第一章 8
(も、もしかして、わたくしの食事⁉)
だがミーアの予想は当然外れ、厨房からのんきな声が飛んでくる。
「それ捨てといてくれー」
「はーい!」
すると見習いの少年は、皿にあった古い料理をまとめて木箱の中に捨てた。これはゴミ箱だったのね、とショックを受けるミーアをよそに、少年は慌ただしく厨房へと戻っていく。
誰もいなくなったのを確認してから、ミーアはそろそろと木箱に近づいた。
(ゴミ……ですわよね……)
捨てられた食材は、まだ全然食べられそうな色合いだった……と思い返したミーアはぶんぶんと首を振った。いくら緊急事態とはいえゴミを漁るなんて、と必死にこらえる。
だがお腹は無情にもくるるると悲鳴を上げており、ミーアは人間時の数倍にもなる飢餓感を抱えていた。やはり体が小さい分、空腹感も強いのだろうか。
(わたくしは、ゴミなんて……でも、このままでは、死んでしまいます……)
しばらく悩んでいたミーアだったが、そっと木箱へと手を伸ばした。
とて、とてと前足を箱のふちに乗せる。このまま飛び上がれば――と想像したところで、ミーアは再びだめだわと手をひっこめた。
後ろ髪――後ろ髭を引かれるような思いで、渋々そこから立ち去ろうとする。
すると先ほどの見習い少年が再び厨房から現れ、ミーアはびくりと毛を逆立てた。だが少年はミーアを追い回すでもなく、目が合うとにっこりと微笑んでくる。
「お、猫だ」
驚きのあまり硬直したミーアの前にしゃがみ込むと、少年はミーアの頭を優しく撫でた。どうやら下っ端である彼には、今日侵入した野良猫の話題は届いていないようだ。
「あはは、お前不細工だな」
(な、なんですってー!)
『ぶなーー!』
思わず声が出てしまい、ミーアは慌てて口を閉じた。
少年は再びあははと笑うと、よしよしとミーアの喉を撫でる。
「お前、お腹すいてないか? おれ今から休憩だから、ちょっと待ってな」
そう言うと少年は一旦厨房に戻り、小さなパンと二つの食器を手にミーアの元へ戻って来た。ミーアの前にことんと置かれた木の器には、牛乳が半分ほど入っている。
吞んでいいのかしら、とミーアがためらっていると、少年は手にしていたパンを小さくちぎってミーアの前に置いた。
「ほら、食べていいぞ」
こんな貧相な食事……とミーアはそっぽを向きたくなったが、ぎゅるるという腹の虫に負け、置かれたパンを手に取った。かじりと咥えるが、硬すぎてぽろと口から落としてしまう。
(か、硬い……こ、これは本当にパンですの⁉)
よく見ればミーアがいつも食べていた白っぽいパンではなく、ぎゅっと目の詰まった黒い生地をしていた。地面に落として以来口をつけなくなったミーアを見て、少年はあーあと声を上げる。
「硬いって? 贅沢な奴だなあ」
すると少年は手にしていたパンをちぎると、いくつか牛乳の器に落としてくれた。ふにゃと柔らかくなったそれを見て、ミーアはぐぬぬと眉を寄せる。
(うう、食べずに死んでしまうよりは……)
観念した様子で、ミーアはそろそろと牛乳のひたったパンをかじった。先ほどまでの歯が砕けそうな硬さはなく、かろうじて喉に運ぶことが出来る。ミーアは空腹感を埋めるよう、必死になってそれを食べた。
「やっぱりお腹減ってたんだな」
(――に、人間に戻るまでの、我慢ですわ……!)
よほどお腹が減っていたのか、ミーアは牛乳も含めて見事に完食した。
生きてきた中で一番おいしい食事だったような気もして、ミーアはふうと満足げに息をつく。ようやく落ち着いたところで、隣にいる少年に目を向けた。
下っ端らしき少年は、不味過ぎてミーアが拒否したパンを嬉しそうに頬張り、もうひとつの器に入れてあったスープを口に運んでいる。
だがスープと言っても、野菜の端切れや肉がわずかに入った程度のものだ。
(この子は……いつもこんな食事を?)
ミーアとて、自分と使用人たちの食事が違うことは知識として持っていた。
だが具体的にどんなものを食べ、どれだけの差があるかまでは知らない。
(わたくしは……あんなに料理があっても……すぐに残して……)
なんだか申し訳なくなったミーアは、少年の膝へと手を伸ばした。短い手でお礼を言うミーアが面白かったのか、少年は眩しい笑顔を返してくれる。
だがその直後、雷のような怒声が響き渡った。
「あっ! あの猫、こんなところに‼」
『ぶにゃっ⁉』
どうやら先ほど追いかけてきた使用人の一人がミーアに気づいたらしく、大声で怒鳴りつけてきた。
驚き振り返る少年を残し、ミーアは脱兎――脱猫の勢いで走り出す。
(せ、せっかく、安全なところを見つけたと思いましたのに……!)
おそらく使用人から、先ほどの少年にも事情が伝えられるだろう。
もう戻ることは出来ないと、ミーアは短い足を懸命に動かしながら、敷地内を逃げまどっていた。