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聞けば、こうである。
笛吹さんは、吹奏楽部の入部届を50枚ほど収めた書類入れを、机の中に保管していた。半透明のプラスチックでできた直方体で、取っ手が付いているような、あの書類入れだ。
それがまるごと無くなったという。
入部届。一応私も地学部の部長を仰せつかっているので、この高校にはそんな書類が正式には無いことを知っている。ここ県立流鶯高校では、部活動への入部は、本人の意志表示と部費の支払いをもって成立するとされている。入部届という書類を、部長や顧問に提出するという手続きは存在しない。では笛吹さんがなくした入部届とは何なのかというと、吹奏楽部が伝統にしている非公式な書類だ。私もなにかの時に見せてもらったことがあるが、手作りの様式で、昔流行ったというプロフィール帳のようなものである。吹奏楽部員は新たに入部する一年だけでなく全部員がこの時期にそれを書くのだそうで、集まった『入部届』という名のプロフィールはコピーされて冊子になり、全部員に配られるという。自分の部で同じことをやろうとは別に思わないけれど、親睦を深めるには悪くないしきたりだと思う。
その入部届が無くなったとなれば、一大事だ。
私と笛吹さんは、教室をくまなく探した。床に落ちていないか、他の机の中に入っていないか、教卓やロッカーのところに置かれていたりしないか。しかし書類入れは見つからない。
「無いね」
「ええぇー……なくなると困るなぁ……」
眉は下がるだけ下がり、首も70度くらい傾いているが、これが全然困っていそうに聞こえないのだ。それが笛吹さんのキャラである。
「机の中に入っていた書類入れで、中見れば明らかに笛吹さんのだってわかるよね。笛吹さん、教室でちょくちょく吹奏楽部の人から紙受け取ってたから、それを見てた人は多いだろうし。まあ、見てなくたって少なくとも吹奏楽部のだってことは読めばわかるわけで。だからそれがなくなるってことは」
「ことは?」
「盗まれたんじゃないかな」
「ええぇぇー……」
80度。
階段の男子生徒二人は、やっとのことでモップを片付けるところだった。
「ねえ、私達が通る前にここ通った人、覚えてる?」
私はそう声をかけた。
私達の2年1組の教室は、2棟2階の一番東の端である。そこにアクセスするには、さっきの私達のように東階段を利用して上下階から来るか、あるいは2階を西側から移動してくることだが、いずれにせよ東階段の踊り場をずっとモップで拭いていた人間がいれば、それに目撃される。つまり彼らの目撃証言で、容疑者は絞り込まれるはずなのだ。
「掃除当番が帰ったより後でなら」
と一人が答え、
「3人、通ったね」
ともう一人が言った。
「君らゲームに出てくる双子か何か?」
よく見ると雰囲気も似ている。
「ええー、双子なの? 名字が違うのに」
笛吹さんが真剣に驚いていた。真剣に驚かないでほしい。
「1人目は越生」
と一人が言って、
「2人目は鳩山さんが通ったよ」
ともう一人が言った。
「なるほどなるほど」
「あのぉ、どっちがお兄さん……?」
越生も鳩山も、いずれも私と同じクラスの生徒だけれど、あまり話したこともなくて印象は薄い。越生は長髪の男子生徒で、失礼な言い方をすれば暗くてあんまり友達もいなさそう、教室で談笑している場面は見たことがないというタイプだ。鳩山さんは、死語っぽく言えばギャルっぽい長身の女子で、これもほとんど話したことはないけれど掃除当番をサボられたことは一度ある。
「それで、3人目は?」
と私が尋ねると、
「一年の女の子だけど、俺、名前は知らないな」
と一人が言って、
「あの、金髪の……」
ともう一人が言った。
「目も金色で……」
と一人が言って、
「日傘持った……」
ともう一人が言った。
吸血鬼という噂の。私は口に出さずに引き取った。
私が知る限り、そんな特異な生徒はこの学校には一人しかいない。
*
モップ掃除の双子は、3人の『容疑者』の様子とか、荷物を持っていたかどうかまでは覚えていないと言った。そんなところまで普通見ていないし、通ったのが3人だと断定できただけでも素晴らしい記憶力だ。
まず1人目が教室に向かい、戻ってきて、続いて2人目が教室に向かい、戻ってきて、最後に3人目が教室に向かい、戻ってきたという。つまり、3人の誰もが入部届を盗みうる。
さて、明らかに一番怪しいのは3人目だ。
金髪金眼。黒い日傘をさした吸血鬼、出雲泉水。
一年生だというのに二年の教室を徘徊しているという時点で意味不明だ。
私は先日の邂逅時に背筋を駆けた甘い違和を思い出す。こちらに向けられた琥珀色の深淵を思い出す。その得体の知れない動揺が、私の胸の中に蘇って脈打っている。
私は身震いして、謎の推理に無理やり意識を戻した。
「ねえ笛吹さん、改めてだけど、無くなったのは入部届だけで間違いないんだね?」
笛吹さんはもう一度鞄の中を確認していたところだった。
「うん、入部届だけ。無くなったのは」
「それも不思議な話だよね」
盗難の線で考えるとして、動機がわからない。
入部届を盗んで手に入れたところで、別に嬉しいようにも思えない。そもそも非公式の書類であるのだし、いや仮に公式な書類であったとしても、特に盗む価値はないだろう。考えられるとするならば、盗むことにより吹奏楽部に対して、というよりも笛吹さんに対して嫌がらせをする可能性くらいだが。
「ねえ笛吹さん、さっきの3人。越生と、鳩山と、あと1年の出雲さん。仲の良い知り合いだったりする?」
「うーん、越生くんとはあんまり話したことないけど、仲は良いよ」
「あんまり話したことないけど仲は良いと言い切れる根性、すごいな。ほめてない」
「えへへ」
先回りしたが効果はなかった。
「鳩山さんもあんまり返事してくれたことはないけど、仲は良いかな」
「返事されてないって一方通行じゃん」
「出雲さんはよく知らないけど、悪くはないんじゃないかな? すれ違ったことあるよ」
同じコマに入ってたらカップリング成立説か?
相変わらずの笛吹さんである。自分のものが無くなって、おそらくは盗られたというのにこのマイペースさ。困った表情はしているけれど、本気で困っている感じがしない。その声音は、むしろ安心しているかのような。物が盗まれて安堵するなんて人間がいるだろうか。
少し考えて、いるかもしれないと私は思う。鞄の中身を確認し終えてファスナーを閉める笛吹さんを眺めながら、そう思う。そうしてそれが、この謎の答えにぐっと近づく手がかりに違いないと思える。
「ねえ、笛吹さん、教えてほしいんだけれど」
そうして覗き込んだ先に、果たしてその鍵はあった。