第四章 2
え? と疑問符を浮かべながら、ミーアはクラウスを眺める。
クラウスの顔は何故か真っ赤に染まっており、ミーアから目を背けるように横を向いていた。
それを見たミーアもまた『何だか普段より目線が近い?』と首を傾げる。
しかし次の瞬間、ミーアはぼんと顔から湯気を立てた。
(――わ、わたくし、今、人間でしたわ!)
猫だった頃は、ミーアと呼ばれれば駆け付け、クラウスの腕の中にすっぽりと収まることがもはや習慣と化していた。
だが今のミーアは人間だ。
呼び出しに答えたミーアは無意識に、クラウスに抱きついてしまい――ようやく気づいたミーアは、大慌てでクラウスから体を引きはがす。
「も、申し訳ございません! わ、わたくしとしたことが……」
「あ、いや、その、嫌だったというわけではなくてだな! ここではその、……人目があるから、君が嫌な思いをするのではないかと」
「そ、そんな、ことは……」
少し距離を空けた二人は、そのまましばらく押し黙った。
しかし間違って飛びついたことが徐々に恥ずかしくなってきたミーアは、そのままじりじりと後ずさる。
「あの、わたくし、これで、失礼いたします……」
「あ、ああ……」
深々と頭を下げたミーアは、クラウスに背を向けると、恥ずかしさを堪えるように両頬に手を添えた。
どよんと落ち込んだ状態で部屋に戻ろうとするミーアを、クラウスがぎこちなく呼び留める。
「ミ、ミーア!」
「は、はい?」
今度はわたくしのこと? とミーアは慌てて振り返った。
するとクラウスは思わず口にしてしまったという顔つきで、続く言葉をううんと探している。やがてわずかに視線を落とすと、赤くなった顔を片手で隠すようにしてミーアを誘った。
「ここは人目がある、から……良ければ、俺の部屋に来ないか?」
クラウスの執務室に足を踏み入れたミーアは、懐かしさに溜息を漏らしそうになった。ここ一か月ほど、一日の大部分を過ごした馴染みのある光景。
ちらりと壁際に視線を動かすと、かつてミーアが寝ていた籠も置かれている。
「こちらに」
ソファに座ったクラウスに促され、ミーアはそろそろと彼の傍に腰かけた。猫だった頃は結構な頻度で丸まっていたソファだが、人間の姿では初めてだわ、とミーアは感触を指先で確かめる。
するとクラウスが再び、言いづらそうに口を開いた。
「ミ、ミーア、……その、この距離は少々、話しづらいんだが……」
「え?」
その言葉に自身の状態を確認したミーアは、文字通り飛び上がった。ミーアはあろうことか、クラウスの傍――というよりもはや彼の膝の上に、ちょこんと座り込んでいたのだ。
猫だった頃は『座る』と言えばクラウスの膝の上であり、ソファの時でも当然のようにそうしていたものだから、何の迷いもなく腰を下ろしてしまった――とミーアは慌てふためく。
「も、申し訳ございません! と、とんだご迷惑を!」
即座に立ち上がったミーアは、遠く離れた対角線上のソファに急いで座りなおした。怯えるように縮こまってしまったミーアを見て、クラウスは困惑した声を上げる。
「ち、違う! 迷惑という意味ではなくて、その、寝室とかであれば全然構わないと……いやそれも違う!」
何を言っているんだ俺は、と赤面したクラウスが早口で呟き、はあと息を吐きだした。ぐったりと疲弊した様子で顔を伏せていたかと思うと、ようやく顔を上げる。
「すまない……また情けないところを見せたな」
「そ、そんなことはありません! 私の方こそ、失礼いたしました……」
しょんぼりとするミーアを見て、クラウスはわずかに苦笑する。
「あれから、体に問題はないか?」
「は、はい。以前と変わりありませんわ」
「そうか」
本当は四足歩行から二足歩行に戻ったせいで、少しだけ違和感が残っているのだが、さすがに猫だったことを知られるわけにはいかない、とミーアは笑顔でごまかした。
クラウスもそれ以上追及することはなく、どこか安堵した表情を浮かべると、ぽつりぽつりと言葉を続ける。
「君が無事で――本当に良かった」
「クラウス様……」
「俺は、……とりかえしがつかない後悔をするところだった」
それからクラウスは、かつて猫のミーアに聞かせてくれた本心を、少しずつつまびらかにしていった。
小さい頃、ミーアに出会って恋をしたこと。
以前渡したぬいぐるみは、その時ミーアがくれたものをずっと返せなかったものであること。
本当はもっと立派な男になって結婚するはずが、何の準備も出来ないままになってしまったこと。
そんな自分に失望されたくなくて、ミーアと距離をとっていたことなどを、時間をかけて話してくれた。
「今まで、本当にすまなかった。こんな……頼りない俺だが、その……これからも一緒にいてもらえないだろうか」
「クラウス様……」
少しだけ不安を帯びたクラウスの目を見て、ミーアはすぐに笑みを返した。こくり、と頷くミーアを見て、クラウスもまた張り詰めていた緊張を和らげる。
やがてクラウスが、ソファの隅に座るミーアに向けて腕を広げた。
「ミーア」
「は、はい」
「――おいで」
それを聞いたミーアは最初、自分がまた猫になってしまったのかと思い、きょろきょろと自身の体を見回した。
だが間違いなく人間のままであることを確認し、改めてクラウスに視線を戻す。
(わ、わたくし、クラウス様に、呼ばれていますの?)
猫ではない。
人間のミーアを、クラウスが求めている。
信じられないと思いつつも、ミーアはおずおずと立ち上がると、クラウスとの距離を詰めた。拳二つ分ほどの微妙な距離を空けて、クラウスの隣にそろそろと座る。
するとクラウスはむ、と眉を寄せた。
「……この距離は?」
「え、ええと、その、人としての適切な距離というのでしょうか……」
「……」
これ以上近づいたら心臓の音が聞こえてしまう、と落ち着かないミーアだったが、突如ふわりと体が浮かび、思わず『ぶにゃ』と悲鳴を上げそうになった。
いつの間にかクラウスの顔がすぐ傍にあり――ミーアはその時になってようやく、自身がクラウスに抱き上げられていることに気づく。
「ク、クラウス様⁉」
「恋人としては、こちらの方が一般的な近さではないか?」
「さ、さっきは離れろっておっしゃったのに……」
「そ、それはその、……俺にも心の準備というか、順番というものがあってだな……」
口ごもるクラウスを前に、ミーアは思わずきょとんと眼をしばたたかせた。だがすぐに堪えきれなり、ふふと笑みを零す。
それを目にしたクラウスも、安堵したようにミーアに微笑みかけた。
(猫の時よりも、お顔が近いですわ……)
ごく至近距離にあるクラウスの美貌に、恥ずかしくなったミーアはつい視線をずらす。しかしクラウスは逃がしはしないとばかりに、ミーアの顔を覗き込んだ。
「ミーア、もう一つだけいいか?」
「な、何でしょうか?」
「そろそろ――結婚式を挙げようと思うんだが」
その単語に、ミーアは目を見開いた。
「け、結婚式、ですか⁉」
「ああ」
「で、でもあの、わたくしはてっきり、クラウス様はそうした場がお嫌いなのだと……」
「まあ、特段好きなわけではないが。だが他の男どもに、君が俺の妻だと見せびらかすのは悪くない。服喪の期も終わったことだし、そろそろだろうと思ってな」
「そ、それは……」
「俺の仕事の都合がつかず、遅くなってすまなかった」
言葉を失い硬直するミーアを見て、クラウスは「どうした?」と首を傾げた。その直後、瞳を潤ませたミーアが、ぽろぽろと透明な涙を零す。
クラウスはぎょっと目を剥き、動揺したように口を開いた。
「ミ、ミーア⁉ す、すまない、嫌だったか⁉ 君が望まないなら、無理に式はしなくても――」
「ち、違いますわ! その、ちょっと、びっくりして……」
「ミーア?」
「わたくし、……本当に、何も、知ろうとしませんでしたのね……」
結婚式のことなど、クラウスはきっと忘れているのだと思っていた。でも彼はちゃんと覚えていて――ミーアは一人で勝手に、ひどいひどいと可哀そうな自分に浸っていただけだったのだ。
(きちんと、お話すればよかったのですわ……)
瞬きのたびに、ミーアの目から絶え間なく泪が落ちる。泣き出してしまったミーアに、困惑していたクラウスだったが、そっとミーアの頬に手を伸ばした。
男らしいクラウスの指先にきらきらとした水滴が伝い、そのまま優しく拭い取ってくれる。





