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1棟と2棟の間には中庭があって、低木は自由奔放に生い茂り、石畳の表面にはびっちりと藻だか苔だかよくわからないものが張り付いて異常に滑りやすい上、そもそも苔むした遊歩道と浮草に覆われた池の水面の区別すらつかないために、毎年新入生が一人は足を踏み外して池に落ちるという伝統がある。もし四月中に誰も落ちなかった場合は、この伝統を継続するために運動部の一年が無理やり落とされる。伝統の維持にはそれなりの覚悟が必要だ。
今日は小雨まで降っている。私は絶対に池に落ちたくないので、ペンギンみたいに歩幅を狭くして、足に力を入れた。
けれどもそんな異次元的な足場の悪さを、何の苦にもしない者がいる。
彼女は、おそらく日傘なのだろう、レースのあしらわれた黒い傘をゆっくりと回転させながら、ふらふらと中庭を酔歩していた。傘の下に時折覗く金色の髪が、風にまにまに流れるように、苔生した地面に生命を振りまいているように見えた。彼女の着ているのがうちの制服であることだけが場違いだった。
「出雲泉水さん」
私は彼女との距離を半分くらいに詰めたところで、立ち止まって声をかける。
その少女はくるくると回転し、流れを中断された素振りは一切見せず、はたと止まってこちらを見やる。
白く小さな顔にどこまでも輝く金色の瞳に、異形が見える。人とは違う運命が見える。
「……ヴァンパイアハンターさん?」
私の重心がずらされる。その声は、人間の心の壁を一番超えやすい周波数に調整されている。背筋に震えが走る。すんでのところで足を踏ん張る。
「私はヴァンパイアハンターじゃないよ」
吸血鬼の少女は声を出さずに首を傾げる。私はもう一歩、慎重に彼女に近づく。
「私を捕まえに来たのですか」
「そうではない」
「マジックミラー的な乗り物に連れ込む気なのですね」
「そんな気はない」
「一度乗ってみたいんです。マジックミラー的な乗り物」
「頼むから乗らないでくれ」
「それで、ヴァンパイアハンターさんが私に何のご用ですか?」
「ヴァンパイアハンターではない。地学部の部長です」
「部長さん」
「そう、部長さんとして出雲さんと話したいことがあって来たよ」
「地学部の部長さんが、私に何のご用ですか?」
冷たく拒絶するような言葉のはずなのに、口調は柔らかで、琥珀色の瞳は興味深そうにこちらの心臓を握ったままだ。
「二つあって。まずは君のクラスの後志さんのこと。同じクラスの霧島が地学部だから、話を聞いたんだけれど」
後志の名前にも、霧島の名前にも、彼女は何の反応も見せなかった。
「……今日、貧血で倒れたところを出雲さんが保健室まで運んであげたっていう子だよ、後志さん」
「ああ」
初めて金髪金眼は得心した顔をして、日傘だけをくるくると回転させた。
「バスケットボールの」
「そう、その子」
出雲泉水は本当にクラスに馴染む気がないようだ。クラスメイトの名前もろくに覚えていないらしい。
「勝手なお願いなんだけれど、後志さんの倒れた場所。1棟2階の女子トイレってことにしておいてくれないかな」
クラスメイトたちと後志本人のフォローは霧島がやるとして、後志が流されてついてしまった嘘を埋めるには、出雲泉水を押さえないといけない。それが私がここに来た理由の、少なくとも半分だった。理由を隠して無茶なお願いもできないので、私は後志がそんな嘘をついてしまうに至った理由を簡潔に語った。琥珀色の瞳は途中から半ば興味を失って、空中の雨を眺めているに近かった。私はなんで自分がここまでしているんだろうと少しわからなくなった。
「別に出雲さんが自分からなにかする必要はないよ。もし誰かに聞かれたら、そういうふうに話を合わせてくれればいいだけなんだ。変な頼みだけど、聞いてもらえると嬉しい」
「はい。ご希望なら、そうしてあげられますよ」
なんで自分がそんなお願いを聞かなきゃいけないのだ、と言われてしまったらどうしようと思ったのだけれど、出雲泉水は意外なほど簡単にこちらの願いを聞き入れた。
「それで。もう一つというのは」
出雲泉水の声が透き通る。琥珀色の視線が私の脳をぐらつかせた。
「出雲さん、地学部に入らない?」
「ちがくぶ」
「地学部」
「地学部というのは、何をする部活ですか」
「すべて」
「すべて?」
「地学というのは私達が立っているこの地球という星についての学問であり、私達が立っているこの地球以外の星についての学問でもあり、したがって宇宙のすべての学問だよ」
「スケールの大きな部活なのですね」
「バスケ部はこれくらい、テニス部はこれくらい、せいぜいこんな大きさの球しか扱わない」
「そういう球技ですからね」
「地学はもっと大きい。これくらい」
「私にはその手は水平にしか見えません」
「君も地学のロマンを探求してみないか」
出雲泉水は、降りしきる小雨の中に突然興味深い現象でも発見したみたいに視線を泳がせた。日傘がまた回転する。
「考えておきます」
「気が向いたら3棟1階の地学準備室に来てね。大体毎日開けてる」
「後志さんのついてしまった嘘の辻褄を合わせるのも、地学部のお仕事なのですか?」
「そんなところ。それも地球上で起きている出来事だからね」
勧誘の手応えはない。けれど拒絶されている感じもしない。もしかしたら出雲泉水は見学くらいは来てくれるかもしれないと私は思う。予め、うまく霧島を言いくるめておかないと……。
周囲が急に明るくなって、雨がやんでいることに私は気づく。
雲の合間から顔を出した太陽が、中庭の多湿な空気をきらきらと照らし出す。ぎらりと眩しさを感じて2棟の方を向けば、窓ガラスが光を反射して、明るくなった中庭と薄暗い廊下の間に、さながらマジックミラーの要領で、帯のような鏡面を形成している。
そこを覗けば、映っているのは私一人だけ。
左右は反転している。
上下は反転していない。
吸血鬼は、鏡に映っていない。
「ところで出雲さん」
「はい」
「どうして鏡は、左右は反転するのに、上下は反転しないか、知ってる?」
吸血鬼は鏡に映っていない。けれど、彼女が立っているあたりに、鏡の中で薄靄がかかり始める。
「ご希望なら、上下反転もできますよ」
鏡の中で像を結んだ彼女は、コウモリみたいに窓枠にぶら下がって、逆さまのままで微笑んだ。
私は、ぜひこの子に入部してもらいたいと思った。
第0話『吸血鬼はなぜ鏡の中で上下反転しないのか?』完
初出:pixiv https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=10559213