The nightmare is right next to you.
ぼんやりとした灯りだった。
この小部屋を照らすワインセラーは、外気との温度の差で透明な取り出し口は曇っていた。
近づいて中を確認する必要があるな、とWDが言うが中々部屋に入ろうとしない。サクラは不満顔をWDに向けた。
「あからさまだろ、アレは」
部屋にぽつねんとあるワインセラーを指を指すWD。
サクラはWDが何を言っているか始め理解できずに、部屋に入ろうとした。
「ちょい待て」
サクラは肩を掴まれ、引き戻される。
「いった、何……!?」
「どう考えても、だろ」
「何がよ?」
「はぁ、……見てろ」
莫迦にされたサクラがWDを睨むが、WDは素知らぬ顔でウェストポーチからピンポン球ほどの鉄の玉を取り出した。
一つをワインセラーの方へと床に転がし、もう一つを緩やかな放物線を描くように部屋に投げ入れる。
どちらもワインセラーの手前で二つの鉄球は動きを止めてしまった。奇妙なのだ。壁にぶつかって動きを止めたのではなく、その位置にくると反作用もなく、その場で一時停止したのだ。
床の鉄球はある地点で微動だにしなくなり、放り投げた玉は空中で何かに掴まれたかのように、止まっていた。
「へ?」
思わず出てしまった間抜けな声が、自分の声だと気がつくとサクラは恥ずかしくなってしまう。が、眼の前で起こる現実離れした光景から目が離せない。
鉄球が当たった空間が水面のように揺れ小さな波紋が広がって、波紋で透けて見える向こう側の景色が揺れていく。
その光景にサクラは自分の視界なのにも関わらず画面酔いしそうになった。そして、生じる微かな嫌悪感。
(この部屋は、何かイヤだな……)サクラの直感がそう囁く。
無防備に部屋に入ろうとした自分にも恥ずかしくなった。
「蜘蛛か……それとも」
そんな光景を見ながらWDが呟く。
「くも?」
反射的に返したサクラの言葉に、WDが「虫のだが」と付け加えた。
「鉄球を止めるくらいの糸ってこと?」
サクラの言葉に反応せずに、WDが鉄球を一つ出す。
「推測が正しければ、鉄球自体を止めてる訳じゃない、……らしい」
大きく振りかぶったWDが鉄球を見えない壁に向かって鉄球を投げた。
剛速球、とまではいかないがWDの振り切った腕から飛び出た鉄の塊は、やはり部屋内のある場所までたどり着くと音もなくピタリと止まる。先ほどの波紋よりも大きな波紋が、WDの投げた鉄球を中心に広がっていく。
「ねぇ、……本当に蜘蛛の巣なの?」
サクラにはWDの曖昧な言葉に眉をひそめた。
「さぁな。まぁ、……どうだろうな。実際に蜘蛛自体は見たことがないしな、もしかしたら隠喩かもな」
WDの言っていることが訳が分からない。サクラは、意味分からないんだけど、という言葉を飲み込んだ。
「何かの装置かそれとも呪術か魔術か」
どうしたもんかな、腕組みをして小部屋の空間を睨むWD。
魔法などと言い出した眼の前のWDをサクラは思わず睨んだ。この状況下におかれてしまったサクラは、サブカルな単語に過剰に反応してしまう。
「アニメ漫画じゃないのよ?」
「……あぁ、そうだな」
少しだけ自傷気味に嗤うWD。サクラの批判をどこ吹く風、後ろにあるワイン棚から空瓶を手にとって、宙に浮いている鉄球に近づく。サクラも部屋に続いて入ったが、感じていた妙な嫌悪感が強くなった。
「何する気?」
「……実験だな」
「実験?」
相づちをうった後、WDは瓶で鉄球を押す。すると、ゆっくりだが鉄球がめり込んでいき、ボトリと向こう側に落ちた。
サクラも確認しようと近づこうとして、ワインセラーの電磁音とは別のノイズに意識をむけざるえなかった。妙に耳に残る残滓。
(何か聞こえる、けど、この音は何?)
外にいる叫ぶアレとはまた別の音だ。
壁に向かってWDが瓶から手を離すと、鉄球の代わりに空瓶が浮いている。サクラは音のことも相まって、もっと間近で見ようと近づいた。
ぃぇリぃ。
無理矢理に言葉にするとそんな音、サクラの耳には確かに届いてくる。近づけば近づくほど明瞭に、聞けば聞くほどに、さらに嫌悪感が増していく。透明な壁から聞こえている、と確かめようと近づこうとするサクラをWDが制止させた。「音が……」「音?」どうやらWDには音は聞こえていないらしい。
「まぁ、とりあえず通り抜ける方法は、理解した。時間がないから、強行突破だな。如月咲良さん、協力といこうか?」
WDが嗤う。子供が悪戯を思いついたような、そんな笑顔だった。
──It's not the humans themselves that are crazy.
「は?」
サクラはその方法を聞いて、でた言葉は一文字だ。
──Madness kills thought.
物体が押し出せば通れるのなら、人間の体も通れるのではないか?
もしそうなら先にWDが壁にめり込み、壁に挟まったWDをサクラが押し出す。
それがWDの言う方法だった。
「いや、やばいでしょ」
サクラは怒りを通り越して、呆れていた。
「そんな不完全な防犯装置ないでしょ」
そして壁への嫌悪感は、サクラの中で拒絶に変わりつつある。
「ふむ」
「それに他に方法とかあるでしょ?」
「例えば?」
「スイッチよ」
サクラは、「こんなの」と指を指しながら、透明な壁はゴミ集積所のカラスネットみたいなものなんだろう、と主張する。聞いたWDは笑い出した。
「烏除けか、なるほど。防犯だとすると、確かに近くにスイッチがないと、な」
侵入者をからめ取る装置なのだ、オンオフの切り替えがなければ使いづらいだろう、とWDは説明を付け加える。
消していたライターを灯して、WDは壁や床、天井にめぼしいモノを探し始めた。
サクラもそれに習う。
ワインセラーの灯りで誤魔化されていたが、壁や床は所々に小さな黒いシミがある。何かが飛び散ったような跡。
(一体何が飛び散ったのか?)
床の隅までねめまわす。
「「あ」」
言葉は同時だった。サクラは部屋隅に小さな印を見つけ、WDは壁に鍵穴を見つけた。
「変な印があった」
サクラは掠れて薄くなった印は、五芒星に似たそれだったが、奇妙に変形していた。それに既視感を覚えたが、思い出せない。
「こっちは鍵穴だな」
鍵という言葉にサクラがWDの方に目をやると、別の部屋で見つけた鍵を取り出していた。
WDは一考すると先ほど見つけた鍵を鍵穴に挿しこみ、鍵を回す。
何の抵抗もなく、カチャリと音がする。
ぃぃけリぃ
奇妙な音とともに壁がなくなって、ワインや鉄球が床に転がった。
何かの支えを失ったワインの瓶が地面に落ちたが、辛うじて割れずに鈍い音を立てる。
奇妙な音を聞いたWDは驚くようにサクラを見据えた。
「危なかった……」
「え?」
「俺の考えた案で突破してたら、死んでた。助かったよ、ありがとう」
礼を言われたが、理解が追いついていないサクラはしばらくしてから「はぁ?」と聞き返してしまう。
WDはその場に佇むサクラを置いて、ワインセーラーを開けていた。目当てのワインなのだろう二本取り出す。
「お目当てのモノは揃った。さて、戻るぞ」
──Return to the scene of the encounter.
二人が小部屋から出る。
ワイン棚が並ぶ部屋に戻るなりWDが廊下側に何かを見つけたようだった。サクラに向かって人差し指を立て、自分の口に押し当てる。
(え?何かいる?)
サクラにも理解できた。廊下から何かを引きずるような音が聞こえてくる。
──And then the monsters come too.
サクラは忘れかけていた。あの絶叫の主を。
WDが身構えながらも、微動だにしない。その表情に余裕はないようだ。
時間が延びたのかと思うほどの、恐怖だった。サクラは息をし忘れかけ、足がしびれて感覚がなくなっていく。
(あの叫びのヤツだ、ここまでたどり着いたんだ)
全神経を耳に集中した。引きずる音は何かを探しているのか、ゆっくりと遠ざかっていく。
聞こえなくなってからWDが静かに扉に近づいて、廊下の様子を窺った。
「今のうちだ」
聞こえるか聞こえないかの音量でWDはサクラを呼ぶ。
WDの手招きにサクラは、ようやく自分の時間を取り戻した。
教室に入るとやはり伽藍としているばかりだった。
なにもなく、床に魔法陣らしき模様があるだけ。
床に奇妙な模様にサクラは、先ほど見た印で感じた既視感の正体を把握する。
(あぁ、この五芒星だ)
サクラが入り口で立ち尽くしていると、WDはその魔法陣の前で拝借していた手帳と自分の手帳を取り出して、見比べてながら何かを確認しているようだった。
「……よし、あっているな」
WDが何かを唱えると、魔法陣の周りにあった幾つかの蝋燭に灯がともった。
呪文。
と、サクラが解ったときに、WDは手に入れたワインを魔法陣にかけた。この部屋に入ったときに嗅いだ奇妙なにおいだった。
焼けた鉄の匂い。
ゴぉーン、という乾いた轟音と共に魔法陣の円の中に穴が口を開く。部屋から溢れるほどに轟音は鳴り響き続ける。
「何コレ?」
「飛び込め!」
「はぁ?」
帰り道だ、とWDは叫ぶ。「厭に決まっ……」サクラは首を振る。
「早くしろ、アイツが来る!」
サクラの言葉を遮ったWDが言い切るか言いきらにないかのタイミングだった。
オぉぉぉ゛お゛お゛お゛おをお゛ぉぉぉぉぉぉぉいい゛ぃ゛ぃ゛ぃぃぃぃ!!
廊下で彷徨う獣が吠えた。
サクラは反射的に両手で耳を塞いだ。きぃん、と耳が鳴る。このままだと頭が割れる、そう思えた。風船が割れるみたいに頭が破裂する、と本気で思える。
ふと、風圧が消えた。
音が鳴り止み、耳から手を離したが耳鳴りが続いている。
教室の廊下側の壁が、何かがぶつかる衝撃で揺れ動いていたが、サクラの見ている世界には音がなくなっていた。
WDは何か叫んでいるが、サクラにはまるで聞こえない。
聞き返そうにも、自分の声が発せられているのかも怪しかった。
「帰れ、自分の場所に。歴史を変えちまったかもしれんし、それとも別世界線のキサラギサクラなのかもしんが、帰れ」
WDはサクラを怒鳴りつけたが、聞こえず顔をしかめるだけ。
埒があかないと思ったのか、WDはサクラの腕をつかんで穴の中に放り込んだ。
「へ?」
油断をしていたと言えば、油断をしていた。
宙に投げ出された躯は制御が聞かなかったが、放り込まれた方をみるとWDの顔が小さくなっていく。
「これから出会うだろう俺によろしくな」
口が動いているのは、何とか解った。
そして、体当たりを続けられ部屋の壁が破壊され、WDに瓦礫が飛んできているところまでは、覚えている。
(死んだな、これは)
眼が覚めると、病院の天井があった。
(眼は見えている)
清潔なアルコールの匂い、肌触りのよいシーツ、遠くから聞こえてくる生活音と誰かの声。
(耳は聞こえてる)
聞けば、昨晩教室に灯りがつけっぱなしに気がついた教員が、消灯の際に倒れているサクラを見つけたらしい。
(戻ってこれた……?あれは夢)
結局夢オチか、ため息をついたが、そうは問屋は卸さなかった。
「本当に二週間も何処にいたの?」
駆けつけた母親にサクラは何度も聞かれ戸惑ったが、曖昧な返事をした。説明が難しかったからだ。
一応と検査も始まり警察もやってきて、母親と同じ質問と他にいくつかの質問をされたが、やはり曖昧な答えしかできなかった。警察が帰り際に言った。
「君の荷物の中に、鍵開けの道具が入っていたんだけど、心当たりあるかな?」
サクラは首を振る。
「そうか」
道具は処分されるのか、とサクラは警察に尋ねると、「いや、警察はゴミ収集係ではないからね。あぁ、あと道具の所持だけで逮捕も出来ないからね。まぁ、使用できる状態で持ち歩かないようにね」と嗤われた。
「使い方すら解りませんよ」と嘘をつく。
退院してからの暫くしての休日に、鈴木陽菜と志乃宮薫と久々に遊ぶことになった。
「結局、何処にいたの?二週間も」
サクラは二人にもあの出来事を話してはいない。
「秘密……、というか覚えてないんだよね」
「えぇ、怖ぁ」
と笑い声。
二人のおかげで二週間の遅れも、クラスで浮きかけた自分の立場も守られた。サクラの中では、今日は二人への感謝を示すために二人を誘ったのだ。
「あ、サクラ聞きたいことあるんだけど?」
「何、何々?」
「……怖い話」
「えー、勿体つけるなぁ、……で?」
「大井って覚えてる?」
サクラはきょとんとした顔を彼女に見せた。
「え、誰それ?」
サクラが帰ってきてから、たった一つ変わってしまったことがあった。
──The nightmare is right next to you.
担任の大井という人間を、誰も覚えていないのだ。
「え、覚えてない?一ヶ月前に、……」
言葉を遮るように彼女に抱きつく。
「ちょ、やめ」
「カラオケって久々」
「晴れて良かったねー」
──The truth is made so that no one can understand it.