A fish was washed ashore.What happens next?
「はっぴぃばーすでぃ、おーれー!三十、misoji、さんじゅう。三十路、みそじ、三十歳」
男の声が伽藍とした四畳半の空間に響く。その歌声は驚くほど小さく歌なのか呟きなのかも定かでない。
(三十になっちまったな。あぁ、この世界がゾンビー物の映画的な世界がったら、このあとの展開で、……)
男は古ぼけた畳の上に大の字になりながら、天井のシミを眺めている。
(引きこもりの男、ゾンビが現れる世界、……テンプレなら死亡フラグたってね?いや、引きこもりではないか)
妄想が進んでいく中、外でサイレンが聞こえてくる。
(まさか、本当にゾンビ物の……。何を言ってるか訳が分からないだろうが、言ってる自身も分からない)
頭を抱えて寝返りを何度もうつ。妄想の中で丁度、美少女に囲まれ始めた頃合いだった。
事実は、男は三十になった、という事。
そのことを理解しつつ、男はバイトの時間を確認する。
ため息が零れる。誰も祝ってくれない誕生日。
要するに絶望とは、多分、それなのだ。
男は起きあがって、出かける用意をし始めた。
コンビニのバックヤードに時計の入りの音が落ちる。
耳を澄ませながら男は、親指の指先に押し込む感覚が伝わってくる。
男はコンビニのバイトの休憩に携帯電話を弄っていた。安いという理由で携帯端末にしていない。どうせ鳴らないのだ。
携帯電話の電話帳から、ここ何年か連絡をとっていない人間を探して消す。
ここ数日行ってきたせいで、まるで作業する機械腕のように指が動く。
カーソル下、サブメニュー、カーソル下、カーソル下、削除選択、決定ボタン、カーソル左、決定ボタン。
感情のない瞳が画面の文字記号を脳みそに送り、判断し処理して指先に指令を送っていく。感情がどうにかなれば、この世で一番簡単なお仕事だと男は思っている。
作業終盤、画面の中に残ったのはほんの数人で、その数人もこの数ヶ月連絡をしていない。恐らくまた開催されるこの簡単なお仕事は一月後にも行われ、そうすれば完全に携帯電話の記憶領域は、真っ白になってしまうだろう。
男が勤めていた会社から解雇を言い渡されたのは、半年前。同僚たちは形式的な挨拶──「必ず連絡するから」、「寂しくなる」、「そうのち飯でも行こう」など──はしてくれたが、この半年連絡がまったくないのは、きっとそういう事だろう。
言いがかりの解雇だった。
セクハラをされたと言い出した女子社員と平均的な仕事しかできない男性社員を天秤に掛けた上層部は、男性に解雇を言い渡す。
「再調査もしてみる」「一旦、辞めてもらう形になる」「呼び戻すことになるかもしれないから、用意はしておいてくれ」「退職金に色を付けておくから」調子のいいことを並べていたが、まぁ、厄介な裁判沙汰に巻き込まれたくなかったのだろう。
(畜生、頭で理解しても感情がついてこないな)
と思いながらも始めた作業は慣れてしまい、いつの間にか感情が麻痺してキリの良いところを見つけれる様にまでなった。作業を終えて自傷的な笑みを口許に浮かべる自分に、ため息をつく。携帯電話をいつもの定位置であるポケットに押し込んだ。
(結局、…というか、やっぱり誰からも連絡がなかったなぁ)
組織というヤツは何かが欠けてしまっても、動くように出来ている。そう解っていても連絡がくるだろうと男は少し期待していた。
(ワイに友達なんぞおらんかったんや……)
心の中で悪態をはきながら、首をゆっくりと回す。ゴキと音を立てた。
小さい事務所兼倉庫の室内の掛け時計を見上げると、そろそろ休憩時間も終わり。あと数時間で男は仕事から解放される。
もう朝の四時を廻っている。
男は伸びをしてから、「あと一踏ん張り」と両手で両膝を叩いて立ち上がった。
と、男は意気込んだが、こんな時間帯に店の中に客の姿なんぞない。
いつも通り男は売れ残っている新聞を一通り読み終え、次は雑誌に手を出そうとしていた。
「オッサンってさ」
朝方はこの地域にはそもそも人口密度が薄い。そんな場所、時間帯だろうが企業規則で決められた二人勤務体制のおかげで、いつもの片割れは、唐突に男に質問をしてきた。
「ん?」
毎日恒例の入荷と棚卸しも終わり、雑誌を取りに立ち上がろうと思っていた時だった。少し離れた所に座っている男の同僚が携帯端末を片手に何気なくを装い尋ねてきた。
「いや、オッサンって将来どうすんの?」
この同僚は男をオッサンと呼ぶ。
「将来って、数時間前に三十なったんだぞ。将来もクソもあるか」
「マジで」
スマホから目を離して男の方を見る。
「マジで。どうした?急に」
「どうもしないけど…」
「らしくないじゃないか」
「いや、…親にさ、ちょっと言われて」
大方、そろそろ就職しろとでも言われたんだろと男は思った。
「お前、二十三だっけ?」
「二十一だよ」
「あぁ、そうか。高卒だっけ?」
「そう、だけど」
「なら今から金貯めて、資格の勉強しろ」
「は?」
「その歳ならまだ間に合う」
「そんな頭ねぇよ」
「嫌なら一生そのままだぞ。無理と思うなら、遊ばずに節約して金貯めろ」
男がそう言いきると、同僚はばつが悪そうに俯くと携帯端末を操作し始めた。男は同僚が何も言ってこないと確認する間をつくってから、新聞と雑誌を交換をする為に立ち上がった。
「お疲れさんです」
朝勤務のバイトくんに引き継ぎらしからぬ引き続きをして、電子出勤簿を押す。仕事の同僚は着替え終わると早々と単車で帰ってしまっていた。
(つれないな)
と思ってから自分の感情を否定した。そんなことなどと思わない。男にはあれ以上言うことはないし、やってあげれることもない。同僚には同僚の事情がある。気まぐれに愚痴を言われ、気まぐれに返答しただけだ。
従業員用の出入口はないので、客とすれ違いながら外に出る。やけに朝日が目に染みた。これから登校する学生やら、出勤するサラリーマンやらOLやらが押し寄せてくる。
これ以上ここにいると、ずるずると手伝ってしまう。
(いかん、いかん)
男にはそもそも他人の干渉を嫌ってきた節があった。自身それはよく理解と認識をしていたつもりだったが、朝方の携帯電話の件といい、同僚への助言といい、どうにも避けられたら避けられたで傷心気味になる。
(本当に自分勝手だな。反省ハンセイ)
誰もいない早朝の街を、一人暮らしの住処に向かって歩き始めた。
(もしかしたら悲劇のヒロイン症候群なのかもしれん)
暫し、ぶらぶらと十五分ほど歩きながら考えていると、生臭い臭いが立ちこめて、男は周囲を見渡した。道路にでも生ゴミでもあるのかと探してみるが、そんなモノはありそうにない。
(不味い、考え事をし過ぎて知らぬ間に、踏んだか……)
コンビニ裏のゴミ箱からにじみ出した液溜まりを思い出した。
(アレだ、アレに違いない)
一旦靴の裏を摺り足にして、振り返り自分の来た路を確認する。
靴裏には何もない。どうやら周囲の何処かに原因があるらしかった。
──A fish was washed ashore.
男の目の前、鼻先を魚が落ちていく。
──What happens next?
「え?」
空から魚が降ってきた。視線を下げるとアスファルトの上で痙攣する魚。上に何かあるのかと見上げると、小さな黒い点が迫ってきていた。一匹ではなく、数匹。地面に叩きつけられて、数度跳ねて、生き絶えていく。
「は?」
男が立ち止まって呆然するのを、余所に降ってくる魚の量が徐々に増えていく。目の前の路は死骸にで踏み場がなくなって、男はようやく後ずさりをした。
あっという間の事だった。
ようやく魚は降りやみ、数匹が跳ねている。
奇妙なことに、魚は道幅きっちりに、男の目の前から数メートルの距離でしか降っていない。
目の前で起こった現象に気が動転した男は振り返って走り出した。
(なんだ、なんだんだ?)
警察……交番に行くか?コンビニ戻るか、それとも自宅にアパートに別の路から帰るか?それとも神社かお寺?あぁ教会、錯乱した男の思考とは裏腹に男は全力で走った。そして、数分も持たずに一般三十歳程度の体力らしく、息切れして両手で両膝を持つ。
無意味に振り返る。誰もいない、何の怪異もない。誰にも何にも襲われてない、ただ自分の常識外の現象が自分の目の前で起こっただけのこと。
ここは、いつもの朝、誰もいない街だ。
懐を探って携帯電話を取り出して、110をしようとしたが、電池がへたってボタンを押している最中に、ブチという非情な音ともに電池がきれた。電話帳整理は携帯電話の電池には辛かったらしかった。
男は苦虫を噛み潰した顔で携帯電話にため息をつく。
そこで、警察に電話して「何」を「どう」説明するつもりだったのだろうか、と冷静になった。目の前で起こったことを説明しても、危害はうけていないのだ、警察が動いてくれるわけがない。
(白昼夢でもみた、ということにしようか)
息を目一杯吸うと肺は大きく膨らんで、男は背筋を伸ばした。
遠回りすれば、あの道は避けれる。道はどうにも繋がっていて、男の行きたい場所へと繋がっている。けれど男は走ってきた道を覚えている限り戻ることにした。あの魚は何だったんだろうと思った。
(好奇心、猫を殺す……、そうは言うけれど)
出来るだけ自分で確かめよう、もう有耶無耶は嫌だった。解決は出来なくても、「どうなった」かぐらいかは確かめてもいいだろう、と開き直る。せめて、市役所に連絡して清掃作業を依頼は出来るだろう。
(いや電池きれてるか……)
苦笑い。まだ混乱してるのかもしれない。
戻ってみると、魚を運搬する軽トラックが運搬物を落下させた状況になっていた。男の視界端には、不可思議なことに魚を入れる箱の下に魚が散らばっている。
(後から箱を置いたみたいだ)
騒ぎを聞きつけた住民がちらほらと遠巻きみている。やがて清掃車が駆けつけて作業を始めた。
「すごい音だったわ」「隣町に卸に行く途中だそうよ」「よかったわ、けが人もなくて」男の耳に、そんな言葉が聞こえてきた。
自転車に乗った制服警官が二人やってきて、「ぁぁ、もう」「運転手の方は、いますか?」と声をかけ、草臥れた顔の女が手をあげる。
電話をしているようで、かけ直す旨を告げて警官の問いに答え始めた。
見届けた男はゆっくりとその場を離れる。
(世界が、そういう事にしたのか。誰かがそういうことにしたのか)
「どう」なったかを確認できた男は満足して、歩き出した。
(もしも誰かがどうにかしているなら、どうしてそんなことにしてるのか?)
満足したが今度は別の疑問も沸いてくる。手がかりは何もない。何も判らないまま家にたどり着いて、意味不明な出来事に混乱し続けている自分を慰めるため、シャワーを浴びた。整理できない頭は休息を欲していたのだろう、ベッドに倒れ込むと、次の日だった。
(丸一日寝てたか、……腹が減った)
薄明るい窓の光の中、あれは夢だったのだと目が覚めて男は思うことにした。
携帯の充電を忘れていたので、コンセントから延びる電線を携帯に刺して冷蔵庫を開ける。
(空っぽ、外で食うか)
帰りに何か食べて帰る気だったのだが、不可解な出来事に巻き込まれ完全に忘れていた。
コンビニのバイトまで時間がある。着替えて、5%と表示する携帯から電線を引き抜いた。どうせ誰からもかかってこない、と解っていても充電器も一緒に持って出る。
交差点のビルの二階、窓の外を眺めながら残り少ないポテトを食べる。テーブルに備え付けのコンセントで携帯の充電を完了した。
ありふれたファーストフードで簡単にすませてしまうと、やることがなくなった。バイト先に向かうとしても、あと一時間と少しは何かして暇を潰さないといけない。
赤信号で止まる車と人、青信号で動き出す車と人。信号機の音、ガラス越しの車のエンジン音。黒いアスファルトに白線が妙に綺麗な幾何学模様に見えた。
ふいに、あの魚はどうしてここでは降らないんだろう。と男は思う。
降るはずがない。それは現実的じゃない。
(じゃあ、経験したアレはなんだったのだ)
白昼夢にすると決めたのに、我ながら意志が弱い、と男は立ち上がる。
バイトの先のコンビニ途中に、図書館の分館があったはずだと、空から魚が降る現象を調べると決めた。
その分館の入り口をくぐると、静かな秩序があった。本棚が整然と並び、分類法で本が収まられている。そこには、一ミリも混沌がない。
図書館のパソコンで「空から魚が降ってくる」と検索する。ファフロツキーズや怪雨という言葉が結果が並んでいた。
会社を辞めてから、久々に触ったパソコンは妙に異質なモノに感じる。
──The world is observed and established.
──Understand?