幕間ⅰ
もう数十年前のこと、私がいつも通勤でつかう地下鉄の通路に浮浪者がいた。
同じ場所で段ボールで小さな寝床を作って座っている。
前を通る度にブツブツと呟いていたが、忙しい毎日の疲れとラッシュの喧騒で何気なく聞き流していた。
ある日、早起きの習慣をづけをするために早退をして、帰路についた。
勿論、浮浪者の前を通った。
「……人」
余裕があったのと、地下鉄の通路には人があまり居なかったせいもあって、その小さな声を聞き取ることができた。
ははは、確かに「人」だ、何を言っているかと思えば、なんだこの浮浪者の暇つぶしだったのか。
歯の間に詰まった物がとれた感覚になった私は気分良く帰った。
次の日、早朝の地下鉄は空いていて、適度な人がいた。
快適な気分のまま、浮浪者の前を通ろうとすると、私と浮浪者の間に急ぐ背広の男が通っていく。
「……豚」
呟きが聞こえた。反射的に前方で急ぐ男を見ると、ひょろりと痩せていた。
……失礼だし、豚というには痩せすぎだ。この浮浪者には、人を楽しませる冗談の感覚はないようだ。
残念な気持ちになって私はその場を去ろうとした。
「……豚」
また呟きが聞こえた。少しの好奇心が残っていた私は物を落としたフリをして、浮浪者の前を通った人物を確かめることにした。
しばらく待つと、私を抜き去る小太りの中年女性。
あぁなんだ。ただ悪口を言ってただけか。私は、会社へと向かった。
その日の帰り、浮浪者がいる通路に向かうと、容体のよい男が通り過ぎる。
「……牛」
呟きはよく聞こえた。
「……鳥」
浮浪者がまた呟く。今度は、スーツを着こなしたサラリーマン。中肉中背だ。
「……豚」
次は、ガリガリの女性。痩せ細った鳥というべきだ。
「……魚」
前を通ったのは、少し背の低い青年だ。
私の中に疑問が生まれた。もしかするとこの浮浪者が呟いているのは、悪口ではないのかもしれない。
浮浪者の前を通る。
「……野菜」
呟かれたことで私の中で一つの仮定が生まれた。私はこの浮浪者のせいで捕まるかもしれない。浮浪者の前で立ち止まって、硬貨を数枚入れてやった。
「……ありがとうございます」
浮浪者から礼を言われたが、その視線は私を見ていなかった。
どうやら眼が見えていないらしい。私は何も言わずにその場を立ち去った。
しばらく遠くから浮浪者見守ったが、どうやら演技ではないようだ。
幾つかの方法を考えながら、家へと急ぐ。
念には念を。明日からは、通勤でつかう道を変えよう、と決めた。