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渡り廊下の自販機でココアを買って、二本買って一本は霧島に押し付けて、地学準備室に戻る。
1棟と2棟の間で、あの後ろ姿を見かけたが、ひとまずそちらは後にする。まずは霧島に、事の次第を解説してやる必要があるだろう。
地学準備室の部長席(一番綺麗なボロ椅子)に腰掛けて、ココアをすする。
甘い。
「甘すぎる」
「先輩こないだココア買ったときもそれ言ってましたよ」
「わかっていても踏んでしまう地雷みたいなものだな」
「わかっていて踏まないでください」
「わかったと言えば。わかったよ、鏡に映らない吸血鬼の謎」
「……せ、先輩! 本当ですか!?」
霧島がココアの缶を机に叩きつけてこっちを見る。
「後志は出雲泉水が鏡に映らなかったことを見てはいない。かといって鏡に映ったことも見てはいない」
「……どういうことですか」
「後志が倒れたのは、あのトイレじゃないんだ」
「え?」
「想像してみてくれ。霧島はうちのトイレで倒れるなんて、嫌だろう?」
「まあ、嫌ですね。汚いし」
「さっき見に行ったトイレ、床は汚れていたか?」
「いや、汚れてはいなかったですけど……むしろ掃除されたあとって感じでしたね……あれ?」
「おかしいだろう? さっき私達が見たとき、トイレの床はまだ少々濡れていた。後志が倒れた時間帯なら、掃除が終わってまだ間もないから、もっと濡れていたはずだ」
「倒れるところを、出雲泉水が受け止めたのかも」
「霧島、お前最初に言っただろう、保健室の先生が、尻餅をついたときにぶつけたみたい、って言ってたんだろう」
「そ、そうでした」
「掃除が終わって濡れた床。そんなところに尻餅をついて倒れたら、どうなる?」
「スカート、濡れちゃいますね……」
「もしそうなったら、保健室に運ばれたあとでジャージにでも着替えることになる」
「はい、ジャージでしたよ、後志さん。でも」
「そうだ。そのままジャージで帰るしかないはずだ。それなのに後志はさっき、制服に着替えていた。トイレで倒れたなら濡れているはずの制服に。この天気じゃそんなにすぐ乾くわけがないから、それはおかしいんだ。だから後志は、トイレで倒れてはいないんだ」
「じゃあ、後志さんはどうして……」
「どうしてトイレで倒れたなんて嘘をついたのか。どうして吸血鬼が鏡に映らなかったなんて嘘をついたのか」
「……」
「おそらく、後志は倒れた本当の理由を、霧島たちクラスメイトに隠したかったんじゃないか」
「本当の理由?」
「保健室の先生が言っていたんだろう? 貧血だって」
「でも、どうして貧血を隠さなきゃいけないんですか」
「後志は真面目すぎたんだ」
「え?」
「さっきの服の話。もう一つおかしいことがあるだろう」
「……わかりません」
「制服が濡れてしまったら、保健室でジャージに着替える。その後制服に着替えることはできないはずだ。だからそもそも、制服は濡れていない。したがってトイレで倒れたというのは嘘だ」
「はい」
「でも、彼女は保健室でジャージを着ていた」
「……あれ」
「制服が汚れたのでなければ、わざわざジャージに着替える必要はあったのか?」
「制服で寝てたら皺になるから……? いや、でも私達が駆けつけたときが起きたばかりって感じだったから……」
「つまり、保健室でジャージに着替えたのではなくて、もともとジャージを着ていた状態で倒れたんだ」
「なんでわざわざ……?」
「本当に図書室で勉強していたのだとしたら、わざわざジャージに着替える必要なんてない。帰るときに制服に戻しているのだから、トイレで倒れた以外の理由で制服が汚れたわけでもない。霧島、今日お前のクラスは体育あったか?」
「ないです」
「後志は体育の授業があったわけでもなく、部活の練習があったわけでもないのに、ジャージを着ていた。そして貧血を起こして倒れた」
「それって……」
「わかっただろう?」
「……そっか。後志さん、バスケの練習してたんだ」
責任感が強い彼女は、優れない体調の中で無理をして、どこでかは知れないが、一人バスケの自主練をしていた。ジャージ姿でだ。しかし、やっぱり体調が悪い中で、貧血で倒れてしまう。そこに居合わせた出雲泉水に保健室まで運ばれるが、出雲泉水はさっさといなくなってしまう。目覚めたときにはクラスメイトにベッドの周りを取り囲まれ、なんとなく自主練のことは言い出しにくかった。しかもちょっと一人で練習しただけで倒れたというのは、なおさら隠したい。そもそもクラスのみんなから期待がかかっている中で、調子が悪いことを隠したいから一人で練習していたのだから。その状況で、どこで倒れたどうして倒れたと質問攻めにされたから彼女は困ったのだろう。喋りたがらない彼女を見て、本来なら一番状況を知っているはずなのにその場にいない、出雲泉水にクラスメイトたちの意識が向くのは無理からぬ事だ。大方、「もしかして出雲さんからなにかされたの?」みたいなことを誰かが言って、そこから彼女はつい話を合わせて、ストーリーを作って嘘をついてしまったのだ。出雲になにかされたと言ってしまうのはさすがに嘘が過ぎる。だから出雲が鏡に映らないことを目撃した、という、単なる見間違いで処理できる範囲に嘘を抑えた。けれど、鏡がある場所を舞台に設定しないといけなくて、場所に関しては嘘をつかなければならなくなった。もしかしたらそれを誘導してしまったのは、他ならぬ霧島かもしれない。直前まで私と、吸血鬼は鏡に映らないという話をしていたくらいだから。
「そうなれば、お前のすべきことは」
「はい。後志さんがプレッシャーを感じすぎないように、言ってあげます。それにクラスのみんなにも!」
「お前は本当に良いやつだな」
「えへへ」
「褒めてないぞ」
「え、今の褒めてないんですか?」
「褒めてない」
「先輩、あの私、褒めても何も出ないぞっていうのに絡めたネタがあるんで、褒めてもらっていいですか?」
「そんな要請の仕方があるか」
「えへへ、褒めても何も出ませんよ?」
「確実に褒めてないからな」
「とりあえず先に、さっき一緒にいたクラスの子達に話をしてきますね」
「褒めたら胸元から携帯が出た」