第一章 7
(……クラウス様……)
しばらく扉を眺めていたミーアだったが、思いを振り払うように首を振り、先ほどまでクラウスがすがりついていた白い棺へと駆け寄った。
結構な高さがある祭壇をよじ登ると、中に落ち込みそうなほど前のめりになって観察する。
(わたくしの……体……)
棺に納められたミーアの体は、自身で見てもぞくりとするほどの美しさだった。
元々白かった肌は氷漬けにされ血流が止まっているためか、いっそう人外のようなすべらかさを見せており、繊細な銀の髪も計算されつくしたかのような造形だ。
長い睫毛の下には完璧な頬や鼻のラインが続き、愛らしい唇はわずかに微笑んだ状態で凍り付いている。
(何とかして、戻ることは出来ないのかしら……)
魂が必要、という魔術師の言葉を思い出し、ミーアは棺で眠る自身の頬にそうっと短い前足を伸ばした。
だが肉球に恐ろしいほどの冷たさが伝播し、ぴゃっと手を引っ込める。
(つ、冷たい! 本当に氷みたいですわ……)
再びそろそろと前足を伸ばす。今度はもう少しだけ触れることが出来たが、どれだけ見つめても、念じてみても、一向にミーアの魂が移るということはなかった。
すっかり冷え切ってしまった肉球をこすりながら、ミーアはしょんぼりと肩を落とす。
(やっぱり……魔女のかいじゅ? というのが必要なのでしょうか……)
丸々とした体を棺の縁に載せたまま、ミーアは一人『ぶな……』と悲しく鳴いた。
だが礼拝堂を出た途端、けたたましい声がミーアを襲った。
すっかり忘れていたが、ミーアはまだ野良猫の扱いだったのだ。
「あっ! いた!」
「捕まえろ!」
『ぶなっ⁉』
思わず声を上げたミーアの前には、先ほど廊下で追いかけてきた女中の他に、男性の使用人や庭師などを含めたメンバーがずらりと勢ぞろいしていた。
ミーアが人間だった頃は、皆とても優しくしてくれたのだが、今はぎらぎらとした狩人のような目をミーアに向けている。
そのうちの一人が突進してきて、ミーアはたまらず飛び上がった。するりと使用人たちの足元の隙間をくぐり、包囲網を突破する。
「逃げた!」
「追えーー!」
(いやああああ! こ、怖いですわ!)
ミーアは半泣きで廊下を疾走した。短い手足ではひと時も気を抜く暇はなく、ぜいはあと息を吐きながら、一度ちらと後ろを窺う。
だが目を吊り上げて追いかけてくる使用人たちを見て、ミーアはすぐに顔を正面に戻した。
(つ、捕まったら……どうなりますの……⁉)
自室に戻るわけにもいかず、ミーアはわけも分からず邸の中を駆け巡った。やがて一階の偶然開いていた窓を見つけたミーアは、勢いよくそこから飛び出す。
すぐ下にあった茂みの中で息を潜めていると、建物の中からやれやれという使用人たちの声が聞こえてきた。
「はーやっと出て行ったか……」
「奥様のこともある。もうこれ以上変な奴を入れるなんて出来ないぞ」
「門番にも厳しく言っておこう。猫一匹通すなと」
その会話を聞きながら、ミーアはぶるぶると体を震わせた。
やがて使用人たちは各々の持ち場へと戻っていき、ミーアも恐る恐る茂みから顔を覗かせる。
(き、気をつけないといけませんわ……)
気づけばすっかり日が落ちており、ミーアはどうしよう……と眉尻を落とした。先ほどの運動が効いたのか、丸々としたお腹の中からぐうう、という悲しい訴えが聞こえてくる。
そういえばお茶会の時もほとんど何も食べていませんでしたわ、と思い出したミーアははっと目を見開いた。
(しょ、食事は……⁉ わたくしの食事は……?)
人間だった頃は、何も言わずとも食事の支度が整えられていた。だが今のミーアには当然用意されるはずもなく――と気づいた途端、いっそう空腹感が増加する。
仕方なくミーアは人目を忍ぶようにして、裏手にある厨房へと向かった。
今まで一度も訪れたことがなかったそこには、多くの料理人たちが立ち並んでおり、彩り鮮やかな食事を手際よく準備している。
その光景を窓の端からへばりつくようにして見ていたミーアは、目をキラキラと輝かせた。
(お、おいしそう……お肉、お魚、デザートまで……!)
以前のミーアは体重が増えるのを嫌い、準備された晩餐の大部分を残していた。お茶会でお菓子を食べすぎたから、とまったく食べなかった日もある。今となってはなんてもったいないことを……と後悔するばかりだ。
(うう、……今でしたら、全部いただきますのに……)
おいしそうな料理の数々を前に、ミーアのお腹はぐうぐうと騒ぎ立てている。だがこの姿で厨房に立ち入ろうものなら、先ほど以上に追い回されるのは必至だ。
ミーアはしょんぼりと窓枠から離れ、ぽてぽてと短い足で移動する。
(おなか……おなかがすきましたわ……)
するとミーアの眼前に、大きな木箱が現れた。
厨房の壁際に設置されたそれをミーアが見上げていると、厨房から若い見習いの料理人が出てくる。
彼の手には白いお皿があり、ミーアはぱあと口を開けた。