4ー9(六)
そういえば、布留川と野洲川の交わるこの場所を、布留川デルタと呼んでいるのは聞いたことがない。京都には鴨川デルタと呼ばれている有名な場所があって、あれも鴨川と高野川の合流している場所だから、同じ法則でここを布留川デルタと呼ぶ人がいてもおかしくはないはずだ。
地学部としてはむずかゆい言い方ではある。
だって、川の合流地点は地学用語としては三角州ではない。三角の向きが逆だ。考えてみれば、本物の三角州の街である春島では、デルタの誤用はなおさら許されないのかもしれない。
そんな時間稼ぎの想念を巡らせながら、布留川の側の河川敷に置かれた丸太のベンチに出雲泉水と並んで腰掛け、夕焼けに沈みつつあるのったりとした川を眺めている。
地学部の打ち上げはまた後日で、ということで解散した。クラスの打ち上げがあるとかいう話だったが適当にかわして、そうすると、自然、帰りは出雲泉水と一緒になる。
思い返せば。
流鶯祭の一日目は楽しかった。何も知らない様子の出雲泉水を案内して、目に映る全てに驚き興味を持つ彼女にそれを教えてあげる。
大きな琥珀色の瞳。
振りまかれる金色の祝福。
それが、二日目の今日は色々あって疲れてしまった。隣の吸血鬼は今は押し黙っている。
このまま家に帰ることにはしたくない。
明日は代休だ。
私は予定がない。想像と偏見に過ぎないけれど、出雲泉水もきっと予定なんてないだろう。
前日のことを後悔して休日の長い時間を過ごす苦悩を、私はよく知っている。
明日の出雲泉水がそうであっては欲しくないと思った。
だからここで、残りの謎は解いておく。
少なくとも解ける分は解いておく。その先に、出雲泉水が、彼女の家で、弟との間で、どういう悩みを抱えているのかまでは私には分からない。けれど、あるところまでは私には解ける。そこまでは解く。
解いた上で、大丈夫だと言ってあげる。
橋の上の高架を、時折アカツキトラムラインが滑っていく。ずっと、次の一本が通ったら切りだそう、と考えている。もう三本目だ。トラムは暮れ方の湿った空気に負けずするすると動く。
「あの、本当にすみませんでした」
「もういいよ、それは」
何度目か分からない謝罪の言葉に、あえて軽く言い返す。
「あの、これも、ありがとうございます」
これも何度目か分からないが、まだ出雲泉水は口を付けていなかった。
「はやく飲みなよ」
帰りの電車内――いや車両がいいんだっけ? やっぱり車両でも変だ――でも謝るか黙るかしかしない出雲泉水と共に私も古町駅で降りて、橋を渡ってフラペチーノを二つ買った。昨日、水泳部の妙なアトラクションについて説明したとき、出雲泉水はそもそもフラペチーノを知らなかった。
ハレの日だし、落ち込んでいるし、先輩としてこれくらい奢ってやろうと思ったのだ。霧島には内緒にするよう言い含めておかなければ。
「……甘いですね」
やっと緑色のストローで小さな一口を飲み込んで、出雲泉水は百点満点の感想を言った。
「あの、」
「待て待て待て待て。もう謝るのとお礼言うの禁止。出雲さんらしくないよ」
「すみません……」
「あ、また」
「あ」
さすがにそろそろ、何かを話した方が良さそうだと思った。話そうと決めていた。私は決心する。
私の頭の中だけで解いたのではダメなのだと思った。
メイシちゃんがぴしりと指差して言うのが聞こえる。
今度はそういうわけにはいかなくなる。
これからますます、そういうわけにはいかなくなる。
最後まで謎を解け、六花よ。
「大和くんとは連絡取れた?」
吸血鬼は逡巡した。
「はい。あの……勝手に石を動かして悪かったと本人も言っていました」
工夫して、すみません、と言うのを頑張って堪えたらしかった。えらいぞ。
「うん、それはもう大丈夫。ちゃんと元に戻せたからね」
「それに……」
吸血鬼は言いよどむ。
私は辛抱強く待つ。
トラムがもう一編成、するすると橋の上を滑っていった。
「それに、謝りました」
「出雲さんが?」
「はい。全部私が悪いのです。もとはといえば、私が大和を都合良く呼び出したので」
「弟でしょう? きっと大和くんは出雲さんが悪いなんて思っていないよ。お姉さんに頼られるなら嬉しいはずだ」
あの出雲大和の態度からすると、さてどうだか、とは思う。
けれど私だったら、姉に頼られたら嬉しいはずだ。仮に、そんなことがあったとしたら、だけれど。
「そう、でしょうか」
「そうだよ。それは大和くんにしか頼めないことだって、大和くんの方だって分かっているでしょう」
「…………部長さんは、それが分かったんですか」
また高架の上のトラムやってきて、上りと下りの両方がすれ違う。そこまでされてしまったら、もうどうしようもない。
「分かったよ。地学部の部長として、謎班の先輩として、答えを言おう」
*
出雲泉水さん。
君は吸血鬼だ。それを君は、初対面の私に教えている。鏡への映り方を自由に操作できることをもって。特別それを秘密にしている様子ですらない。おおっぴらに言うことでもないんだろうけれど。
私はそういう、なんだろうな、一般的な科学の埒外にある存在……吸血鬼みたいな、怪異的な存在というのかな。そういうのを、特別身近に感じているわけではないけど、信じていないわけでもないと思う。身内に特殊なのもいるし。あの石だってそうだ……。
だから出雲さんが吸血鬼なのは、それでいい。
でも、先日からの出雲さんの吸血鬼度合いには謎があったと思う。
出雲さんはこの間、あの木から落ちて、腕を怪我したよね。
骨折していた。左腕をギプスで固定していたでしょう。
ところがもう今では何も付けていないし左腕はピンピンしているみたいだね。
吸血鬼って、傷なんて一瞬で治るんでしょう?
だから治ったことは不思議ではない。むしろ、最初に治らなかったことが不思議だ。
治ったのは水害碑を見にいった次の日だよね。
出雲さんは左利きだ。利き手を怪我していたはずの出雲さんが、月曜日に部室で私のところに持って来た原稿には、綺麗な字で手書きの書き足しがあった。だからその時点までに左腕は治っていた。
あれは美術部に了解を取り付けて、それによって書き足すことができた文言だ。美術部に了解を取り付けたのは学校に来てからだ。当たり前だけど。家では頑張ってパソコンで書いて打ち出した原稿に、学校に来てから書き足す必要が生じた。けれど利き手が骨折している。
だからそこで、出雲さんは、必要に駆られて、左腕を治したんだね。
論理的に考えると、そういうことになる。
けれどもちろん、それをどうやって実現するのか私には分からなかった。
謎だった。
その謎が今日解けたと思う。
出雲さんは、弟の大和くんに、私が祠の石と何やら話していたことを伝えていた。さらに、昨日流鶯祭で目撃した珍しい出し物について情報を伝えていた。
その上で、大和くんに流鶯祭に来るように言った。
出雲さんが呼び出したんだよね。だから出雲さんはそんなに後悔しているんだ。
けれど、大和くんが石を誘拐したのは出雲さんが指示したわけではなくて、彼が勝手にやったことだよね。だから出雲さんはああして怒ったんだ。
では何のために大和くんを呼んだのか。
出雲さんがあの教室を出て行った後、大和くんと話したんだけど、私が彼に石を運ぶのを手伝うように言ったとき、彼は「もう用は済んだ」と言った。
彼は結局石を満足に調べることはできていないと思う。それなのに用が済んだという。
ということはあの場で何かが完了したということになるね。
あの場で彼ができたことと言えば、出雲さんに触れたことくらいだ。
私はそれが答えだと思う。
ここで少しジャンプがあることを自覚しているけれど。
出雲大和くんは、出雲泉水さんに触れることで、吸血鬼の力を吸収したんじゃないかな?
彼の吸血鬼としての力はきっと、血というよりむしろ、能力を吸うということなんじゃないかな?
出雲さんは骨折をともかく今すぐ治したかった。
でも骨折を治せる吸血鬼の力を、その時点では十分に持っていなかった。
だから、大和くんに吸い取られていた吸血鬼の力を、一時的に返してもらった。
ずっとそのままでは困るから、再び大和くんに力を渡すために、彼に流鶯祭まで来てもらった。
だから大和くんが石にまだ触っていないといって触れようとしたとき、出雲さんは慌てて止めた。石の能力を……いや、なんの能力なのか私もしらないけれども、吸い取るかもしれないから。
そもそも彼自身それを分かっていたから、石には触らないように気をつけて、一連の誘拐をなしている。
時間をかけて調べられるように、石を祠から別の場所に移したかった。
移す先としては流鶯祭に使われていない3棟がちょうど良かった。
移すために自分が手を触れずに済むように、メイド傭兵を使って、台車に乗せさせた。
作業時間中のアクシデントを防ぐため、写真部を使って私を妨害した。
それにしても材料の使い方が綺麗だな。
ああ、あとあれだ。流鶯まんじゅうもだって言ってた。
あれは流鶯まんじゅうの茶道部員が敷地外まではみ出して客引きをしているからということでいいのかな。
吸血鬼って、やっぱり学校でも、招待されないと入れないの?
*
「……どうしてそこまで、解いてくれるんですか」
出雲泉水は、琥珀色の目を見開いて言った。本当に黄金の宝石のようだ。
「私が地学部の部長で、謎班の先輩だからだ」
私は威張って言った。虚勢だった。これだって緊張はしているのだ。
「……直接聞かないって、この間はここで言っていたのに」
確かに、この間ここで一緒に座っていたときにはそう言った。
けれど、今はそうは思っていなかった。
それは出雲泉水に問われたからでもなくて、メイシちゃんに言われたからでもなくて、
「聞くよ。だって今日の出雲さんを見たら、心配になったから」
本心だった。答えだった。解けない謎の糸口だった。
琥珀色がパチリと瞬きをする。
私はその視線から逃れられなくなる。
もちろん見つめ合っているわけじゃなくて、私はもう川の方を向いているのだけれど、それでも黄金の輝きがこちらに放射されているのがわかって、顔がいよいよ火照った。
「ありがとうございます」
いくらか明るい声でそう言った出雲泉水は立ち上がり、持っていたフラペチーノのカップの蓋を外す。
私がそちらを見た瞬間、彼女は躊躇なくそれを頭の上でひっくり返す。あ、と言うまもなく、薄い茶の液体を、金色の髪に、透き通る白い肌に、いっぱいに浴びる。
「え、ちょっと、出雲さん」
舌を出し、唇に滴る液体を舐めて、出雲泉水は
「これだけ、フラペチーノだけ、大和が使わなかった要素として残っているのが、謎班としては気になっていました」
と言う。そして微笑む。頬にクリームを付けたまま。見たことのない悲痛な微笑みだった。
私が何も言えないでいるうちに、続けて、
「部長さん。私、もう学校に行くのをやめます」
第4話『吸血鬼はなぜ祭の最中に誘拐事件を巻き起こすのか?』完