第一章 4
クラウスが不愛想なのは出会った時から変わらない。だが彼は一度として、ミーアの名前を呼んでくれたことがないのだ。
(結婚している夫婦なのに……わたくしは一体、なんのために……)
おまけにミーアはまだ、結婚式も挙げていない。
入籍した当時はレヒト公爵が亡くなって日が浅かったため、喪に服す間は遠慮してほしい、という親族からの要望があった。
だが一年が経過した今も、クラウスからは何の話もない。
押し黙ってしまったミーアを前に、ラディアスは困ったように頬をかくと、困惑した声色で続けた。
「まあ彼はその、……素直じゃないというか、感情表現が下手というか……と、とにかく! あいつが君を嫌っているなんてありえないから」
「本当ですか?」
「うん。あいつは君のことを、とても大切に思っているよ」
しっかりとしたラディアスの言葉に、ミーアは少しだけ心が軽くなるのを感じた。取り乱して申し訳ございませんと頭を下げ、邸を後にするラディアスを見送る。
(クラウス様が、わたくしのことを……)
唯一無二の友人ともいえるラディアスの言うことだ。きっとまったくの嘘ではないだろう。だが――クラウス当人の言動からは、ミーアに対する愛情や思い入れなど、一切感じられない。
ミーアは再びため息をつきながら、中庭へと戻って来た。
すでにお茶会の片づけは終わっており、庭に置かれた噴水へと足を進める。
(でもそれならどうして……もっと、ちゃんと言葉にしてくださらないのかしら……)
陰鬱とした気持ちを抱えたまま、ミーアは揺らぐ水面に自身の顔を映した。まるで泣き顔のような、不安定に揺れるそれを見て軽く唇を噛む。
――すると背後から、複数の騒がしい声が挙がった。
「逃がすな! 捕まえろ!」
「不審者が侵入した! 女だ!」
「……?」
珍しい喧噪に、ミーアは慌てて振り返った。すると中庭の真ん中に、一人の女が立っているではないか。
長い黒髪は腰まであり、同じく漆黒の瞳はまっすぐにミーアを射貫いていた。黒い生地に銀糸で刺繍をしたローブを着ており、その手には杖のようなものが握られている。
慌てて警戒するミーアに対し、女は淡々とした口調で尋ねた。
「あなたが、クラウスの奥さん?」
「は、はい……そうですが」
「そう」
すると女は手にしていた杖を、地面と水平に掲げ、その先端をミーアに突きつけた。びくりと肩を震わせるミーアに向けて、何やら不思議な呪文を口にする。
――魔法だ、とミーアが気づいた時はすでに遅かった。
「――⁉」
青白い光が、一直線にミーアの体を貫く。
途端にどさり、と糸が切れた人形のように全身が瓦解した。
不思議なことに出血はなく、激痛が走るわけでもなかったが――ミーアは、すぐに意識を失った。
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(――はっ!)
次にミーアが目覚めたのは、私室の中だった。
見覚えのある寝台に窓、棚、化粧台――と眺めているうち、自分の視線が極端に低いことに気づく。
(わたくしは一体……もしかして床に寝かされているのかしら?)
手足に力を込め、一息に立ち上がる。
だが体を起こしたはいいものの、どうにも安定が悪く、ミーアの体はぼてんと転倒してしまった。
(どうしたのかしら? えいっ)
勢いをつけて両手足を伸ばす。
今度はうまく起き上がることが出来た――と思ったら、そのままころんと座り込んでしまう。あまりに自由の利かない体に、ミーアはんんん? と首を傾げた。
(なんだかこう……妙に体が動かしにくいといいますか……)
そういえば中庭にいる時、突然乱入した女から何かを撃たれた。
あれが原因でおかしくなったのかしら、とミーアは恐る恐る自身の手を確かめる。
するとそこにあったのは、かつての細くすべらかな五指――ではなく、ふかふかとした毛に覆われた小さく短い指。そしてピンク色の肉球だった。
(……?)
猫でも抱えていたのかしら、とミーアは自身の足元に視線をずらす。するとそこにももふもふとした丸い猫の足があった。
ミーアが指先を開閉するのに合わせて、そっくり同じ動きを返している。
ミーアは恐る恐る、他の部分にも目を向けた。
どうやら手足は相当短いらしく、すぐにぼてっとした腹にたどり着いた。ミーアの髪色によく似た灰銀色の毛並みが素晴らしく、ミーアは手のひらでそろそろと撫でてみる。
(これ……猫? よね?)
ただミーアの知る猫としては、いささかフォルムに難がある気がする。自身の現況を把握し始めたミーアは、信じられない気持ちのまま、震える足取りで鏡台へと向かった。
今朝化粧を施してもらっている時は、なんてことない高さだったはずなのに、今では見上げるような高さに椅子の縁がある。
ミーアは懸命に手と足を伸ばし、何度も何度も飛び上がると、ようやく椅子の端っこにかじりついた。
なんて重たい体なのかしら、とぜいはあと息を切らしながら、ミーアはなんとか鏡の前までよじ登る。
(……嘘、ですよね……?)
そこにいたのは、銀色の毛に覆われた猫だった。
丸々とした体に、極端に短い手足。つぶれた鼻に、ちょっと困ったような真ん丸の碧眼――かつてミーアが誇っていた美貌は跡形もなく消え去っており、なんとも間の抜けた顔立ちだ。
まさか、と確かめるようにミーアは鏡面に張り付いた。
すると鏡の向こうの猫も同じ仕草で接近してきて、ミーアはますますこれが現実であると思い知らされる。
(そんな……わたくしの……顔は……、か、体は……)
かろうじて残っているのは、ミーアと同じ緑色の瞳と白銀の毛皮だけ。絶望したミーアは、とにかく誰かに助けを求めようと大声で叫んだ。だが――
『ぶな~~~~!』
(いーーやーー!)
口から出てきたのもいつもの清楚な声ではなく、喉の奥から絞り出すようなつぶれただみ声。
それを聞いたミーアは、さらに嘆きの鳴き声を発するのであった。