第二章 2
その後クラウスの足はなんとか復活し、食事の場へと移動した。
信じられないことに、クラウスは執務室からダイニングへ移動する間も、ミーアを抱きかかえたままである。
(うう……恥ずかしいですわ……)
執務室でクラウスから手を差し伸べられた時、ミーアもさすがにと顔をそむけた。
だが先ほど同様、クラウスがとんでもなく悲しそうな顔をするものだから、心が折れてついつい近づいてしまったのだ。
するとあれよあれよという間に抱き上げられ――クラウスの腕の中に包まれたまま、廊下を歩く間も、ダイニングにいる間も、使用人たちに見守られるという辱めを受けるはめになった。
やがて席に着いたクラウスは、ミーアを膝の上に下ろす。
いったいいつまで傍に置いておくつもりなのかしら、とミーアが首を傾げていると、執事が恭しく白い皿を運んで来た。
その匂いにミーアは鼻をぴくんと震わせる。
(……何でしょう、とても美味しそうな……)
「旦那様」
「ああ」
執事から皿を受け取ったクラウスは、興味津々といった様子で見上げるミーアを前に、嬉しそうに口元を緩めた。
ようやく眼前に下りてきたそれを見て、ミーアはぱあっと目を輝かせる。
(しょ、食事! もしかしてわたくしの食事ですの⁉)
皿に乗っていたのは、肉や魚をペースト状にして焼き上げたパテ・テリーヌ。黄金色のソースがかけられており、周囲にはハーブやトマトも飾られている。
するとクラウスは、手にしたスプーンで一欠片切り分けると、そっとミーアの口元に運んできた。
「ミーア、ほら」
(……もしかして、このまま食べろということでしょうか……?)
ようやく我に返ったミーアは、ちらっと周囲の様子を観察する。壁際にずらりと並び立つ使用人たちは、我が主のすることに意見などいたしません、とばかりに目をそらしていた。
それを見たミーアは『今は猫なのだから大丈夫』と思う反面、どうしても頭の中で人間姿の自分が邪魔をする。
(い、いくら猫の姿とはいえ、ひ、人前で、クラウス様から、食事を与えられるなんて……!)
やっぱり恥ずかしい、とミーアは心が痛むのを承知で口を閉じ続けた。だが困ったことに、クラウスもまた頑としてスプーンを下ろす素振りを見せない。
一分、二分と経過し、ミーアはいよいよ沈黙に耐えられなくなってきた。
(は、はやく、この場から逃げたいですわ!)
『……うにゃ……』
結局ミーアが折れることとなり、クラウスの手ずから食事を頬張った。不満げにうにゃうにゃと咀嚼していたミーアだったが、すぐにほわっとした恍惚の表情を浮かべる。
(――な、なんて美味しいのかしら! うちのシェフは天才でしたのね!)
なめらかな舌触りに、鶏肉のうまみがじわりと染みている。猫用ということで、味付けも控えめにされているようだ。
一口食べればあとは一緒、とばかりにミーアはクラウスが差し出すそれを、残さずすべて食べ終えた。
「おいしかったか、ミーア」
『うなぅ』
満足げに喉を鳴らしたミーアに、クラウスもまた幸せそうに微笑みを向けた。
その後クラウス自身も食事をとり始めたが、その間も終始ミーアを膝に乗せたままだ。邪魔をするわけにもいかず、ミーアは衆人環視の目から耐え忍ぶように息を潜める。
(こんなに多くの方がいる前で、クラウス様の膝に乗っているなんて……人間の姿でしたら、恥ずかしすぎて倒れてしまいますわ……)
やがて食事を終えたクラウスは、来た時同様ミーアを抱きかかえたまま、執務室へと戻っていく。
帰りは自分で歩けます、とミーアなりに何度か主張したのだが、クラウスには甘えて鳴いているようにしか聞こえなかったようで「分かった分かった」と言いながら、軽々と抱き上げられてしまった。
(執務室でもダイニングでも一緒……おまけに歩く時まで抱っこなんて……)
力強いクラウスの腕にもたれながら、ミーアはふと人間姿の自分を想像してみる。
仕事中も、食事をとるのもクラウスの膝の上。クラウスが食事をとり分けて、ミーアに差し出してくれる。
おまけに廊下を歩くときもクラウスに横抱きにされたまま――とまで描いたところで、ミーアはぶんぶんと妄想を払いのけた。
(あ、ありえないですわ! クラウス様が、そんな、べたべたと……人目も恥じらわぬ、こ、ここ、恋人のような、こと……するわけないですから……!)
やがて執務室に到着したクラウスは、再びミーアを膝に抱いて仕事を再開しようとした。だが今度こそ痺れさせるわけにはいかないと、ミーアは椅子から飛び降りると、全身の毛を逆立てて抵抗する。
迫るクラウスの手からするりぬるりと必死に逃れているうち、ようやく諦めてくれたのか、クラウスはミーアが眠る用の籠を手配してくれた。
ふっかふかの綿と毛布が敷き詰められた寝床に丸まりながら、ミーアはぼんやりとレナのくれた毛布について思い出す。
(あの毛布……あのままにしてしまいましたわ……)
せっかくレナがくれたものだったのに、とミーアはクラウスに聞こえない程度の小声で『ぶにゃう』と零す。
いつか自由に動き回れるようになったら、あの毛布を探しに行きましょう……と決意しているうちに、ミーアの瞼はふたたびとろんと重たくなっていった。
・
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「ミーア。ミーア」
(……ん、何ですの?)
優しく呼ばれ、ミーアはゆっくりと瞼を押し上げた。すぐ真上にクラウスの顔があり、ミーアは驚きと緊張で目を真ん丸にする。
「おはよう。だがもう夜だ」
(わ、わたくし、また眠ってしまったのですね……)
猫になってからというもの、ふとした時にすぐ眠気が襲ってくる。数日前までは生きるか死ぬかの瀬戸際で、そんな余裕がなかったから気づかなかったが、どうやら猫というものは多くの睡眠時間を必要とする生き物のようだ。
クラウスが懸命に仕事をしている隣で……とミーアは落ち込むが、当のクラウスは特段気にした様子もなく、嬉しそうにミーアを籠から抱き上げた。
「そろそろ行くぞ」
(行く? どこにでしょうか?)
『うるにゃ?』
もはや抵抗することなく、クラウスの腕に抱かれたまま、ミーアは行き先を見守った。だが近づいて来る扉を前に、次第に耳の後ろの毛がぞわわと逆立ち始める。
(……あの、行くって、もしかして、あの部屋ではありませんわよね……?)
だがミーアの予想は当たり、クラウスは慣れた様子である一室の扉を押し開いた。
ばたん、と背後で締まる扉の音を聞きながら、ミーアは先ほどよりも多くの毛が緊張しているのに気づく。
(こ、ここ、ここって……)
「さあ、寝るか」
そこは、かつてのミーアが一度として入ることを許されなかった――クラウスの主寝室だった。





