町で見かけた辺境伯令嬢のお話
◇◆
その日。
太陽が天頂へと昇り、もうすぐでお昼時となるその頃、一人の侍女が、自らが仕える主の部屋の前へとやって来ていた。
トントン――
「美咲様、お食事の用意が出来ました」
扉を叩くこと二度。
侍女は扉から一歩下がり、その奥から主の返事が返って来るのを待つ。
だが……
「…………美咲様?」
だが一向に返事が返って来る様子はなく、侍女はもう一度、目の前にある扉を叩く。
それでもやはり、部屋の中から返事が返って来る様子はなく、侍女は意を決して扉の取っ手に手を掛ける。
「失礼いたします」
侍女が部屋の中へと入ると、そこは既に蛻の殻になっていた。
部屋の中に荒らされた痕跡はなく、そのほとんどが、朝に整理した時と同じ状態のままで残されていた。
「…………」
そしてそんな状況に見慣れていた侍女は、万が一の可能性のことも考えながら、このことを上司に報告すべく、静かにその部屋の扉を閉めるのだった。
□■剛華
その日、剛華がちょっとした気分転換に町を歩いていると、目の前に見覚えのある一人の少女の姿があった。
「あんらー? 美咲様じゃなーい?」
剛華がそう声を掛けると、少女はフワッと後ろへと振り返り、その端整な顔立ちが露になる。
「おぉ、剛華ではないか! こんなところで会うとは珍しいのぅ」
そんな風に返事をしてくる少女――この地を治める天眼辺境伯家の御令嬢――天眼美咲は、剛華の容姿に怖がる様子もなく走り寄って来る。
やはり怖がられずに小さな子供が接してくれるというのは、何とも微笑ましい限りである。
もっとも、美咲は既に十五歳で成人を迎えており、本人に言ったら間違いなく機嫌を損ねてしまうのだが……
「じゃがな、剛華よ。ここで妾をその名で呼ぶでない。今の妾はただのミサじゃからな」
そう言って、美咲はまるで念を押すかのように、剛華にそんな忠告をしてくる。
一瞬何のことだかわからなかったのだが、すぐに今の美咲が、町の中に一人でいることに思い至る。
つまりは自分が、辺境伯令嬢であるということがバレないようにという配慮なのだろうが……既にその意味はほとんどないだろうとも、剛華は考えるのだった。
「まぁ、あなたがそう言うのならそうするのだけれど……でもいいの? また勝手にお城を抜け出したりして……小夜子様とかご立腹なんじゃなーいー?」
「うっ!……」
痛いところを突かれたのか、美咲は剛華からわかりやすく視線を逸らして、宙に目を泳がせ始める。
剛華が今言った小夜子というのは、美咲の母親のことであり、彼女の性格のことを考えれば、今の美咲の行いを許すはずはないのだが……
「……そ、そんなことより! お主は何でこんなところに居るのじゃ?」
(……逃げたわね)
一瞬でそう思った剛華だが、特にこれ以上は突っ込むこともなく、そのまま美咲の話に乗っかることにする。
「私の方はただの気分転換よー。最近ちょっと行き詰っちゃって……」
剛華はこれでも、この町で着物屋を営んでおり、今回町を散歩していたのも、今作ろうとしている新作で、中々良いものが思い浮かばなかったためである。
因みに、今美咲が着ている服もまた、剛華が仕立てたものであり、天眼家は剛華にとっての一番のお得意様であり、美咲や小夜子との交流があったのもその縁だったりする。
「なるほどのぅ。ならば少し一緒に歩かぬか。妾も特に行く当てはないからのぅ」
「……そうねぇ」
ここで美咲と会ってしまった以上は、流石に一人で放り出すわけにもいかず、剛華は美咲と一緒に町を回ることにする。
もっとも、それなりに筋肉は鍛えており、実用性としても、肉体美としても抜かりはないのだが、それでも実際の戦闘力で言えば、剛華は美咲の足元にも及ばないのも事実ではあるだが。
「お! ミサちゃんじゃねぇか。今日も散歩かい?」
「うむ。お主らは仕事を頑張るのじゃぞ!」
「ミサちゃん、串焼き一本どうだい! おまけしておくぜ!」
「別に毎度おまけしてくれずとも良いのじゃが……まぁ、ありがたく受け取っておくがのぅ」
「あら、ミサちゃん。こんにちは」
「うむ。こんにちはなのじゃ」
「ミサちゃん一緒に遊ぼう!」
「まぁ、ちょっとだけじゃぞ」
「ほんと。ミサちゃんが居れば、この町はもう安泰だねぇ」
「別に妾は何もしてはおらぬよ」
美咲が道を歩けば、そこかしこからいろんな人々が、彼女に声を掛けている。
それだけで美咲が、この町の人々に広く慕われていることがよくわかるというものだ。
もっともそれは、美咲が“ミサちゃん”としてだけでなく、“辺境伯令嬢”としても慕われていることを、当の本人はまだ知らないのだが……
そんな町の様子に、剛華がほんのりと笑みを浮かべていると、どこからか切羽詰まったような声が聞こえてくる。
「物取りだー! 誰か捕まえろー!」
突然前から聞こえ来たその声に、剛華と美咲はそちらの方へと目を向ける。
すると目の前に飛び込んできたのは、人混みを掻き分けてこちらに突っ込んでくる二人の男の姿だった。
「……」
「……」
剛華と美咲は素早く目配らせをして、それぞれがどっちを相手にするのかを相談する。
どうやらこの場において、二人の男を見逃すという選択肢はないらしい。
剛華は素早く構えを取って、一方の男を相手にするように待ち構える。
そして美咲はといえば……
「邪魔だ!」
美咲の方へと突っ込んで行った男は、走ってきた勢いのままに、拳を横薙ぎに振るって美咲を殴り飛ばそうとする。
身長の関係上、そのまま振るわれれば間違いなく美咲の頭部に直撃するのだが、美咲は軽く身を屈めることで回避する。
「なっ!」
その素早い動きに、男は一瞬目を見開いて驚くが、それだけでは終わらない。
お返しとばかりに、美咲はがら空きになった男の胴体へと、引き絞った拳を振るう。
「フッ!」
「グハッ!」
美咲の拳は突っ込んだ勢いのまま、男の腹部へとのめり込み、男は声にすらならない何かを漏らしながら、地面へと倒れ伏すのだった。
(まぁ、そうなるわよね)
本来であれば、美咲のような小さくて華奢な女の子ができる芸当ではないのだが、彼女には貴族として生まれ持った魔力がある。
その魔力によって強化された身体能力をもってすれば、この程度の男を相手にする分にはどうということはなかった。
もちろん剛華も当然のようにもう一人の男を締め上げており、突如起こった物取り騒動は、あっという間に終結するのだった。
「「「オォー!」」」
すると周りからは、一連の騒動を見ていた者たちからの歓声が上がり、大通りの一角がいつも以上に騒がしくなる。
「おい! 何の騒ぎだ!」
そうなれば当然、町を見回っていた騎士たちの目にも留まることになり、そんな彼らの姿を見た美咲は、すぐに我に返ったように焦り始める。
「! いかん! 剛華、後のことは任せるぞ!」
「あ! ちょっとー! ミサちゃーん!」
美咲はそれだけ言い残すと、颯爽とその場から走り去ってしまう。
すると度々城へ上がっている時に見かける騎士の一人が、剛華に気づいて声を掛けてくる。
「? これは剛華殿。こんなところでいったい何を?」
「あらこんにちは。いやーね。どうにもこの子たち物取りみたいなのよー……それを私とあそこのお姫様が捕まえたってわっけ」
「何?」
剛華の言葉に、騎士は訝しげに示された方へと目を向ける。
その先にはまだ、美咲の姿が辛うじて見えており、それに気づいた騎士は、首にかけていた笛に思いっきり息を吹き込んだ。
ピー!
「いたぞー! あそこだー!」
騎士たちは、物取りの男たちを連れて行くのに数人を割いて、残りの者たち全員で美咲のことを追いかけ始める。
だがそれは当然のことであり、彼らの本来の任務は、城から脱走した美咲を見つけて連れ帰ることなのだから。
「! 剛華! 裏切りおったなー!」
遠くから美咲のそんな声が聞こえてくるのだが、剛華はただ手を振って、美咲やそれを追いかけていく騎士たちのことを見送るのだった。
そしてその場にいた多くの者たちもまた、彼ら対して微笑まし気な視線を送りながら、その後ろ姿を眺めている。
本来であれば騎士とは言え、大の大人が数人、幼い少女を寄ってたかって追いかけているように見えるのだが、彼らは皆、美咲がこの地を治める辺境伯の御令嬢だということを知っていた。
それだけでなく、美咲が町を散歩して見聞きした事柄を城へと持ち帰り、それを基にして、この町の住人がより良い暮らしができるように取り計らってくれていることもまた、この町の住人は誰もが知っていたのだった。
「妾はまだ遊び足りぬのじゃー!」
そして度々美咲が、城を抜け出しては騎士たちに追い掛け回されるという光景は、この町の一種の風物になっていることもまた、美咲はまだ知らないのだった。
ここまでお読みくださりありがとうございます。
本作は現在連載中の小説『世界を渡りし者たち』の番外編として書かせていただきました。
いかがだったでしょうか?
一応本編を知らなくても読めるようにしたつもりではありますが……
もっと美咲の活躍を読みたいと思って下さった方は本編の方もどうぞよろしくお願いいたします。
因みに、美咲は本編第一章第三話で初登場します。(剛華の登場は未定です)
『世界を渡りし者たち』
https://ncode.syosetu.com/n4499id/
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