたが、心の奥底では未だに恐怖と無力感が渦巻いていた。
グラッカンはスコップを壁に立てかけ、ゆっくりと立ち上がる。
「お前が無理に強くなる必要はない。だが、こういう世界で生きるなら、まずは自分を守る術を覚えることだ。それは逃げることでも構わない」
歩はその言葉を反芻しながら、重い瞼を閉じた。頭の中では、団長の冷静な目つきと力強い言葉が何度も繰り返されていた。
「自分を守る術……」
一瞬、彼はその言葉の意味を深く考えようとしたが、疲労が限界に達し、いつの間にか意識を失っていた。
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翌朝、リヒタンシュタールの街は一夜明けて、戦いの傷跡を残しつつも、再び動き始めていた。人々はまだ緊張した面持ちで通りを行き交い、瓦礫の片付けや修復作業に追われている。
歩は宿の窓からその光景を見下ろし、異世界での初めての朝を実感した。外では、昨日の戦いを忘れまいとするかのように、騎士たちが厳格な態度で見回りを続けている。
「昨夜の出来事が、街の人々にどれだけの影響を与えたか……分かるか?」
エメラルドが窓辺に跳び乗り、冷静な声で問いかける。
「うん……みんな怯えてる。だけど、それでも動いてるんだね」と歩は静かに答えた。
その言葉には、自分もまたこの世界で何かを成すべきだという思いがわずかに滲んでいた。
その時、廊下の向こうから足音が響き、扉がノックされた。
グラッカンが立ち上がり、扉を開けると、そこには昨夜の騎士団長が立っていた。彼は昨夜と変わらず堂々とした姿勢で、歩をまっすぐに見つめている。
「朝早くすまない。だが、君たちには王城で話を聞いてもらう必要がある」
団長の声には、昨夜の激戦を経験した後とは思えないほどの冷静さがあった。
歩は驚きつつも、その提案を拒む理由がないことを理解していた。
「わかりました……でも、王城で何を話すんですか?」
団長は一瞬考えるように間を置き、それから低く静かに言った。
「君がこの世界にいる理由、そして、昨夜のゴルム出現が示す異変についてだ」
その言葉は、歩にとって新たな冒険の幕開けを告げるものだった。彼の中に眠る不安が再び目を覚ますが、それでも彼はエメラルドと共に団長の後に続くことを決意した。
異世界での新たな一歩を踏み出す朝は、冷たい空気の中に、かすかな緊張と希望の香りを漂わせていた。
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城門が目の前にそびえ立つ。
リヒタンシュタールの喧騒を背に、歩はその圧倒的な存在感に言葉を失った。
巨大な石造りの門は、この地に永遠に立ち続けるかのような重厚さを誇り、歩が今まで見たどんな建造物とも違う厳かさを持っていた。風化した石の表面には無数の刻印が刻まれ、それぞれが何百年もの歴史を静かに語っているようだった。
団長は無言のまま門の前に立ち止まり、衛兵たちに鋭い視線を送る。その目の中には言葉以上の命令が込められていた。
衛兵たちはその視線を受け取ると、同時に槍を掲げて敬礼した。
歩はその厳格なやり取りに、背筋が自然と伸びるのを感じた。ここでは、誰もが役割を果たし、誰もが異世界の一部として動いている。
「開門せよ」
団長の低い命令が響く。
重い鉄の音が周囲に広がり、門がゆっくりと動き出した。その動きはまるで、長い眠りから目覚めた巨人が呼吸を始めるかのように、ゆっくりと、しかし確実に歩の前に新たな世界を広げていく。
歩の心臓が高鳴り、不安と期待がないまぜになった感情が胸を締めつけた。
エメラルドは足元で警戒するように尾を揺らし、グラッカンは疲労に歪む顔を見せながらもその目を鋭く保っていた。
門の向こうには、広大な中庭が広がっていた。整然と並ぶ花壇には色とりどりの花が咲き誇り、風にそよぐ草木の音が心地よいリズムを奏でている。中央には大きな噴水があり、その中心には剣を掲げた英雄の彫刻が立っている。水が陽光を受けて輝き、その飛沫が虹のように煌めいていた。
「ここがロルハイハニア王城……」
歩は思わず呟いた。その声は自分の耳にすら届かないほど小さかった。
「この城は国の誇りだ」
団長が先を行きながら言う。
「何百年もの間、戦争や魔物の襲撃に耐え、今もなおその威厳を保ち続けている」
歩はその言葉を噛みしめながら、中庭を進む団長の後を追った。その足取りは重く、心の中にはまだ昨夜の戦闘の残像がちらついていた。
やがて彼らは城内へと続く扉の前に到着した。その扉は、巨大な木製のものに金属の補強が施されており、表面には複雑な紋様と古代文字が彫り込まれている。衛兵が無言で扉を開くと、その向こうに広がるのはまた一つ別の世界だった。
城内に足を踏み入れた瞬間、歩は圧倒的な異世界の威厳に包まれた。
大理石の床は鏡のように磨き上げられ、その上に立つ自分の姿がぼんやりと映り込んでいる。壁には豪華なタペストリーが掛けられ、歴代の王や英雄たちの肖像画が並ぶ。その目が歩を静かに見つめているように感じられた。
天井の高いホールには、無数の燭台が並び、柔らかな光が空間を満たしている。
光と影のコントラストが、この場の静寂をさらに強調していた。歩くたびに靴底が大理石の上で微かに滑る感触が伝わり、そのたびに自分が場違いな存在だという思いが胸を締めつける。
「こちらだ」
団長の言葉を受け、歩は緊張しながら彼の後を追った。
やがて彼らは、さらに巨大な扉の前に立った。その扉の前には、二人の衛兵が無言で立ち、その体勢には一切の隙がなかった。
団長が軽く頷くと、衛兵たちは敬礼し、扉を開けるために手をかけた。
扉が開くと、広がるのは王の間だった。
その空間は広大でありながらも、歩を圧倒するほどの威厳と冷たさを持っていた。壁には金と銀の装飾が施され、細やかな彫刻が隅々まで埋め尽くしている。部屋の中央には高い位置に玉座が置かれ、そこに一人の男が静かに座っていた。
男の姿は堂々としており、重厚なローブがその体を包んでいる。
頭上には細やかな装飾が施された王冠が輝き、その下の顔には威厳と冷静さが漂っている。その瞳は、ただの装飾品ではない、本物の力を宿しているように見えた。
「異世界から来た者よ」
王の声が静かに、しかし力強く響いた。
「私はロルハイハニア国王、レオン・ウィクニス・ロルハイハニアだ」
その一言一言が、広い空間に反響して歩の胸を震わせる。言葉の重みが、この王の統治する世界の広さと深さを暗に示しているかのようだった。
歩は震える膝を押さえながら一歩前に進み、声を絞り出すように答えた。
「僕は……天川歩と言います。異世界から来た学生です……」
レオン王はその言葉を聞くと、しばらく静かに歩を見つめていた。その目には冷静さと深い思索の色が浮かんでいる。
「君のような存在がこの世界に現れたこと、それ自体が異常だ」
王は静かに言葉を紡いだ。
「召喚の儀を経た勇者以外に異世界からの来訪者が現れることは、歴史上一度もなかった。君の存在が、この国、いや、この世界に新たな波乱をもたらす予兆であることは間違いないだろう」
その言葉の重さに、歩は息を飲んだ。自分がこの場所にいることが、ただの偶然ではないという現実が、言葉と共に彼の胸に深く突き刺さった。
「君には多くの疑問があるだろう。それに答えるためにも、まずはこの城に滞在し、この世界の現状を学んでほしい」
レオン王は静かに続けた。
「君のこれからの選択が、この国、そしてこの世界の未来を左右するかもしれない」
歩はただ静かに頷いた。
玉座の間の静寂が、歩の全身を包み込む。扉が閉じられる音が、空間に響いて消えると、部屋全体に広がる冷気が一層鮮明に感じられた。歩は、王の鋭い眼差しを受けながら、まるで自分が小さな虫けらになったような気分を味わっていた。
レオン・ウィクニス・ロルハイハニア王。その名前が示す重さは、玉座に座る男の存在感そのものだった。彼の目は鋭くも静かに歩を見据え、彼の一挙手一投足が、この国を支配する王としての威厳を体現している。
「アユム――君の存在がこの地に何をもたらすのか。それを見極める必要がある」と王は静かに語った。その言葉は重く、どこか冷徹さすら感じさせた。
歩は唾を飲み込む音すら気にしながら、震える声で答えた。
「僕には、なぜここにいるのか、自分でもまだ分かりません……でも、少しでもお役に立てるなら」
王の唇がわずかに動き、微かに笑みを浮かべたようにも見えた。しかし、その表情はすぐに厳しいものに戻り、彼は慎重に言葉を続けた。
「君がここに来た理由を知るためには、この国の現状と、迫り来る危機について理解する必要があるだろう。我々もまた、君の力を知る必要がある」
「危機……ですか」
歩は、王の言葉に不安を抱きながらも、その詳細を求めるように尋ねた。
王は玉座からゆっくりと立ち上がり、その動きに合わせて周囲の空気が変わるのを歩は感じ取った。
「昨夜、君も目にしたゴルム。それは、この世界に不穏な動きがあることの象徴だ。通常、あのような魔物が人間の居住区域に現れることは極めて稀だ。だが、最近になってこうした異変が増えている」
その言葉に、歩の中で昨夜の恐怖が再び蘇る。ゴルムの巨体、その咆哮、鋭い爪の一振りで命を奪われた騎士たち――目を閉じてもなお鮮明に蘇るその光景が、彼の胸を強く締めつけた。
「そして、これが問題の核心だ。魔物の出現だけではない。隣国との関係も不安定になりつつある。我々の力は、いつまでも均衡を保てるものではない」
王の声が低く響く。その言葉に、歩は自然と握り拳を作った。
異世界に降り立ったばかりの自分に、何かできることがあるのだろうか――不安と疑問が頭を駆け巡る。しかし、王の視線が彼に向けられると、その一瞬の静寂に飲み込まれるように、歩は息を呑んだ。
「君がこの世界に現れたのは、偶然ではないだろう。私たちにとっては未曽有の出来事だが、同時に新たな希望でもあるかもしれない」
王の目は、歩の心の奥底を見透かすかのようだった。
「君自身の決断が、この国の運命を左右するかもしれない。その覚悟を持てるか」
その問いに、歩は一瞬ためらいながらも、小さく頷いた。
「……やるべきことがあるなら、僕にできることを見つけます」
王はその答えを受け取り、軽く頷く。そして、団長に視線を向けた。
「彼を訓練所へ案内し、まずは体を鍛えるところから始めるといい。自らの身を守る術を学ばねば、これからの試練には耐えられまい」
団長がその言葉に応じて歩に歩み寄る。
「ついて来なさい」
歩は、心の中で不安と決意を同時に抱きながら、団長の背中を追う。玉座の間から出るとき、王の視線がなおも自分を見送っていることに気づいた。その目には、彼の未来を見通すような、重々しい期待が込められていた。
異世界での新たな挑戦が、これから始まる。歩はその一歩を踏み出すために、静かに深呼吸をした。