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闇に蠢く  作者: 野村勇輔(ノムラユーリ)
第3部 第2章・魂の存在
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第3回

   3



 ――ぴちょんっ



 水の滴る音がした。


 どこで、と玲奈はふとノートから顔を上げ、教室の中を見渡す。


 三時限目の現代国語の授業中。教師の黒川は、黒板にカタカタと黄色のチョークで要点を書き込んでいっている。その内容を、玲奈と同じようにノートに書き写していくクラスメイト達の姿。それはいつもと変わらない光景で、どこにも水の滴るような音がする要因など見当たらなかった。


 玲奈の席は窓際である。或いは窓の外から聞こえてきたのだろうか。


 それにしても、いやにはっきりと聞こえてきたような気がしてならない。


 そして玲奈は、そのようにはっきりと聞こえてくる水の音にあまり良い印象を持ってはいなかった。


 昨夜のこともあるのだが、それだけではない。


 これまでの経験が、玲奈の身体を悪寒となって駆け巡った。


 あれらは――死者は時として、水とともに姿を現す。


 なぜ、とかつて祖母に玲奈は問うたことがあった。


 すると祖母は、こう教えてくれた。


「水が常に清く流れているとは限らない。確かに、水はあらゆる穢れを流してくれる。でも、だからこそ、その流れの中で、どうしてもよくないモノが混じることがあるの」


 ――よくないモノ。


 そう、それは、例えば。


「――ひっ」


 玲奈は窓の外に目を向けて、小さく息を飲んだ。


 そこには、真っ黒い人影が立っていた。


 玲奈の教室は校舎の二階である。本来であれば、そこに人が立っているはずがない。


 それなのに、そこには確かに、真っ黒い人の形をした影があったのだ。


 黒々とした影は、窓の外から、じっと玲奈の顔を見下ろしていた。


 男とも女ともつかない、人の形をした“影”である。


 玲奈はその影を直視することができなかった。すぐに視線を黒板に戻し、何も見なかったかのように必死にふるまう。それは結奈から教わった、最善の方法。自分は何も見ていない。気づいていない。そこには誰もいなかった。それを押し通せば、基本的にはあちらの方から消えてくれる。


 だから、このまま無視していれば、きっと――


 それなのに。



 ――ぴちょんっ



 すぐ耳元で、また、水の滴る音がした。


 玲奈の背後に、誰かの立つ気配がする。


 そんなはずはない。


 玲奈のすぐ後ろには、相原奈央の席があるはずだ。


 しかも、その相原は、今日は風邪で休んでいる。


 だから、誰もいるはずがない。


 ふともう一度窓の外に目を向ければ、そこにあの影は見当たらなかった。


 それは、つまり――


「ふぅ……ふぅ……」


 魚の腐ったような生臭い息が、玲奈の首筋に吹きかけられた。


 玲奈は叫びたくて仕方がなかったが、けれどそれを必死に抑える。


 そうだ。私は、何も見ていない。感じていない。


 後ろには、決して誰もいないのだ。


 けれど。


「――んっ!」


 玲奈の胸を鷲掴むその手の感覚に、思わず声が漏れてしまう。


 まずい、と玲奈は思った。今の声で、背後に立つ気配は間違いなく、玲奈が見えていることに気が付いたはずだ。それが証拠に、玲奈のその声に、「ふひひっ」と下卑た嗤い声が耳元で聞こえた気がした。


 玲奈は慌てたように、机の横に引っ掛けた通学鞄に手を伸ばした。


 コトラ……! 助けて……!


 けれど、そこにはコトラ――狐のぬいぐるみのキーホルダーはかかっていなくて。


 なんでっ? どうして? コトラはどこに行ったの!


 玲奈は焦り、声をあげるということすらできなかった。


 玲奈の胸を鷲掴む手は無遠慮に玲奈の胸を揉みしだき、抱き着くようにして玲奈の背中に覆い被さってくる。


 重さはない。けれど、生臭さと気持ちの悪い感触に玲奈はただ歯を食いしばって耐えることしかできなかった。


 いや、いやだ! なんで、どうしてこんな……!


 瞼を強く閉じ、体を強張らせ、必死にその影に抗っていると、


「――玲奈!」


 その瞬間、影の気配がびくりと震え、玲奈の身体から不意にその感覚が消え去った。


 恐る恐る瞼を開けてみれば、

「大丈夫?」

 そこには桜の姿があって、眉間にしわを寄せながら、じっと玲奈を見下ろしていた。


「さ、桜……!」


 玲奈は安堵するとともに、自然と眼から涙がこぼれ出てきた。


 怖かった。気持ち悪かった。何もできなかった。


 ……桜が、助けに来てくれた。


 それが嬉しくて、心強くて、玲奈は思わず桜の身体に両手を回してすがってしまう。


 気づけば、教室の中が異様にざわついていた。


 黒板前の黒川は何が起きているのかわからず目をパチパチさせているし、クラスメイト達はひそひそと「何があったの?」「さぁ?」「どうしたんだろう」と囁きあっていた。


 そんな中でも、玲奈の背後には、それでもなお、誰かが立っているような気配があった。


 あの生臭いニオイが、まだ、鼻に流れてくる。


「――あのさ、そこに誰がいるのか知らないけど、この子に手を出すってんなら、あたしが許さないから」


 桜の、囁くようなその低い声。


 気配は一瞬、「……あっ」と呻くような声を漏らすと、徐々に徐々にその気配を消して、やがてあの臭いもしなくなった。


 玲奈はそれでもなお、桜の身体に抱き着いたまま、泣き続けていた。


 どうしようもなかった。涙を止められなかった。


 これまでも、同じようなことは何度かあった。


 けれど、ここまで気持ち悪いと思ったことはまったくなかった。


「――あぁ、えっと、宮野首さん、大丈夫か?」

 ようやく声を出した黒川に、返事のできない玲奈に代わって、

「すみません、ちょっと宮野首さんを保健室まで連れて行ってもいいですか?」


「あ、あぁ、うん。頼んだ……」


 困惑する黒川を尻目に、桜は玲奈の身体を支えるように立ち上がらせると、

「行こう、玲奈」


「――うん」


 玲奈はひねり出すように、何とか返事をしたのだった。

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