第一章 5
「ミーア!」
ミーアに異変が起きてから一時間もたたないうちに、血相を変えたクラウスが邸に戻って来た。
今朝執事に尋ねた時には、明日まで帰らないと言っていたから、おそらく仕事を切り上げて無理やり帰って来たのだろう。
玄関ホールで取り乱す彼を、執事がどこかへと案内する――その光景を、ミーアは扉の隙間からこっそりと窺っていた。
(クラウス様……戻って来てくれたんだわ……)
普段の冷静さはまるでなく、ひどく慌てた様子のクラウスに、ミーアは少しだけ心が癒されるようだった。だがこの状況で喜んでいる暇はない、とクラウスを追いかけるべく自室から飛び出す。
ぽてぽてと肉厚の足を互い違いに動かしながら、ミーアは深紅の絨毯の上を歩いた。
最初は、四足歩行とはいったい、と不安に思っていたミーアだったが、思っていた以上に違和感はない。
しかし人間であった時よりもはるかに歩幅が狭く、すぐにぜいはあと息が切れてしまう。
(と、遠い……廊下ってこんなに長かったかしら……)
いつの間にかクラウスの背中は見えなくなっており、ミーアは慌てて速度を上げた。だがその途中、背後で絹を裂くような女中の悲鳴が上がる。
「ね、猫! 猫が邸の中に!」
(――い、いけませんわ……!)
邸に入り込んだ野良猫と思われたのだろう。
女中はミーアを追い出そうと、ばたばたと駆け寄って来た。ここで捕まるわけにはいかないと、ミーアは必死に逃走する。
すると前方の廊下の角から、別の女中が姿を見せた。これ幸いとばかりに、後ろを走る女中が助けを求める。
「その猫! 捕まえてください!」
「え? きゃっ⁉」
(い、いやああ!)
正面衝突しそうになったミーアは、仕方なくそのまま前方の女中めがけて飛びかかった。
意外なことにこんな短い手足でもジャンプ力はあるらしく、女中の肩に前足をつくと、ぴょーいと軽々飛び越していく。
(た、助かりました……は、早くクラウス様の元に行かないと……!)
たったかたったかと四つ足を走らせながら、ミーアは廊下を一直線に突き進んだ。
顔を上げると、邸の一番奥にある礼拝堂にクラウスとその執事が入っていくのが見える。ミーアは慌てて後を追い、扉が閉まるぎりぎりのところでするんと滑り込んだ。
(な、なんとか追いつきました、けど……)
生まれてこのかた、ここまでの全力疾走したことがないミーアは、立ち上がれないほどの疲労感に襲われていた。汗もびっしょりで、人間の姿だったらさぞかし惨めな状態だっただろう。
はあ、はあ、と壁際に座り込んで呼吸を落ち着ける間、ミーアはぼんやりと天井に目を向けた。
礼拝堂は青と白を基調とした、とても清廉な空間だった。
白い石造りの床には、目も覚めるような鮮やかなアドニスブルーの絨毯が歩行路を示すように敷かれており、上を見れば美しいコバルトの色ガラスを用いた、大きなバラ窓と三方を囲むステンドグラス。
その下には祭壇と聖櫃が置かれており、クラウスは執事とともにその棺を覗き込んでいるところだった。
やがてクラウスの震えた声が、静まり返った室内に落ちる。
「ミーア……ミーア……どうして、こんなことに……」
「……申し訳ございません、旦那様……。 邸に不審者が侵入しまして、奥様はその者の手によって……」
「そんな、……どうして……どうしてだ……」
そのクラウスの声色は、ミーアがいつも耳にしていた、何の感情も滲ませない冷淡なものではなかった。
クラウスはそのまま力尽きたようにくずおれると、執事が制止するのも構わず、白い棺にすがるように悲嘆に暮れる。
その光景にミーアは呆然とした。
(クラウス様? ……どうして、そんなに悲しんでおられますの?)
クラウスはミーアに対して、何の興味も関心も持っていなかったはずだ。そんな彼が、人目をはばからずに慟哭している。
ミーアは疑問を浮かべると同時に、ぎゅっと締めつけられるような心臓の痛みを感じていた。
その状態から一時間ほど経った頃、礼拝堂に新たな人物が姿を見せた。物陰から様子を窺っていたミーアは、その姿にぎょっと目を見開く。ミーアを襲った人物と似たようなローブを身に纏っていたからだ。
(あ、あれは、わたくしに魔法をかけた⁉)
思わずふうっと毛を逆立てたミーアだったが、すぐに生地の色が違うことに気づいた。中庭に現れた女性は黒だったが、今しがた駆け付けた青年は白地に金糸の刺繍だ。
「遅れて申し訳ございません。それで、魔女の呪いを受けた女性というのは――」
「……彼女だ」
クラウスの言葉を受けて、白いローブの青年はすぐに棺を覗き込んだ。青年は非常に困惑した表情のまま、クラウスの方を振り返る。
「これは……非常に良くない状態です」
「どういうことだ」
「……魔女の呪い。しかも相当力のある者による術とみて間違いありません」
「何でもいい。いますぐに治せ」
「魔女の使う術は、我々魔術師の祝福とは異なります。この術は……魔術師が対処できる範疇を超えている」
(魔術師……?)
彼らの会話を聞いていたミーアは、『魔女』と『魔術師』という特徴的な単語に小さく首を傾げた。
どこかで聞いたような……と必死に記憶を手繰る。そういえばいつかのお茶会で恋占いの話題になった時、教えてもらったことがあった。