第7回
6
「……ここは? ここは、いったいどこなんでしょうか? 私は、私は――」
少女は酷く混乱した様子だった。長く美しい髪を振り乱しながら、整った顔立ちのその可愛らしさは、奈央ですら見惚れてしまいそうなほどだった。
奈央は混乱するそんな少女の肩に、そっと手を振れながら、
「だ、大丈夫だから、落ち着いて」
何がどう大丈夫なのか、なんて言いきれるものではなかったのだけれど、これだけ慌てふためく少女を――イザナミに身体を奪われていたのであろう少女――恐らくさとりを見ていると、奈央は逆に冷静になれている自分に、内心驚きつつ、
「あなたの名前はさとり。違う?」
「さとり――」少女はそのふくよかな胸に手をあて、こくりとひとつ頷く。「えぇ、そう――私は、さとり。確かに、そういう名前だった気がします……」
愛おしそうに、自分の名前を口にするさとり。
奈央はそんなさとりを確かめてから、改めて宮野首に顔を向けた。
「ねぇ、宮野首さん。ここからどうするの? 私たち、どうやって戻ればいいの?」
「……え?」
けれど、宮野首は虚を突かれたような顔をして、
「そ、そう言えば、何も聞いてない……かも」
「えぇっ! そうなの?」
まさか、助けに来てくれたはずの宮野首が、そもそも帰り方を知らないだなんて思ってもいなかった。イザナミは消え去ったというのに、これからどうすれば――
奈央は宮野首と顔を見合わせ、そしてもうひとりの少女――美咲の残したアバターに視線をやった。
彼女はそんな奈央や宮野首をおかしそうにクスクス笑いながら、
「大丈夫、安心して。ちゃんと帰り道は用意しておいたから」
そう口にした彼女が灰色の天を指し示すと、そこから一本の縄がスルスルと降りてきた。その縄の先には小さな桶が括りつけられており、とん、と奈央と玲奈の前に小さく音を立てて地に着いた。
「――なに、これ。桶?」
奈央と宮野首、そしてさとりという名の少女は三人して天を仰ぐ。
その天の先に見えたのは、波打つ水面だった。
その水面の先に、何やら一筋の光が見える。
「御神井の鶴瓶桶よ。さぁ、それに乗って。彼女たちが、引き上げてくれるから」
「こ、こんな小さな桶に? 三人で? それに、彼女って、いったい――」
宮野首が首を傾げると、美咲のアバターはにっこりと微笑んで、
「あなたの、お姉さんたちよ」
さぁ、と促されるように、宮野首、さとり、奈央と順にその桶に足を向けて――
「あ、あなたはここに残って、奈央」
「――えっ」
奈央は立ち止まり、美咲のアバターに振り向く。
「どうして?」
まさか、私だけは帰れない、とか言い出すんじゃないだろうか。
そんな不安が一瞬胸をよぎったとき、
「あなたはこっちよ」
その声と共に、どこからともなく、装飾の施された白い着物――巫女服か何かだろうか?――に身を包んだ、ひとりの女性が現れた。
その姿に、奈央は確かに見覚えがあった。
アレは確か、昨年だっただろうか、学校の保健室で私を介抱してくれた……
「アサナおねえちゃん? じゃ、なくて――アサナおねえちゃん?」
宮野首が驚いたように口にする。
奈央はその宮野首の言葉に、余計に混乱してしまう。
アサナおねえちゃんじゃなくて、アサナおねえちゃん? なに、それ、どういう意味?
確かに言われて見れば、宮野首とよく似た顔をしている。幼い印象のある宮野首を、大人っぽくした感じの美しい女性だ。
アサナと呼ばれた女性は微笑みながら、
「――相原さんのことは私に任せて。玲奈はその子と一緒に先に行きなさい」
「え? でも……」
口ごもる宮野首に、アサナは「ふふっ」と小さく笑う。
「だって、ここは相原さんの中なんだもの。本人が自分の中から出ることなんて、できるわけがないでしょう?」
――あぁ、なるほど。奈央は納得する。そうだ。ここは自分自身の中なのだ。美咲のアバターが言っていた、隔離領域。たぶん、この領域は自分の中に存在しているのだ。完全に理解しているとは言えないけれど、アサナの言っていることはなんとなく理解することができた。
宮野首もそれに気づいたのだろう、アサナに頷き返すと、
「わかった、お姉ちゃん。相原さんのこと、よろしくね。行こう、さとりさん」
宮野首がさとりに手を伸ばすと、さとりは、いまだにわけが解らないといった表情で、けれど言われるがまま宮野首に従う。
その小さな桶を挟み込むようにしてふたりは足をかけ、縄をしっかりとその手に掴んだ。
「ありがとう、えっと――美咲、さん?」
宮野首の感謝の言葉に、けれど美咲のアバターは、
「だから、私は――ま、いっか。同じようなものだし。それじゃぁ、気を付けて。その子のことは、任せたわ」
手を振り、するすると引き上げられていく宮野首とさとりの姿に顔を向けた。
奈央も、揺れる水面の天へとふたりの姿が沈んでいくのを見送る。
「ありがとう、奈央。そして、ごめんなさい」
「……どうして謝るの?」
奈央が訊ねると、美咲のアバターは何か言葉を口にしようとして、けれどその言葉を飲み込む。すでにその姿はノイズが走るかのように歪んでおり、壊れたテレビか何かのように不安定なものとなっていた。
「……私の役目はこれでおしまい。全てが終わった。片が付いた。じゃあね、奈央。大樹くんと、どうか幸せになってね――」
美咲のアバターはそう口にすると、口元に微笑みを湛えながら手を振って――奈央がもう一度その意味を訊ねる前に、すっと消え去ってしまったのだった。
そこに美咲のアバターがいたという痕跡ひとつなく、奈央は今まで起きていたことが嘘であるかのような気持ちになる。
本当に、ここで、あんなことがあったのだろうか。
イザナミなどという存在が居て、喪服の少女に憑りついていて、そこから私の身体に乗り換えて、そして――美咲のアバターと宮野首によって、ひとりの少女――さとりが残されて――
「さぁ、行きましょう、相原さん」
不意にアサナに声をかけられ、奈央ははっと我に返った。
……そうだ、私も戻らなければならないのだ。
私の、身体に。
「ついてきて」
アサナに手を引かれ、奈央は灰色の世界を突き進んだ。
灰色の道はやがて黒一色へと変わり、その闇の中で蠢く何かを縫うようにして、アサナとふたり、進んでいく。
「――あれは? まさか、まだ私の中に」
イザナミが、ヨモツオオカミが潜んでいるの?
奈央が不安になりながら訊ねると、アサナは「大丈夫」と口にする。
「あれは、感情よ」
「か、感情?」
「相原さんの中――ううん、全ての人の中に常にあって、色々な感情を生み出しているところ。イザナミが飲み込まれてしまった感情の出どころ」
「そ、そんな、あんな禍々しいものが?」
「それは違うわ。ちっとも禍々しいものじゃない。怒りや悲しみ、憎しみだって大事な感情のひとつ。それがあるからこそ、幸せと比較することができる。楽しみや幸せ、愛しさを感じることができる。私はそう思うの」
それに、とアサナはにっこりと口元に笑みを浮かべて、
「その方が、人生楽しいってもんじゃない?」
そんなアサナに相原は呆気にとられる。
怒り、悲しみ、憎しみも大事な感情のひとつ。
――なるほど、確かに、そうかも知れない。
楽しいばかりの感情じゃ、つまらない。
全てひっくるめての人生なのだ。
「さぁ、見えてきたわ」
アサナは立ち止まり、その先に見える光を指さした。
「ここから先は、相原さん一人でお行きなさい。あの光の先に、あなたの身体に繋がる領域がある。心のあるべき場所がある」
「心のあるべき場所?」
奈央の問いに、アサナは一つ頷いて、
「まぁ、簡単に言ってしまえば――魂のあるべき場所、かな」
その優しい微笑みに、奈央も微笑み返す。
なるほど、そうか、そういうことか。
心こそ魂。感情があるからこそ――
「ありがとう、アサナさん」
奈央はアサナに手を振ると、光へ向かって、歩み出した。